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	<title>知・動・説の行方 | dotworld｜ドットワールド｜現地から見た「世界の姿」を知るニュースサイト</title>
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	<description>ドットワールドは、一般財団法人国際開発センター（IDCJ）が運営する国際ニュースの情報サイトです。基本姿勢は、「現地から見た世界を知る」です。開発途上国をはじめ、世界のさまざまな国で起きている事象やニュースについて、現地に精通した識者が背景を掘り下げ、社会的な文脈と併せて分かりやすく解説します。</description>
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	<title>知・動・説の行方 | dotworld｜ドットワールド｜現地から見た「世界の姿」を知るニュースサイト</title>
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		<title>ミャンマー（ビルマ）知・動・説の行方（第15話）</title>
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		<dc:creator><![CDATA[dotworld_admin]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 14 May 2025 08:03:08 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ミャンマー]]></category>
		<category><![CDATA[知・動・説の行方]]></category>
		<category><![CDATA[社会を読み解く]]></category>
		<category><![CDATA[髙谷紀夫]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>　民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みがかつてないほど高まっているなか、文化人類学者で広島大学名誉教授の髙谷紀夫さんが、多民族国家であるにもかかわらず民族の [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p>　民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みがかつてないほど高まっているなか、文化人類学者で広島大学名誉教授の髙谷紀夫さんが、多民族国家であるにもかかわらず民族の観点から語られることが少ないミャンマー社会について立体的、かつ柔軟に読み解いてきた連載も、いよいよ今回が最終回です。<br>
　現地では、2021年２月のクーデター後、国内の混乱が続いているなか、今年３月末には未曾有の大地震に見舞われ、深刻な被害が出ています。さまざまな民族が、時に国境を超えて特異な関係を築きつつ、民族、宗教、言語のさまざまな≪多≫の交錯の中で独特な文化と歴史を築いてきた人々の平和と安寧の日々が一日も早く戻ってくることを願いながらお届けします。</p>

<div id="attachment_17729" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/29d3bc99193cb0b837fb8cc53f050ae5-1.jpg"><img fetchpriority="high" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17729" class="wp-image-17729" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/29d3bc99193cb0b837fb8cc53f050ae5-1.jpg" alt="" width="400" height="270" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/29d3bc99193cb0b837fb8cc53f050ae5-1.jpg 568w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/29d3bc99193cb0b837fb8cc53f050ae5-1-300x202.jpg 300w" sizes="(max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17729" class="wp-caption-text">ミャンマーと中国との国境の街ムセーで開かれた「シャン新年祝賀会」の開会式の様子。 神獣に扮するトー踊りと、神話上の鳥に扮した踊り手が鳥の動きや羽をはばたかせて舞うキナラ・キナリ踊りという 形式化・儀礼化・標準化された二種の「シャン」のパフォーマンスが披露された（2019年11月28日、筆者撮影）</p></div>

<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>ムセーで開かれたシャン新年祝賀会（2019年11月27～28日）</strong></span></p>
<p>　連載の最終回は、シャン文芸文化協会のムセー支部から招待を受け、中国国境の街ムセーで2019年に開かれた新年祝賀会に参加した時のことを振り返りたい。</p>
<p>　ムセーは、筆者にとって憧れの地だった。中部に位置する古都マンダレーから車で北部シャン州内を移動していると、道路脇に立てられた標識に「ムセーまであと何マイル」と記されているのを何度も目にしたためだ。中国とシャン州を結ぶこの陸路、現国道３号線（アジアハイウェー14号線）は、歴史的には、かつて日中戦争で大日本帝国と中華民国国民政府が対立した際、主にイギリス、アメリカ、ソ連が国民政府を軍事援助するために用いた輸送路、いわゆる「援蒋ルート」の一つだ。特に、北部シャン州の中心地ラショーと中国雲南省の昆明を結ぶ幹線道路は、通称「ビルマ公路」とも呼ばれ、時代に翻弄されてきた物資往来の大動脈である。</p>
<p>　このビルマ公路の沿線地帯では、1948年にイギリスから独立後も国軍と少数民族武装勢力の抗争が断続的に勃発し、政情不安が払拭されることはなかった。実際、この年、ラショーからムセーに向かう車窓からは、爆破されて焼け焦げた車が道端に放置されているのが何台か見えた。</p>

<div id="attachment_17730" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/cbf5b9f60da99bf791c0aa12a770f429-1.jpg"><img decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17730" class="wp-image-17730" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/cbf5b9f60da99bf791c0aa12a770f429-1.jpg" alt="" width="400" height="263" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/cbf5b9f60da99bf791c0aa12a770f429-1.jpg 521w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/cbf5b9f60da99bf791c0aa12a770f429-1-300x197.jpg 300w" sizes="(max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17730" class="wp-caption-text">ムセー市内の様子（2019年11月27日、筆者撮影）</p></div>

<p>　ムセー市内に入ると、中国・雲南省ナンバーの車が当たり前のように行き交い、中国との往来や交流が盛んな様子が伝わってきた。そうしたなか、シャン系の人々は多様性と共通性を併せ持ちながら〈シャン文化圏〉を形成してきた。</p>
<p>　このうち多様性は、たとえば新年を祝う時期の違いに見ることができる。ミャンマーやタイ王国、そして中国雲南省西双版納（シーサンパンナ）タイ族自治州では西暦の４月中旬の水掛け祭りを年の変わり目としているのに対し、ミャンマー国内と中国雲南省徳宏（デーホン）地区に住むシャン系の人々は、シャン暦の１月、すなわち西暦の11〜12月に新年を祝うといった具合だ。</p>
<p>　一方、共通性としては、仏教信仰の強さが挙げられる。2019年にムセーで開かれたシャン新年祝賀会がルウェテインカン寺院（シャン語でワット・ロイトゥンカン）という仏教寺院で開かれたことにも、それがよく表れている。集まりやすく、宿泊しやすいという立地上の理由に加え、人々にとって共通の神聖な場所であるため、会場として受け入れられやすかったのだ。事実、シャン族の中で仏教徒の割合は99％に上り、キリスト教徒はわずか１％に過ぎない。</p>

<div id="attachment_17731" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/5e4896966c9944fcf00890f4502605bf.jpg"><img decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17731" class="wp-image-17731" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/5e4896966c9944fcf00890f4502605bf.jpg" alt="" width="400" height="280" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/5e4896966c9944fcf00890f4502605bf.jpg 480w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/5e4896966c9944fcf00890f4502605bf-300x210.jpg 300w" sizes="(max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17731" class="wp-caption-text">ムセーで開かれたシャン仏教徒による新年祝賀会に参加した仏教徒たち（2019年11月27日、筆者撮影）</p></div>

<p>　祝賀会の式次第にもシャン僧侶を迎えた仏教行事が組み込まれ、かつてマンダレーやパンロンで開かれたシャン文芸遺産（リックロン）会議（第11話、第12話参照）で出会ったシャンの高僧が司祭を務めていた。ムセーで出会ったシャンのバプティスト宣教師も、「シャン族にとって宗教的（仏教的）なアイデンティティと民族的なアイデンティティには重なり合う部分が大きい」と話していた。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>「シャンになる」ための仕掛けの具現化</strong></span></p>
<p>　ムセーでは、シャン新年祝賀会の歴史に関するワークショップも開かれた。外国人研究者である筆者を招いたことが一つのきっかけとなって僧俗両方の関係者が資料を持ち寄り、意見交換が行われたのだ。これにより、以前はそれぞれの地元で開かれていた新年祝賀会が、1970年頃よりムセーで合同で祝われるようになった歴史を皆で確認し、共有した。</p>
<p>　時代が前後するが、<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_7/">第７話</a>で紹介した通り、1968年にシャン州都タウンジーでシャンの民族意識の復興と継承を目指す「シャン文芸功労者の日」の祝賀会（シャン語でポイ・クーモー・タイ）が初めて開かれた。近年は北部シャン州が開催の中心地となっているようだが、<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_13/">第13話</a>で紹介した通り、2018年にラショーで開かれた新年祝賀会には、「シャン文芸功労者」を顕彰する50周年記念行事が組み込まれていた。</p>
<p>　この1968年は、ヤンゴンとマンダレーの学生を中心とする新シャン字体普及ボランティアたちが、「五つのシャン基本的技能（シャン語でマ・ハ・トゥ）」をスローガンに掲げて活動を開始した年でもあった。1960年代後半から1970年代は、シャンの民族意識を継承しようという動きが芽生え、「シャンになる」ための仕掛けの具現化に積極的に取り組み始めた時期だったのではないだろうか。</p>
<p>　また、ヤンゴン大学のリーダー格の学生４人のうち一人は、ムセー出身だった。ムセーが中国との国境に位置しているという地理的な条件が、物資の輸送のハブとしてシャンの民族意識を醸成する文化イベントを開催する財政基盤を支えていたという経済面も見逃せない。</p>

<div id="attachment_17755" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/DSC02281-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17755" class="wp-image-17755" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/DSC02281-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/DSC02281-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/DSC02281-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/DSC02281-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/DSC02281-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/DSC02281-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/DSC02281-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17755" class="wp-caption-text">ムセーからマンダレーに向かう道中で見かけたオートバイの運び屋（2019年11月29日、筆者撮影）</p></div>

<p>　なお、ムセーの新年祝賀会が終わると、マンダレーまで知人の車に同乗した。直前にピンウールウィンの国軍士官学校付近に砲弾が撃ち込まれたということで、検問は厳しかったが、シャン新年行事の関係者であることがお墨付きになったのか、問題なく通行できた。道中、中国からマンダレーに向かうオートバイの運び屋がわれわれの車にしばらく並走した。二千年にわたり脈々と受け継がれてきた物流が現代に息づいていることを目の当たりにした思いだった。</p>
<p><strong><span style="font-size: 14pt;">民族を越えた共存関係　自民族史をアピールする動きも</span></strong></p>
<p>　シャンとその周辺民族の交流については、2018年にラショーで出席した全国シャン新年祝賀会（<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_13/">第13話</a>参照）で紹介した通り、シャン系ではない人々、たとえばカチン系の諸民族も祝賀会に参加していた事実が注目される。<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_5/">第５話</a>で引用した英国人類学者リーチの指摘の通り、特にシャン系の人々とカチン系の人々は、現在のカチン州からムセー周辺の北部シャン州、そして国境を挟んだ中国雲南省徳宏タイ族ジンポー族自治州にかけて、長年にわたり民族を越えた共存関係を当たり前のように築いてきた。</p>
<p>　もっとも、筆者が2012年と2018年に全国シャン新年祝賀会に参加した際、ヤンゴンから同行してくれたタイ・カムティ族の男性は、こうしたシャンとカチンの共存関係が薄れつつあるのを憂いていた。彼は、1996年にヤンゴンで第48回「カチン州の日」が開かれた際、息子と娘にカチン風の服装を着せたという。後日、彼からその映像を送ってもらったが、それ以降はそうした話を耳にすることがなかった。シャンとカチンの間には、両者を隔てる透明なガラスの壁があるように感じる。</p>

<div id="attachment_17734" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/DSC02208-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17734" class="wp-image-17734" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/DSC02208-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/DSC02208-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/DSC02208-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/DSC02208-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/DSC02208-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/DSC02208-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/DSC02208-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17734" class="wp-caption-text">ムセーで開かれたシャン新年祝賀会の開会式に出席したカチン系の来賓（2019年11月28日、筆者撮影）</p></div>

<p>　一方、ムセー近隣の街の中で特筆すべきなのは、セーランの成り立ちだ。シャンの年代記に登場するムアン・マオ王国ゆかりの地で、11～13世紀に栄えたバガン王国時代にアノーヤター王の妻となったソーモンフラを記念するパゴダも建立されている。</p>

<div id="attachment_17735" style="width: 277px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/7adfed136bf50c6b1f5c23f5919c3a0a.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17735" class="wp-image-17735" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/7adfed136bf50c6b1f5c23f5919c3a0a.jpg" alt="" width="267" height="400" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/7adfed136bf50c6b1f5c23f5919c3a0a.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/7adfed136bf50c6b1f5c23f5919c3a0a-200x300.jpg 200w" sizes="auto, (max-width: 267px) 100vw, 267px" /></a><p id="caption-attachment-17735" class="wp-caption-text">バガン王国時代にアノーヤター王の妻となったソーモンフラを記念するパゴダ（2019年11月27日、筆者撮影）</p></div>

<p>　ソーモンフラの出自には、諸説ある。19世紀後半から編集されたビルマ王統記『玻璃王宮大王統史』ではムアン・マオの９つの国の王女だと記されている一方、英領植民地期の調査報告書ではシポー（ビルマ語でティボー）・ツァオパーの娘だとされている。</p>
<p>　もっとも、ソーモンフラがどのツァオパーの娘であるかは問題ではない。伝承を形成するうえで重要なのは、彼女がシャンの伝統的な首長であるツァオパーの娘で、ビルマ宮廷とも関わりがあるという経歴であり、そうした彼女の背景は、ビルマとシャンという異なる民族間の関係史の文脈から解釈されるべきなのである。</p>

<a href='https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_15/%e7%94%bb%e5%83%8f7-12/'><img loading="lazy" decoding="async" width="380" height="269" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/b12c8b7e401505670006e9aa6ee0e2d0.jpg" class="attachment-full size-full" alt="" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/b12c8b7e401505670006e9aa6ee0e2d0.jpg 380w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/b12c8b7e401505670006e9aa6ee0e2d0-300x212.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 380px) 100vw, 380px" /></a>
<a href='https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_15/%e7%94%bb%e5%83%8f8-6/'><img loading="lazy" decoding="async" width="454" height="277" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/695e432aa0b80e914efae12cd0be2a70.jpg" class="attachment-full size-full" alt="" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/695e432aa0b80e914efae12cd0be2a70.jpg 454w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/695e432aa0b80e914efae12cd0be2a70-300x183.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 454px) 100vw, 454px" /></a>

<p><span style="font-size: 8pt;">シャンの歴史上、重要なスーカンファ―大王の偉業を讃えて2017年に造営された石碑（左）とパビリオン（右）</span><span style="font-size: 8pt;">（2019年11月27日、筆者撮影）</span><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/b12c8b7e401505670006e9aa6ee0e2d0.jpg"><br>
</a></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　なお、セーランには2008年、シャンの歴史上、重要なスーカンファー大王の偉業を讃えるパビリオンが建設され、2017年には石碑も造営された。2019年にはソーモンフラの博物館も開館するなど、同地ではシャンの自民族史を来訪者に視覚的にアピールする動きが高まっている。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>共存と対立の中で展開してきた≪多≫の座標系のリアリティ</strong></span></p>
<p>　《多》民族国家ミャンマー（ビルマ）の文化と社会のリアリティに迫ろうとすると、民族の団結を謳う国家の枠組みを前提にした横並びの民族観と、それを超えた民族観の両方を考慮する大切さを痛感する。</p>
<p>　<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_3/">第３話</a>では、２月７日を「シャン民族の日」と呼ぶのか、「シャン州の日」と呼ぶのかで見解が分かれることを紹介した。歴史を遡ると「シャン民族の日」という呼称が1947年に決定されたが、国軍のプレゼンスを背景にした〈ビルマ化〉のモーメントの下、公的には「シャン州の日」が用いられる一方、「シャン民族の日」という呼称を堅持する少数民族武装勢力もいる。<br>
　また、<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_5/">第５話</a>では、カチン州とザガイン管区に多数のタイ・リェン（ビルマ語でシャン・ニー）と呼ばれる人々が居住していることを紹介した。その後、筆者は2025年２月、彼らのウェブサイトに２月７日の呼称に関するコラムが掲載されたのを目にした。「もともと２月７日は＜シャン民族の日＞として祝賀していたが、軍事政権によってシャン文芸文化組織が解体されて＜シャン州の日＞と呼ばれることになったことから、シャン州に住んでいないシャン民族は疎外感を抱いている」という内容で、軍事政権が主導する〈ビルマ化〉の影響と、シャン州を舞台にした〈シャンのシャン化〉（<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_7/">第７話</a>参照）に対するタイ・リェンの人々の焦燥感と危機感が伝わってきた。シャン系の人々の自民族意識には、苦悩を伴う多様性がある。</p>

<div id="attachment_17738" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/184e1fbbe38c6fb97ef918a7cd7090a8.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17738" class="wp-image-17738" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/184e1fbbe38c6fb97ef918a7cd7090a8.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/184e1fbbe38c6fb97ef918a7cd7090a8.jpg 500w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/184e1fbbe38c6fb97ef918a7cd7090a8-300x200.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17738" class="wp-caption-text">ムセー市内では、中国雲南省ナンバーの車をしばしば見かけた（2019年11月26日、筆者撮影）</p></div>

<p>　一方、シャン州内でも近年、新たな動きが見られる。内務省傘下の総務局が出した2019年の報告書に、1983年の国勢調査で類別されたシャン群の33民族には含まれていなかった民族がいくつか新たに加わったのだ。主に北部シャン州クッカイ郡に居住するモンワン族がその一つである。彼らは、文化的には33民族の一つであるコーカン族に近い中国系の民族であり、公定民族として認めてほしいと1980年に政府に請願書を出していた。その後、政府の許可を得て2006年に出版されたモンワン民族誌には、国軍との蜜月ぶりを示す写真が多く掲載されている。</p>
<p>　さらに、タノー民族も新たに加わった。筆者は2025年３月、南部シャン州で第１回「タノー民族の日」の祝賀会が開かれたことをインターネット上の記事で知った。記事によれば、タノー族は言語学的にはパラウン族や“ワ”族と同系で、パラウン族とシャン族の混血だという。</p>
<p>　こうした事実は、モンワン族やタノー族の存在が政府に認知されつつあることを示している。民族誌の出版も、民族の日の祝賀も、〈シャン文化圏〉における多様化と細分化した民族意識の萌芽であり、新たな自己主張の動きだと筆者は見ている。</p>

<div id="attachment_17739" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/6d58f877a83b152a3c3b13756107b189.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17739" class="wp-image-17739" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/6d58f877a83b152a3c3b13756107b189.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/6d58f877a83b152a3c3b13756107b189.jpg 320w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/6d58f877a83b152a3c3b13756107b189-300x200.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17739" class="wp-caption-text">ムセーでシャン新年祝賀会が開かれた翌29日からは、雲南省徳宏（デーホン）タイ族ジンポー族自治州でも２日間にわたり祝賀会が開かれると聞いた。写真は、ムセーのシャン文芸文化協会に届いた招待状。国境を越えて互いに行き来し、交流している様子が伝わってきた（2019年11月26日、筆者撮影）</p></div>

<p>　しかし、多様化・細分化した民族意識が今後、連帯や共存より、民族自治地域の拡大や新たな民族州の獲得へと向かった場合は、民族間の分断や対立が激化する危険性がある。特に、2021年２月にクーデターが起きて以降、その傾向が強まっていると筆者は感じる。軍事政権と民主派勢力の間にとどまらず、民族間や同系の民族同士でも、戦闘や抗争が断続的に起きている。今後も、国境をまたぐ中国の存在感と影響力を考慮しつつ、〈シャン文化圏〉の諸民族の動向から目が離せない。</p>

<div id="attachment_17740" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/150959d4ab52349cdf0bcb83e72c980e.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17740" class="wp-image-17740" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/150959d4ab52349cdf0bcb83e72c980e.jpg" alt="" width="400" height="268" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/150959d4ab52349cdf0bcb83e72c980e.jpg 544w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/05/150959d4ab52349cdf0bcb83e72c980e-300x201.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17740" class="wp-caption-text">ムセーで開かれたシャン新年祝賀会の参加者と筆者（右端）（2019年11月28日、筆者提供）</p></div>

<p>　これまで見てきたように、ミャンマー（ビルマ）における民族・宗教・言語の《多》の座標系のリアリティは、マジョリティである「ビルマ語を母語とするビルマ族仏教徒」の存在を基軸に、マジョリティとマイノリティの共存と対立、そしてマイノリティ同士の共存と対立という構図の中で展開してきた。〈ビルマ化〉の流れの中でマイノリティの文化と社会だけが変化してきたのではなく、時に取り込まれ、時に抗い、時に競い合いながら相克してきたのだ。そう考えると、「Aという民族はA語を母語とし、A文化を保持している」という横並びの民族の見方は、民族同士の共存と対立の歴史をまったく考慮しない、表層的なものだと言えよう。</p>
<p>　筆者は、ミャンマー（ビルマ）とその周辺地域において、《多》の座標系と交錯する〈シャン文化圏〉の多様性と動態を念頭に置きつつ、「シャンである」ことと「シャンになる」ことのリアリティについて「知・動・説」のサイクルで考え続けている。今回の連載が、読者の皆さんにとって、立体的で柔軟な民族観を構築し、ミャンマー（ビルマ）を理解する一助になったなら幸いである。　【連載完】</p>
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		<title>ミャンマー（ビルマ）知・動・説の行方（第14話）</title>
		<link>https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_14/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[dotworld_admin]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 07 May 2025 08:00:43 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ミャンマー]]></category>
		<category><![CDATA[知・動・説の行方]]></category>
		<category><![CDATA[社会を読み解く]]></category>
		<category><![CDATA[髙谷紀夫]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>　民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは、宗教や言語、文化、そして歴史などを共有し、民族意識により結び付い [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p>　民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは、宗教や言語、文化、そして歴史などを共有し、民族意識により結び付いた人々の集まりを指すとされますが、多民族国家ミャンマーをフィールドにしてきた文化人類学者で広島大学名誉教授の髙谷紀夫さんは、文化と社会のリアリティに迫るためには、民族同士の関係の特異性や、各民族の中にある多様性にも注目し、立体的で柔軟な民族観の構築が必要だと言います。</p>
<p>　特にビルマとシャンの関係に注目してきた髙谷さんが、多民族国家であるにもかかわらず民族の観点から語られることが少ないミャンマー社会について、立体的、かつ柔軟に読み解く連載の第14話です。</p>

<div id="attachment_16466" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01233-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16466" class="wp-image-16466" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01233-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01233-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01233-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01233-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01233-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01233-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01233-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16466" class="wp-caption-text">ターバン状にしたタオルや布を頭部に巻く姿が特徴的なパオ族（2019年３月20日、筆者撮影）</p></div>

<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>「パオ族の日」の祝賀会（1984年３月16日）</strong></span></p>
<p>　<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_1/">第１話</a>で紹介したように、ラングーン大学（現在のヤンゴン大学）にはさまざまな民族の人々がいて、それぞれに文芸文化委員会を組織していた。パオ族の文芸文化委員会も歴史があり、精力的に活動していた。筆者は、文部省（当時）のアジア諸国等派遣留学生として同大学に留学していた1983年から1984年の２年間、シャン族やカレン族（ビルマ語でカイン族）、チン族など、さまざまな民族の記念日に参加する機会に恵まれたが、なかでもパオ族の積極的な活動ぶりは印象に残っている。</p>
<p>　パオ族といえば、ターバン状にしたタオルや布を頭部に巻いている姿が知られている。そんなパオ族は、ビルマ語で「山の民」を意味する「タウンドゥー」とも呼ばれてきた。平地に住むビルマ族がそう呼ぶようになったと考えられる。</p>

<div id="attachment_16755" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01313-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16755" class="wp-image-16755" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01313-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01313-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01313-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01313-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01313-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01313-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01313-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16755" class="wp-caption-text">パオ族の日の祝賀会で晴れやかに笑う参加者の女性（2019年３月20日、筆者撮影）</p></div>

<p>　大学で開かれた「パオ族の日」の祝賀会に参加したのは、1984年の３月16日のことだった。パオ族の日は、西暦では３月頃、ビルマ暦でダバウン月の満月の日に当たる。仏教信仰に篤く、現在のモン州のタトーンに、シェザヤン・パゴダを建立した王がこの日に生まれたという伝説にちなんでいる。当日はキャンパス内に設けられたステージで舞踊が披露され、僧侶が鑑賞していたのも印象的だった。</p>
<p>　2006年に出版された彼らの自民族誌には、ヤンゴン大学、マンダレー大学のパオ文芸文化委員会が主導し、毎年、パオ族の日祝賀会を開催していると記されている。パオ族は、<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_1/">第１話</a>で紹介した諸民族文化発表共演大会でも、主要８民族に加えて独自にステージ・パフォーマンスを披露しており、積極的な活動の様子がうかがえた。</p>
<p><strong><span style="font-size: 14pt;">タオルや布を頭に巻いた「山の民」</span></strong></p>
<p>　それから35年の歳月が経過した2019年３月20日、マンダレー大学で講演するためにミャンマーを訪れた筆者は、ヤンゴン大学でパオ族の文芸文化委員会議長を務めていた教員に誘われ、ヤンゴン管区内のパオ寺院で開かれたパオ族の日の祝賀会に参加する機会を得た。</p>
<p><iframe loading="lazy" title="YouTube video player" src="//www.youtube.com/embed/m1KVqCnPvrk?si=NOX-V9IUH6FCRGeK" width="560" height="588" frameborder="0" allowfullscreen="allowfullscreen"></iframe></p>
<p>　当時は、アウンサンスーチー氏率いる国民民主連盟(NLD)が政権を掌握しており、祝賀会の式次第にもそのことがうかがえた。当日は、僧侶への仏飯喜捨に始まり、パオ族の旗の掲揚やパオ族の歌の斉唱、ミャンマー国歌の斉唱などが行われた。その後、来賓として招かれたヤンゴン管区のラカイン民族担当議員（<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_9/">第９話</a>参照）が祝辞を述べ、135民族の多様性と関係性に言及しつつ、民族団結の重要性を強調した。アウンサンスーチー国家顧問や、パオ民族組織（PNO）代表からの祝辞の代読もあった。食事の饗応を受けた後は、博士号を取得した僧侶や、ダンマサリヤ・パーリ語の国家検定合格者の表彰、大学入試の成績優秀者への賞状授与なども行われた。</p>
<p>　パオ族を視覚的に特徴付けるのは、前述のように、ターバン状にしたタオルや布を頭部に巻いている姿である。イベントでは、男女を問わず参加者の多くが、龍のブローチやパオ族の旗のバッジを左胸につける。さらに女性たちは、ターバンの間に龍形の飾り物を挿す。パオ族のシンボルは、男性の行者と雌の龍の化身のペアで、垂れ幕や参加者のリボン徽章にも描かれていた。</p>
<p><iframe loading="lazy" title="YouTube video player" src="//www.youtube.com/embed/_siPiZMxTTA?si=efuEt6hK973WoUhK" width="560" height="315" frameborder="0" allowfullscreen="allowfullscreen"></iframe></p>
<p>　開会式が終わった後、パオ族の僧侶と共に筆者に同行してくれたヤンゴン大学の教員にパオ族の文化保護活動の近況を聞いたところによれば、ヤンゴン市内にはパオ族ゆかりの寺が23あり、うち２つの寺院で同じように修学僧を受け入れているということだった。また、ほとんどのパオ族は仏教徒で、仏教信仰に根差した諸活動を行っているという。なお、パオ族の中央文芸文化組織は、シャン州都のタウンジーで20年ほど前に設立されたと聞いた。</p>
<p>　この教員とは、彼女が博士論文を執筆している時に親しくなった。彼女は、故郷シャン州の州都タウンジーで毎年11月中旬に開かれる熱気球祭りをテーマに取り上げ、2009年から2012年にかけてフィールドワークを行い論文を仕上げた。この祭りは、お釈迦様をロウソクの光で迎えるという習慣から始まった仏教信仰に基づくダザウンダイン灯明祭りの一環として行われてきたものである。しかし、彼女は論文の中で、熱気球を上げるチームの中に仏教徒でない人々、具体的にはムスリムが参加している様子を描き、「この祭礼の場で社会統合や社会的同化を促すような創造的なパフォーマンスが見られる」と分析していたため、驚いた。なお、この熱気球祭りは、2020年初頭から広がったコロナ禍と、翌2021年に起きた軍事クーデターの影響を受けて３年ほど中断されていたが、2023年より再び開かれている。</p>
<p><strong><span style="font-size: 14pt;">人口的にも経済的にも存在感を発揮</span></strong></p>
<p>　パオ族が集住しているのは、カレン州、モン州、そしてシャン州である。このうち、カレン州とモン州では、パオの民族担当議員が任命されている。シャン州では、2008年のミャンマー連邦共和国憲法によってパオ族の自治地域を設置することが認められた。<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_3/">第３話</a>で引用した2019年の総務局の報告によれば、シャン州内のパオ族の人口は約68万人。このうち、前出の熱気球灯明祭りが行われるタウンジーでは、約38万人のうち16万人がパオ族と最も多く、ビルマ族が約15万人である。なお、シャン族が約2.6万人にとどまっていることを鑑みても、祭礼の主体はパオ族だと言える。前述のヤンゴン大学の教員が、博士論文のテーマに熱気球灯明祭りを選んだこともうなずける。</p>

<div id="attachment_16759" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01198b-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16759" class="wp-image-16759" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01198b-scaled.jpg" alt="" width="400" height="226" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01198b-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01198b-300x169.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01198b-1024x578.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01198b-768x433.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01198b-1536x867.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01198b-2048x1156.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16759" class="wp-caption-text">パオ民族の祝賀会では、博士号を取得した僧侶や、ダンマサリヤ・パーリ語の国家検定合格者の表彰、大学入試の成績優秀者への賞状授与なども行われた（2019年３月20日、筆者撮影）</p></div>

<p>　そんなパオ族は、近年、経済面でも存在感を増している。タウンジーとインレー湖周辺は、ミャンマーの最大都市ヤンゴンを除けば、バガン、マンダレーと並ぶ同国有数の観光地である。1990年代から開放政策が進められる中で、大規模なリゾートやバンガローが複数、建設された。</p>
<p>　なかでも代表的な施設が、前出のPN0がオーナーを務めるゴールデン・アイランド・コテージというインレー湖畔の水上コテージである。軍事政権と停戦合意を樹立したPNOは、地域開発の主体として活動しつつ、南部シャン州の治安維持を担うようになり、観光産業にも参入した。1996年に南岸のナンパンで開業し、2000年には東岸のタレーウーでもオープンした。ホテル観光省の統計によれば、ミャンマーに空路で入国する外国人観光客は2014年に100万人を超え、コロナ禍直前には180万人近くに達したが、その後、2020年には33万人、2021年は２万人足らずに激減した。ウェブを見る限り、どちらのホテルも今なお営業を続けているようだが、2021年の軍事クーデター後、現地では混迷が続いており、観光セクターの現状は不透明である。</p>
<p>　なお、インレー湖の周辺には、インダー族が居住している。上述した2019年の総務局報告では、人口はシャン州内で約13万人。インダー族と言えば、<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_3/">第３話</a>で紹介したラングーン大学のシャン文芸文化委員会の書記長は、インダー族であった。「インダー」とは、ビルマ語で「湖の人」という意味である。文化的にはシャン文化の影響を強く受けているが、言語的にはビルマ語の方言を話す。自分たちは、インダーと同じ語源に由来する「アンサー」と呼ぶ。</p>
<p>　インダー族は、パオ族と違い反政府闘争に組織的に参加することはなく、民族自治地区も与えられていない。その理由は、逆説的に言えば、彼らがマジョリティであるビルマ族と明示的に対立関係になかったためだと言えるかもしれない。</p>

<div id="attachment_16761" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01234-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16761" class="wp-image-16761" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01234-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01234-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01234-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01234-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01234-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01234-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC01234-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16761" class="wp-caption-text">パオ族の女性たちはターバン状に巻いた布の間に龍形の飾り物を挿す（2019年３月20日、筆者撮影）</p></div>

<p>　ヤンゴン管区内にどれくらいのパオ族が居住しているかは、残念ながら統計がない。しかし、冒頭で紹介した通り、筆者が1984年にラングーン大学で、そして2019年にはヤンゴン管区内の寺院で参加した「パオ族の日」の祝賀イベントは、上述のように十分に自民族意識の高揚が感じられ、その存在感を確実に伝えるものであった。</p>
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		<title>ミャンマー（ビルマ）知・動・説の行方（第13話）</title>
		<link>https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_13/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[dotworld_admin]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 23 Apr 2025 06:28:13 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ミャンマー]]></category>
		<category><![CDATA[知・動・説の行方]]></category>
		<category><![CDATA[社会を読み解く]]></category>
		<category><![CDATA[髙谷紀夫]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://dotworld.press/?p=17216</guid>

					<description><![CDATA[<p>　民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは宗教や言語、文化、そして歴史を共有し、民族意識により結び付いた人々 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p>　民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは宗教や言語、文化、そして歴史を共有し、民族意識により結び付いた人々の集まりを指すとされますが、多民族国家ミャンマーをフィールドにしてきた文化人類学者で広島大学名誉教授の髙谷紀夫さんは、文化と社会のリアリティに迫るためには、民族同士の関係の特異性や、各民族の中にある多様性にも注目し、立体的で柔軟な民族観の構築が必要だと言います。</p>
<p>　特にビルマとシャンの関係に注目してきた髙谷さんが、多民族国家であるにもかかわらず民族の観点から語られることが少ないミャンマー社会について、立体的、かつ柔軟に読み解く連載の第13話です。</p>

<div id="attachment_17217" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00625b-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17217" class="wp-image-17217" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00625b-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00625b-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00625b-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00625b-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00625b-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00625b-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00625b-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17217" class="wp-caption-text">北部シャン州のラショーで開かれた「全国シャン新年祝賀会」の開会式の様子（2018年12月８日、筆者撮影）</p></div>

<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>第三回全国シャン新年祝賀会（ラショー、2018年12月６～９日）&nbsp;</strong></span></p>
<p>　今回は、2018年12月に北部シャン州の中心地、ラショーで開かれたシャン新年祝賀会に参加した時のことを紹介しよう。これは、2012年のケントゥン（<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_8/">第８話</a>参照）と、2014年のタウンジー（<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_10/">第10話</a>参照）に続きシャン文芸文化協会の中央本部が主導した三回目の全国レベルの祝賀会で、シャン暦の元日（ビルマ暦ナドー月白分１日）にあたる西暦の12月８日をはさんで前後４日間にわたり盛大に開催され、全国からシャン文芸文化協会34団体の代表者が集まった。</p>
<p>　筆者は、祝賀会が始まる前日の12月５日に飛行機でヤンゴンからラショーに移動し、宿泊所があったマンスー僧院で、カチン州とザガイン管区から来ていたタイ・リェン（ビルマ語でシャン・ニー）の人々と懇談する機会を得た。彼らは前出の三回の全国シャン新年祝賀会と、シャン文芸遺産（リックロン）会議（<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_11/">第11話</a>、<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_12/">第12話</a>参照）にすべて積極的に参加していたシャン系の人々である。<br>
　一行は、カチン州に住むシャン系の人々に関する説明資料に加え、彼らが少数民族武装集団のカチン独立軍から日々、受けている被害の概要をまとめた配布用資料を事前に準備していた。翌日からの舞台で披露する舞踊の練習に励む若者たちを横目に見ながら境内の一角で受けた説明からは、シャン系の人々の中でもマジョリティと言えるシャン州のシャン族とは対照的に、他の民族に埋没しがちなカチン州とザガイン管区に住むシャン系の人々の存在感をアピールしたいという切なる願いが伝わってきた。　</p>

<div id="attachment_17252" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00432-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17252" class="wp-image-17252" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00432-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00432-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00432-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00432-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00432-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00432-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00432-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17252" class="wp-caption-text">「全国シャン新年祝賀会」の来賓席で記念撮影に応じるタイ・カムティ長老（左端）と、ザガイン管区タムー郡のシャン文芸文化協会代表（中央）。右端は筆者（2018年12月６日、筆者提供）</p></div>

<p>　代表は「カチン州では、かつてシャン語でムアンコンと呼ばれていた町がモーガウンというビルマ語の名前で呼ばれるようになったり、かつてシャン語でムアンヤンと呼ばれていた町がビルマ語でモーニィンと呼ばれるようになったりしており、ビルマ語化が進んでいる」「学校での教授言語をシャン語にしようと試みたことがあるものの、人々はシャン語を忘れ、シャン民族としての意識が希薄化しつつあるのが実情だ」と述べ、危機感をあらわにした。さらに代表は、「シャン諸民族について語らずしてカチン州は語れない」と強調したうえで、「カチン州議会には、州内の人口に応じてシャン民族担当議員が一人任命されている。もう一人推薦できれば、事態が好転する可能性がある」と続けた。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>文芸功労者の顕彰式が組み込まれたプログラム</strong></span></p>
<p>　翌６日に３回目の全国シャン新年祝賀会が始まった。４日間にわたるプログラムの皮切りは、ラショー市内のシャン文芸文化協会会館で開かれたシャン文芸功労者の顕彰式（シャン語でポイ・クーモー・タイ）だった。それまでも筆者は、ヤンゴンの新年祝賀会（<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_9/">第９話</a>参照）や中国国境の町ムセーの新年祝賀会（第15話で紹介予定）で伝説的な文芸功労者を紹介したり、現役の功労者を顕彰したりする式典に参加したことがあったが、顕彰式が正式なプログラムに組み込まれた新年祝賀会に出席したのは、この時が初めてだった。1968年12月に文芸功労者の日が初めて祝賀されてちょうど50周年にあたるため盛大に祝賀されたということだった。<br>
　この年は、<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_7/">第７話</a>で紹介した６人に加え、主に20世紀に文芸遺産に貢献した僧侶３坊と俗人３人の計12人が顕彰された。壇上に安置された仏陀像の左右には彼らの肖像画や写真が並べられ、右端にはシャン民族の旗が、左端にはミャンマー国旗が掲げられていた。式典の最後には、存命の功労者としてさらに３人が紹介され、記念品の贈呈も行われた。</p>

<div id="attachment_17275" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00327-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17275" class="wp-image-17275" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00327-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00327-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00327-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00327-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00327-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00327-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00327-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17275" class="wp-caption-text">シャン文芸功労者の顕彰式で記念品を贈呈されるシャン長老ウー・サイアウントゥン（左端：第３話参照）（2018年12月６日、筆者撮影）</p></div>

<p>　顕彰式の後は、ラショー市郊外の造成地に場所を移して新年祝賀会が開かれた。会場にはシャン民族の歌唱や舞踊、芝居が披露されるステージが設営され、シャン文化を紹介するブースや、シャンの食事を提供する屋台が客席を取り囲むように並んでいた。</p>
<p>　夕刻になると、色違いの衣装をまとったシャン族の女性たちが200人ほどステージ前の広場に集まってきた。さらに、神獣の舞を表現するトー踊りや、神話に出て来る鳥たちの舞を表現したキナラ・キナリの踊り手たち、太鼓と鐘の奏者たちの姿もあった。男女のペアが20～30組、ステージ上に並んでシャンの旗に敬礼したのを皮切りに、４日間にわたる歌舞のパフォーマンスが始まった。</p>

<div id="attachment_17277" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00408-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17277" class="wp-image-17277" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00408-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00408-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00408-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00408-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00408-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00408-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00408-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17277" class="wp-caption-text">「全国シャン新年祝賀会」の初日にステージ前に整列したシャン族の女性たち（2018年12月６日、筆者撮影）</p></div>

<p>　筆者は来賓席から舞台を楽しみながら、インド東北部から参加していたタイ・アホムの一団や、彼らをインド国境まで出迎に行き、ラショーに連れてきたというザガイン管区タムー郡のシャン文芸文化協会代表と知り合った。全国規模のシャン新年祝賀会に参加するのは初めてだという彼は、いささか緊張しながらも、他のシャン文芸文化協会代表らとの交流を楽しんでいるようだった。</p>
<p><strong><span style="font-size: 14pt;">民族意識と民族言語をめぐる位相</span></strong></p>
<p>　３日目の12月８日がシャン新年の元日だった。午前９時から政府関係者が出席して式典が開かれた後は、ステージ上で歌舞のパフォーマンスが終日、行われた。</p>
<p>　この日の夕方、全国から集合したシャン文芸文化協会の代表者たちによる意見交換会がマンスー僧院で行われ、筆者も同席させてもらった。各代表が一言ずつスピーチするなかで、印象的な場面があった。初めて全国規模のシャン新年祝賀会に参加したという前出のザガイン管区タムー地区の代表が「私はビルマ語でしかスピーチができない」と告白した後、落涙したのである。</p>
<p style="line-height: 28.8px;">　そんな彼の姿を目の当たりにして、筆者は、カチン州とザガイン管区から参加していたタイ・リェンの一行がほぼ全員、ビルマ語しか話さず、シャン語をほとんど理解できていないのを、シャン語を母語とする筆者の知人が冷ややかに見ていたことを思い出した。シャン系の人々の間でも、民族言語であるシャン語に対する距離感はさまざまで、温度差がある。具体的に言えば、シャン語が理解できず、ビルマ語を母語としているもののシャン族としてのプライドを保っている人もいれば、シャン語ができないことに劣等感を感じている人もいるのだ。また、シャン語を”当たり前”のように母語として操り、シャン語ができないシャン系の人々に独特なまなざしを向ける者もいる。<br>
　この事実から、筆者は、シャン系の人々の間で「シャンである」ことの民族意識と、シャン語を習得して「シャンになる」ことの位相が交錯しているのを感じた。シャン語が理解できることは、「シャンである」ことと、「シャンとして認められる」ことにとって、どの程度、必須なのか。その背景には、母語の「ビルマ化」に対する意識が絡んでいる。</p>

<div id="attachment_17278" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00426-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17278" class="wp-image-17278" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00426-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00426-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00426-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00426-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00426-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00426-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00426-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17278" class="wp-caption-text">「全国シャン新年祝賀会」の初日には、神話に出て来る鳥に扮したキナラ・キナリの踊り手たちがステージを背に舞を披露した（2018年12月６日、筆者撮影）</p></div>

<p>　最終日の12月９日の夜、閉会式が行われた。軍管区の司令官が臨席したため、会場には幾分、緊張感も漂っていたかもしれないが、司令官自身は周囲と和やかに懇談しているように見えた。閉会式では、ラショー在住のフモン族や、カチン系のラワン族が舞踊を披露した後、ラショー大学の学生や、タイ・カムティ、ラショー在住のパラウン族、そしてヤンゴンで開かれた新年祝賀会の終了後に陸路駆けつけたヤンゴン大学のシャン文芸文化委員会代表らがパフォーマンスを行い、インドから参加したタイ・アホムがステージのフィナーレを飾った。</p>
<p style="line-height: 28.8px;">　なお、この日、ステージ上にはシャン語とビルマ語で「シャン新年祝賀会」と記されたバナーが掲げられていたが、両側のスクリーンにはビルマ語で「シャン州新年祝賀会」と投影されており、関係者の間で物議を醸したことを記しておきたい。このエピソードは、地元シャン州だけではなく、カチン州やザガイン管区、バゴー管区、ヤンゴン管区、ザガイン管区、そしてはるばるインドからもシャン系の文芸文化団体が集まり、全国規模の祝賀会の開催にこぎ着けたことを自負する人々が、「シャン州」という冠称に違和感を抱いた事実を如実に示していたと言えよう。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>矛盾する民族意識の求心力とビルマ化の遠心力　</strong></span></p>
<p>　期間中、ラショー市郊外のメイン会場は連日、賑わっていた。その盛会ぶりと対照的に、ラショー市内のシャン文芸文化協会会館は、初日に文芸功労者の顕彰式が開かれた後も、並行してシャン文芸文化に関する報告会が開催されていたにもかかわらず、終始、閑散としていた。この報告会に発表者として名を連ねていた冒頭のタイ・リェンの人々は、聴衆の反応の希薄さに何を感じただろう。筆者は、シャン新年祝賀会に集まったシャン系の人々の間の関係性のリアリティを目の当たりにした思いだった。</p>

<div id="attachment_17253" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00669-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17253" class="wp-image-17253" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00669-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00669-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00669-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00669-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00669-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00669-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC00669-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17253" class="wp-caption-text">インドから来訪したタイ・アホムの人々やシャン知識人とともに記念撮影する筆者（後列右から４人目）（2018年12月８日、筆者提供）</p></div>

<p>　シャン系の人々の居場所は、国内外に広がっている。そして、文化イベントの企画者は、シャン系の人々が各地から集合し、ネットワークを構築して連帯することを強く期待している。その現実と願望には、ビルマ王朝時代からその後の英領植民地時代、そして独立後にいたる歴史観や、“再”構築された自民族観、公用語であるビルマ語のプレッシャーを受けながらシャン語で教育を行う難しさ、さらにシャン州と他の行政単位に居住するシャン系の人々の間の意識のギャップなどの要素が交錯していると言えよう。シャン系の人々の連帯を願う民族意識の求心力と、ビルマ化のモーメントに影響される遠心力の間で、矛盾するベクトルが絡み合っている。<br>
　「シャンである」ことと、「シャンになる」ことについてひも解くことは、当事者にとって、空間的に広く、時間的に深く、そして課題として重いことなのである。</p>
<p>（編集部注：第14話は５月７日に公開予定です）</p>
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		<title>ミャンマー（ビルマ）知・動・説の行方（第12話）</title>
		<link>https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_12/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[dotworld_admin]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 16 Apr 2025 08:21:38 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ミャンマー]]></category>
		<category><![CDATA[知・動・説の行方]]></category>
		<category><![CDATA[社会を読み解く]]></category>
		<category><![CDATA[髙谷紀夫]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://dotworld.press/?p=17211</guid>

					<description><![CDATA[<p>　民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは宗教や言語、文化、そして歴史を共有し、民族意識により結び付いた人々 [&#8230;]</p>
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<p>　特にビルマとシャンの関係に注目してきた髙谷さんが、多民族国家であるにもかかわらず民族の観点から語られることが少ないミャンマー社会について、立体的、かつ柔軟に読み解く連載の第12話です。</p>

<div id="attachment_17029" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/Panglong-6.png"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17029" class="wp-image-17029" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/Panglong-6.png" alt="" width="400" height="265" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/Panglong-6.png 1500w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/Panglong-6-300x199.png 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/Panglong-6-1024x679.png 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/Panglong-6-768x509.png 768w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17029" class="wp-caption-text">シャン州のパンロンで開かれたシャン文芸遺産（リックロン）会議の開会式でテープカットするオックスフォード・サヤドー（2017年12月27日、筆者撮影）</p></div>

<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>パンロンで開かれたシャン文芸遺産会議（2017年12月27～30日）</strong></span></p>
<p>　今回は、<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_11/">第11話</a>で紹介したシャン文芸遺産会議（シャン語で「リックロン」会議）とシャン史研究会議が、翌2017年12月にパンロンで開かれた時の模様を紹介しよう。</p>
<p>　南部シャン州のロイレム郡に位置するパンロン（ビルマ語でピンロン）は、ビルマ（ミャンマー）史のなかで記念碑的な地である。ビルマ側の代表だったアウンサン将軍と複数民族が1947年にこの地で協定を結び、独立へのシナリオを合意したという事実は、この国の歴史観を形成する重要なプラットフォームになっているためだ。アウンサン将軍の娘であり、2016年より国家顧問を務めていたアウンサンスーチー氏が主導した国民民主連盟（NLD）の政権下で開かれた《多》民族間会議は「21世紀パンロン会議」と呼ばれたが、その意義はこうした歴史を知ってこそ鮮明になる。もっとも、2017年当時は、特に外国人がパンロンに立ち入ろうとすると、事前に特別許可を取得しなければならなかった。</p>

<div id="attachment_17244" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-2.png"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17244" class="wp-image-17244" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-2.png" alt="" width="400" height="265" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-2.png 1500w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-2-300x199.png 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-2-1024x679.png 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-2-768x509.png 768w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17244" class="wp-caption-text">パンロンで開かれたシャン文芸遺産会議の参加者を歓迎する看板（2017年12月29日、筆者撮影）</p></div>

<p>　筆者は2017年12月、冒頭のシャン文芸遺産会議に参加するためにパンロンを訪ねた。ヤンゴンを早朝に発って、南部シャン州の玄関口であるヘーホー空港でインド東北部から来たタイ系民族らの同行者と合流し、州都タウンジーを経由して宿泊地のロイレムに到着した時には、すっかり日が暮れていた。会議が開かれるパンロン市内には外国人が宿泊できる宿舎がなかったため、ロイレムに滞在しながらパンロンに通うことになったのだ。</p>
<p>　とはいえ、特別許可がない者の滞在は認められていないのはロイレムも同じで、到着した日に警察から受けたチェックは、筆者が以前、北部シャン州を訪ねた時に経験した以上に厳しかった。後日、独立系メディアであるイラワジ紙の英語版が伝えたところによれば、この月の中旬にパンロンで開かれたシャン諸民族間対話がミャンマー国軍によって妨害されたという。われわれが公式に開催を認められたシャン文芸遺産会議の出席者であることは、行政側の一部には伝わっていたものの、必要書類の確認などで一悶着があり、この夜は宿舎近くの市場で遅い晩ご飯を食する羽目になった。</p>

<div id="attachment_17245" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-4.png"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17245" class="wp-image-17245" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-4.png" alt="" width="400" height="265" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-4.png 1500w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-4-300x199.png 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-4-1024x679.png 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-4-768x509.png 768w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17245" class="wp-caption-text">パンロンで開かれたシャン文芸遺産会議後に記念撮影をする参加者たち（2017年12月27日、筆者撮影）</p></div>

<p>　翌日から４日間にわたり、シャン文芸遺産会議とシャン史研究会議に参加した。2016年に開かれた前回会議に参加した筆者を覚えていてくれた主催者のオックスフォード・サヤドー（<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_11/">第11話</a>参照）が、開会式が始まる直前に親しく声をかけてくれた。</p>
<p>　参加者の中には、カチン州から来たシャン系のタイ・リェンの一団のほか、前回も参加していた英国人研究者と米国人研究者の姿もあった。さらに、前回、筆者と同じ分科会で発表したインド東北部の女性研究者が今回も参加していた。</p>

<div id="attachment_17246" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-12.png"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17246" class="wp-image-17246" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-12.png" alt="" width="400" height="265" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-12.png 1500w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-12-300x199.png 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-12-1024x679.png 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-12-768x509.png 768w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17246" class="wp-caption-text">オックスフォード・サヤドーを囲んで記念撮影。後列左から順に、米国人研究者、筆者、英国人研究者、インドから参加していたタイ系民族の夫妻（2017年12月28日、筆者撮影）</p></div>

<p>　開会のあいさつに立ったオックスフォード・サヤドーが、シャン文芸遺産会議を開催する経緯と意義について、シャン語、ビルマ語、そして英語でスピーチを行った後、シャン州サンガ（僧侶の集団）の長老委員会議長で国家サンガ大長老委員会副議長も兼任する僧侶や、シャン州主席大臣、軍管区司令官などの祝辞が続いた。司令官は、主要な民族の名前を挙げながら全135民族の文芸や慣習を保護する重要性を強調したうえで、外国人研究者が参加する意義にも言及した。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>埋もれゆく文芸遺産の蓄積と共有</strong></span></p>
<p>　筆者はこの会議で、シャン文化が表象される「モノ（物質文化）」について発表した。具体的には、シャン・バッグと呼ばれる肩掛けカバンと乾漆像を取り上げた。</p>
<p>　このうち、シャン・バッグについては、1990年に筆者が中国・雲南省の西双版納（シーサンパンナ）にあるタイ族の自治州を訪ね、ビルマ文字が書かれたシャン・バッグを目にした経験を紹介したうえで、カバンという「モノ」を通じて文化が伝わる重要性を指摘した。また、欧米ではシャン・バッグ類のコレクションが見られることにも言及。カチンやチンのバッグの場合は「誰から買った」「どの民族が使っていた」という具合に出自が特定されるのに対し、シャンのバッグの場合、「シャン地方で使われていた」と地理的な説明に留まっていることを紹介した。</p>
<p>　また、乾漆像については、ミャンマーの上ビルマ地方から中国国境にいたる仏像の流通に注目し、仏教の文脈におけるシャン文化圏のダイナミズムの分析を試みた。漆を用いた乾漆像は、北部シャン州の寺院や、最大都市ヤンゴンのシュエダゴン・パゴダ近くにあるカンボーザー仏教会館などで今も見ることができる。筆者はこの日、行商の歴史に関する論文と、国境付近に住むシャン系の人々の仏像祭（ポイ・パラー）に関する書籍を参照しつつ報告した。近年、シャン文化圏では、乾漆像ではなく、仏像を竹糸で造形する事例が増えている。しかし、シャン系の人々が仏像造形に喜捨を行い、功徳を積む根底に流れる仏教への信仰心は変わっていないのかもしれない。</p>

<div id="attachment_17247" style="width: 276px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-9.png"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17247" class="wp-image-17247" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-9.png" alt="" width="266" height="400" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-9.png 747w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-9-199x300.png 199w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-9-680x1024.png 680w" sizes="auto, (max-width: 266px) 100vw, 266px" /></a><p id="caption-attachment-17247" class="wp-caption-text">パンロンで開かれたシャン文芸遺産会議の会場には、竹糸で造形された仏像が鎮座していた（2017年12月28日、筆者撮影）</p></div>

<p>　会議が終わると、筆者は、物質文化を研究するノウハウについてシャン系の人々から助言を求められた。また、米国出身の研究者、ピーター・コレットから「この会議もまた、新たなシャンの文芸遺産、すなわちリックロンを生み出す場になっているのではないか」と問われた。このような発表の機会がなければ文芸遺産は各寺院や家庭で埋もれていくだけだが、会議という場があることによって発掘され、人々に吟唱され、文字で記録され、蓄積され、共有されるのではないかというコレットの指摘には、筆者もまったく同感であった。</p>
<p><strong><span style="font-size: 14pt;">宿泊地ロイレムの社会</span></strong></p>
<p>　会議の期間中は、ロイレムからパンロンの会議場まで毎日、地元の姉妹に車で送迎してもらった。運転中や休憩時間に二人から聞いたところによれば、彼女たちはパンロン生まれの「純粋なシャン族」で、両親はシャン語しか話せないということだった。パンロンでは、ビルマ語で授業が行われる公立学校に通わない限り、家庭でも社会でもビルマ語を使う機会はないため、この地に住んでいるシャン族はビルマ語ができない傾向が強くなる。</p>
<p>　姉は英語と中国語を習得し、シンガポールで中国人相手に働くかたわら、パンロンと行き来しているということだった。一方、妹は９年生まで公立学校に通い、中国語も６年間習ったという。「シャン語も話せるがシャン文字は習っていないため、ビルマ語が母語の人たちと比べると不公平だ」と語っていたが、ロイレムにおける公立学校の就学率などの状況を示す統計がないため、詳細は不明だ。</p>

<div id="attachment_17248" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-BIrdwatch.png"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17248" class="wp-image-17248" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-BIrdwatch.png" alt="" width="400" height="221" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-BIrdwatch.png 1500w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-BIrdwatch-300x165.png 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-BIrdwatch-1024x565.png 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-BIrdwatch-768x423.png 768w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17248" class="wp-caption-text">パンロンの町の遠景と、独立記念塔の合成写真。塔には「タウンタン・ピィーマ」という文字が刻まれている（シャン族の知人提供）</p></div>

<p>　後日、ロイレムの宿主から聞いた話では、この町で英語と中国を習得してからシンガポールに出稼ぎに行った者は少なくないということだった。宿主自身はマンダレー管区の出身で、ロイレムで現在の妻と出会い、３人の子どもに恵まれたという。この町の住民はムスリムやヒンドゥー教徒、キリスト教徒が多く、妻もムスリムから仏教に改宗したという。民族的に見れば、シャン族やパオ族が多く、ビルマ族は少ないと宿主は話してくれたが、実際、内務省傘下の総務局が2019年に発表した統計を見ても、ロイレム郡の人口12万人あまりのうち、シャン族は約４万6000人、パオ族は約５万7000人、そしてビルマ族は１万3000人という内訳だった。西側にパオ民族の自治地域が２つあることを鑑みると、パオ族の多さはうなずける。また、１、２年前から外国人も特別許可を得ればこの町に入れるようになったそうで、宿主は「ユネスコ（国連教育科学文化機関）の一行が宿泊したこともある」と自慢そうに語った。</p>
<p><strong><span style="font-size: 14pt;">独立記念塔に刻まれた文字の変遷と民族表象</span></strong></p>
<p>　パンロンの町中には、パンロン協定の締結を記念する独立記念塔があり、それを取り囲むようにパンロン会議の出席者たちの肖像画が並んでいる。中央に掲げられているのは、アウンサン将軍の肖像だ。この独立記念塔を模したレプリカがミャンマー各地に建てられている。</p>
<p>　案内してくれたシャン族の若者が、「町の目抜き通りから独立記念塔に向かう分岐点に2006年にパゴダが建立され、独立記念塔が目立たなくなった」と話した。「軍事政権の元第一書記で、後に首相になったキンニュンの仕業だ」と彼は断定したが、キンニュンは2004年に失脚しているため、真相は定かではない。</p>

<div id="attachment_17212" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17212" class="wp-image-17212" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/29d3bc99193cb0b837fb8cc53f050ae5-2.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/29d3bc99193cb0b837fb8cc53f050ae5-2.jpg 1023w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/29d3bc99193cb0b837fb8cc53f050ae5-2-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/29d3bc99193cb0b837fb8cc53f050ae5-2-768x510.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /><p id="caption-attachment-17212" class="wp-caption-text">2017年に筆者が撮影した独立記念塔には「ピィーマ・タウンタン」と刻まれている（2017年12月27日、筆者撮影）</p></div>

<p>　さらに若者は、独立記念塔に刻まれた文字についても興味深い話をしてくれた。上の写真に見る通り、塔には現在、「ピィーマ・タウンタン」という文字がビルマ語で刻まれている。「ピィーマ」はビルマ本土の平地部を、「タウンタン」は山地部を意味している。しかし、以前は「タウンタン・ピィーマ」と刻まれていたというのだ。つまり、語順がどこかの時点で逆転したのだという。</p>
<p>　若者は、アウンサン将軍が山地に住む諸民族に敬意を表すために、平地部を表す「ピィーマ」の前に山地部を表す「タウンタン」を置いたものの、ミャンマー軍がそれを快く思わず、塔を修復する時に語順を入れ替えたと言った。</p>

<div id="attachment_17249" style="width: 265px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-27.png"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17249" class="wp-image-17249" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-27.png" alt="" width="255" height="400" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-27.png 718w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-27-191x300.png 191w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/Panglong-27-654x1024.png 654w" sizes="auto, (max-width: 255px) 100vw, 255px" /></a><p id="caption-attachment-17249" class="wp-caption-text">『ピンロン白書』に掲載されている独立記念塔の写真。「タウンタン・ピィーマ」と記されている（筆者提供）</p></div>

<p>　帰国後、筆者は、パンロン会議にいたる歴史をビルマ語で記録した書籍『ピンロン白書』(1984年出版）を開いてみた。すると、上の写真の通り、確かに昔は塔に刻まれた文字の語順が現在と逆だったことが確認できた。また、シャン族の知人から提供されたパンロンの町の遠景と独立記念塔の合成写真でも、塔に「タウンタン・ピィーマ」と刻まれていることが確認できる（前掲の写真参照）。この合成写真の出典が不明であるため、若者の認識がどの程度、事実に基づいたものか分からないが、彼の説明からは、マイノリティの存在を無視しがちなマジョリティと、それに抗うマイノリティの対抗意識が伝わってきた。ミャンマーにおける民族の《多》をめぐるマジョリティとマイノリティの相克がよく表れたエピソードだと言えよう。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>参考文献：</p>
<p>Dr.Than Tun 1980“Lacquer Images of the Buddha (Mam Bhura)”,『史録』13: 21-36.</p>
<p>T’ien Ju-K’ang 1986 <em>Religious Cults of the Pai-I along the Burma-Yunnan Border.</em></p>
<p>Southeast Asia Program, Cornell University.</p>
<p>&nbsp;</p><p>The post <a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_12/">ミャンマー（ビルマ）知・動・説の行方（第12話）</a> first appeared on <a href="https://dotworld.press">dotworld｜ドットワールド｜現地から見た「世界の姿」を知るニュースサイト</a>.</p><div class='yarpp yarpp-related yarpp-related-rss yarpp-related-none yarpp-template-list'>
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		<title>ミャンマー（ビルマ）知・動・説の行方（第11話）</title>
		<link>https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_11/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[dotworld_admin]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 09 Apr 2025 04:23:25 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ミャンマー]]></category>
		<category><![CDATA[知・動・説の行方]]></category>
		<category><![CDATA[社会を読み解く]]></category>
		<category><![CDATA[髙谷紀夫]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://dotworld.press/?p=17201</guid>

					<description><![CDATA[<p>　民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは宗教や言語、文化、そして歴史を共有し、民族意識により結び付いた人々 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p>　民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは宗教や言語、文化、そして歴史を共有し、民族意識により結び付いた人々の集まりを指すとされますが、多民族国家ミャンマーをフィールドにしてきた文化人類学者で広島大学名誉教授の髙谷紀夫さんは、文化と社会のリアリティに迫るためには、民族同士の関係の特異性や、各民族の中にある多様性にも注目し、立体的で柔軟な民族観の構築が必要だと言います。</p>
<p>　特にビルマとシャンの関係に注目してきた髙谷さんが、多民族国家であるにもかかわらず民族の観点から語られることが少ないミャンマー社会について、立体的、かつ柔軟に読み解く連載の第11話です。</p>

<div id="attachment_16463" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC08743-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16463" class="wp-image-16463" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC08743-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC08743-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC08743-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC08743-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC08743-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC08743-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC08743-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16463" class="wp-caption-text">マンダレーで開かれたシャン文芸遺産（リックロン）会議の後にシャン族ゆかりのインワ仏教遺跡で撮影した記念写真（2016年12月31日、筆者撮影）</p></div>

<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>シャン文芸遺産会議（マンダレー、2016年12月27〜30日）</strong></span></p>
<p>　今回は、シャン文芸遺産会議について紹介したい。シャン語で「リックロン」と冠称されるこの会議は、シャン仏教の文献など文芸遺産の発掘と情報共有、保存および考察を目的として、2013年にヤンゴンで初めて開催された。以来、2014年には南部シャン州のライカー、2015年には北部シャン州のラショー、2016年には旧王都で国内第二の都市マンダレー、2017年にはかつてビルマ独立の父アウンサン将軍が少数民族の代表と連邦制による独立に合意したパンロン会議が開かれたことで知られるシャン州のパンロン、そして2018年には避暑地として名高いマンダレー管区のピンウールウィンで開かれている。2015年からは、シャン（タイ）史の研究会議も同時開催されるようになった。</p>
<p>　一連の会議を主催していたのは、人々から「オックスフォード・サヤドー」（サヤドーは、僧侶の敬称）と呼ばれている僧侶だった。1964年にライカーに生まれ、タイ王国やスリランカ、英国で仏教の勉学を修めた人物で、オックスフォード・サヤドーという通称は、2004年に英国オックスフォード大学で博士号を取得した経歴に由来する。2016年には、シャン州の州都であるタウンジーの郊外にシャン州仏教大学を開学するなど、仏教の普及に加えてシャン民族としての知識や伝統に対する人々の意識啓発と醸成、高揚に重要な役割を果たしている知識人の一人である。</p>

<div id="attachment_17238" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08170b-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17238" class="wp-image-17238" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08170b-scaled.jpg" alt="" width="400" height="215" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08170b-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08170b-300x162.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08170b-1024x551.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08170b-768x414.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08170b-1536x827.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08170b-2048x1103.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17238" class="wp-caption-text">マンダレーで開催されたシャン文芸遺産会議の開会式（2016年12月27日、筆者撮影）</p></div>

<p>　そんなサヤドーの名声は、筆者もかねてより耳にしていた。ヤンゴン市内で彼の講話のポスターを見かけたこともある。その後、2016年12月にマンダレーで４回目のシャン文芸遺産会議と２回目のシャン（タイ）史研究会議が４日間にわたり開かれた際、会場となったエーヤワディ川沿いの大乗仏教系寺院、金多堰（ジントーヤン）で筆者はサヤドーに会う機会に恵まれた。この年の会議は、当初、中国国境のムセー市で開催される予定だったが、治安が不安定化したため、急きょ、マンダレーに変更されたのだった。</p>
<p>　当日は、シャンの文芸遺産（リックロン）に精通した126坊以上の僧侶が集まり、会場の一角には宿舎も用意されているようだった。壇上ではセッションごとに発表者が入れ替わり、モデレーターや司会者の進行に従って講演して質疑応答が行われた。それぞれの発表資料は事前にシャン系文字や英語で印刷され、当日、会場で配布された。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>オックスフォード・サヤドーの危機感</strong></span></p>
<p>　１日目の会議で、前出のオックスフォード・サヤドーは英語とビルマ語、シャン語を巧みに使い分けながら議事をリードしていた。<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_10/">第10話</a>でも触れた通り、筆者にとっては盛会を祝賀するパーリ語の詠唱の中で、シャン式の発音とビルマ式の発音が混在していたことが特に印象深く、同じシャン仏教徒の中でもビルマ化の影響はひとそれぞれだと感じた。同時に、ビルマ化の過程には、時間や空間、場所など、ひとくくりにできない複数の影響があると確信した。</p>

<div id="attachment_17239" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08155-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17239" class="wp-image-17239" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08155-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08155-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08155-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08155-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08155-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08155-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08155-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17239" class="wp-caption-text">シャン文芸遺産会議を主導したオックスフォード・サヤドー（2016年12月27日、筆者撮影）</p></div>

<p>　筆者も、シャン（タイ）史の研究会議の歴史研究セッションで発表した。同席した発表者の中に、インドから来た女性がいた。彼女によれば、父親はタイ系の民族の一つであるタイ・アホムでヒンドゥー教徒、母親は別のシャン系民族であるパーケー族で仏教徒だということだった。</p>
<p>　インド東北部のタイ系民族として知られるタイ・アホムは、13世紀に現在のミャンマーからブラマプトラ渓谷に移動したと言われている。その後、18世紀には、カムティやパーケーも移住したと考えられている。つまり、タイ系の人々の移住の時期にはいくつかの波があり、現在のシャン仏教徒に共通する年中行事や入仏門式の慣習を保持する民族集団もいるのである。</p>

<div id="attachment_17240" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08182-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17240" class="wp-image-17240" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08182-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08182-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08182-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08182-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08182-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08182-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08182-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17240" class="wp-caption-text">シャン文芸遺産会議の開会式後に記念撮影に臨んだ関係者たち（2016年12月27日、筆者撮影）</p></div>

<p>　筆者は、人類学的な立場から、英領植民地化前夜にあたる19世紀のビルマ王朝時代から21世紀の現在までを「近代」だと考えている。この時期に、西洋近代の「知」の枠組みが《多》民族をめぐる語りに強い影響を与えたと考えているためである。しかし、筆者はこの日、外国人以外のすべての発表から、シャン族自身が自らの文芸伝統に対して強い畏怖と自負の念を抱いていることを感じた。この会議は、シャン系の人々の民族観や宗教観、言語観を顕示し、共有する場であったと言えよう。あるいは、会議を開催したオックスフォード・サヤドーがシャン文芸遺産の散逸と消滅に対して有していた強い危機感の表れであったとも言えるかもしれない。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>ビルマ化が顕著なカチン州在住の人々</strong></span></p>
<p>　会議とその後の視察を通じ、筆者はシャン州のほかにカチン州などから来たシャン系の人々にも出会った。その一人、カチン州から来た78歳のシャン族の男性は、釈尊の臨終を描いた経典「涅槃経」（スッタ・ニッバーナ）を詠唱するために、経典の現物を持参していた。彼の話によれば、経典は故人を供養するために遺族が寺院に寄付し、その後、下賜して各家庭で保存するのが慣習だということだった。彼自身、50歳から月に４日は涅槃経を読む習慣を守っているとも語った。</p>
<p>　そんな彼の名前の最初に「ツァオ」がついていることに気付き、改めてプログラムを見直すと、彼以外にも、名前が「ツァオ」で始まる発表者がかなりいるようだった。かつての伝統的な首長ツァオパーの冠称であった「ツァオ」や「クン」を名乗ることが許されているのは血縁者か高級官吏に限られ、それ以外の男性は「ツァイ」や「サイ」を名乗ると思っていた筆者が疑問に思い、昔を知るシャンの長老に尋ねると、最近は庶民の間でも「ツァオ」を名乗る人が増えているということだった。</p>

<div id="attachment_17241" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08668-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17241" class="wp-image-17241" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08668-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08668-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08668-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08668-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08668-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08668-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08668-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17241" class="wp-caption-text">会議後に行われた視察でマハムニ・パゴダに参拝し、詠唱する参加者たち（2016年12月31日、筆者撮影）</p></div>

<p>　４回目のシャン文芸遺産会議と、２回目のシャン史研究会議がすべて終わると、参加者は６台のバスに分かれて乗り込み、1784年に創建されたマンダレーで最大、かつ最も有名なマハムニ・パゴダや、2015年に創建された翡翠パゴダ、かつてシャン族の都が置かれていたと言われているインワ遺跡、2013年にユネスコの世界記憶遺産に認定されたクードゥードー・パゴダ、そしてマンダレー王宮などを訪問した。2016年12月31日のことだった。マハムニ・パゴダでシャン仏教徒たちがシャン語のイントネーションに乗せてパーリ語で行った読経は素晴らしく、インワ遺跡にシャン系の人々があふれる様子も圧巻だった。</p>
<p>　バスの車内で、筆者はザガイン管区から来たというシャン族の年配の男性と隣り合った。彼は、18歳の時に単身、故郷の村を離れて以来、宝石を探し続けて52年が過ぎたと語った。カチン州やザガイン管区に住むシャン系の男性がビルマ風の腰巻風衣装であるパソーを巻いたり、ビルマ語が母語であったりする者は少なくなく、この男性もそうだった。彼のようにビルマ化が顕著なシャン系の人々の姿は、そうではないシャン系の人々の目にどう映っているのだろうか。</p>

<div id="attachment_17242" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08341-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17242" class="wp-image-17242" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08341-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08341-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08341-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08341-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08341-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08341-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC08341-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17242" class="wp-caption-text">ピンウールウィンで出会った少年は仏門に入ることを志していた（2016年12月31日、筆者撮影）</p></div>

<p>　<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_5/">第５話</a>で触れた通り、筆者がシャン研究に力を入れるようになったのは、カチン州に住むシャン系の人々との交流が一つのきっかけだった。シャン新年祝賀会にせよ、シャン文芸遺産会議にせよ、シャン系の人々同士の連帯が前面に出れば、多様性や対立が目立たなくなることは否定できない。しかし、シャン州やカチン州、ザガイン管区などを訪ね、シャン系の人々にインタビューを重ねると、地域性や歴史が反映された彼らの間の多様性が際立つ。その重要な要因となっているのが、欧米世界との接触を通じた「西洋化」と、独立以降に顕著になる「ビルマ化」の受容の度合いの違いである。シャン系の人々は、それぞれの地域で「西洋化」と「ビルマ化」の多様な状況に適応しながら、「シャンであること、シャンになること」という民族意識の課題に臨んできたのである。</p>
<p>　もっとも、シャン系の人々の間には母語や服装のビルマ化に対して批判的な見方もあり、筆者もたびたびそうした声を聞いた。ビルマ化の過度な受容は、「シャンであること、シャンになること」とは相反すると考える評価があるためだ。シャンをめぐる《多》の座標系の考察は、今後も続く。</p>
<p>&nbsp;</p><p>The post <a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_11/">ミャンマー（ビルマ）知・動・説の行方（第11話）</a> first appeared on <a href="https://dotworld.press">dotworld｜ドットワールド｜現地から見た「世界の姿」を知るニュースサイト</a>.</p><div class='yarpp yarpp-related yarpp-related-rss yarpp-related-none yarpp-template-list'>
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		<title>ミャンマー（ビルマ）知・動・説の行方（第10話）</title>
		<link>https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_10/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[dotworld_admin]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 02 Apr 2025 06:00:38 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ミャンマー]]></category>
		<category><![CDATA[知・動・説の行方]]></category>
		<category><![CDATA[社会を読み解く]]></category>
		<category><![CDATA[髙谷紀夫]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>　民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは宗教や言語、文化、そして歴史を共有し、民族意識により結び付いた人々 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p>　民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは宗教や言語、文化、そして歴史を共有し、民族意識により結び付いた人々の集まりを指すとされますが、多民族国家ミャンマーをフィールドにしてきた文化人類学者で広島大学名誉教授の髙谷紀夫さんは、文化と社会のリアリティに迫るためには、民族同士の関係の特異性や、各民族の中にある多様性にも注目し、立体的で柔軟な民族観の構築が必要だと言います。</p>
<p>　特にビルマとシャンの関係に注目してきた髙谷さんが、多民族国家であるにもかかわらず民族の観点から語られることが少ないミャンマー社会について、立体的、かつ柔軟に読み解く連載の第10話です。</p>

<div id="attachment_17207" style="width: 610px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04968_b-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17207" class="wp-image-17207" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04968_b-scaled.jpg" alt="" width="600" height="205" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04968_b-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04968_b-300x102.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04968_b-1024x350.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04968_b-768x262.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04968_b-1536x524.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04968_b-2048x699.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /></a><p id="caption-attachment-17207" class="wp-caption-text">南部シャン州のタウンジーで開かれた「全国シャン新年祝賀会」の懇親会ステージの様子（2014年11月21日、筆者撮影）</p></div>

<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>全国シャン新年祝賀会（タウンジー、2014年11月21～22日）</strong></span></p>
<p>　第８話で紹介したように、全国レベルでのシャン新年祝賀会は、2012年に東部シャン州の中心地、ケントゥンで開催された。今回は、それから２年後の2014年、シャン暦の2109年元日にシャン州都のタウンジーで開かれた２回目の全国レベルの新年祝賀会について紹介したい。</p>
<p>　この年、筆者はこれに先立ち11月18日から３日間にわたりタウンジー大学で開催された国際文化セミナーに発表者として参加する予定だった。しかし、日本からの飛行機の遅延により、11月21日にシャン文芸文化協会の中央本部事務所で開かれた新年祝賀会の前夜祭と、翌22日のインレー湖周辺への訪問にだけ参加することになった。</p>
<p>　地元紙の報道によれば、新年祝賀会は、毎年11月に開かれるダザウンダイン灯明祭りのハイライトと言える熱気球イベントと同じ場所で開かれているようだった。11月22日からの新年祝賀会には、当時、副大統領の職にあったサイマウカム博士夫妻をはじめ、連邦大臣やシャン州政府の議長、国会議員、軍管区司令官、州政府議会の議長と議員、諸民族集団代表などが顔をそろえた。会場の一角には農業局のブースやシャン文芸文化協会のブースが設けられ、シャン民族の歴史や文化に関する展示もあったようだ。</p>
<p>　特に注目されたのは、中国国内でタイ系言語を母語とする壮（チュアン）族や、インド・アッサム地方に居住するタイ系のタイ・アホム族が、一連のイベントに参加していたことである。壮族だという参加者は、広西社会科学院の民族研究所と東南アジア研究所の研究員で、ミャンマー国内のシャン知識人と交流するなかで新年祝賀会に招待されたと語った。</p>

<div id="attachment_17228" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04892-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17228" class="wp-image-17228" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04892-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04892-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04892-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04892-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04892-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04892-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04892-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17228" class="wp-caption-text">シャン州都タウンジー市内の風景（2014年11月21日、筆者撮影）</p></div>

<p>　壮族は、中国の公定56民族の中で多数派である漢族に次ぐ人口を擁している。シャン語と壮語は学術的には単語レベルでわずかに共通性が認められる程度であり、壮族は「自分たちはタイ・チュアンではなく、チュアンだ」と強調する。近代になって明らかになったタイ系としての共通性を認めながらも、強い独自性を保持していることが感じられ、印象的だった。彼らを招いたシャン新年祝賀会の実行委員会でも同様の発言を耳にし、タイ系という学術的なまとまりが近代になって構築されたことを再認識した。</p>
<p>　一方、タイ・アホムは、インド・アッサム地方に移住したタイ系民族だが、歴史的にヒンドゥー教の影響を受容してきたため、タイ系としての共通性より差異化が顕著である。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>ダヌ族との出会い</strong></span></p>
<p>　前夜祭の懇親会が始まるまでタウンジー市内を散策してみると、これから会場に行くらしいシャンの民族衣装を着た若者が街を闊歩し、シャン新年の雰囲気を盛り上げていた。</p>

<div id="attachment_17229" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04905-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17229" class="wp-image-17229" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04905-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04905-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04905-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04905-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04905-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04905-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04905-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17229" class="wp-caption-text">シャン民族衣装をまとってタウンジー市内を闊歩する若者たち（2014年11月21日、筆者撮影）</p></div>

<p>　中央市場の近くで、「ダヌ族」と書かれた看板が目に入った。ダヌ族のタウンジー事務所（正式名は、ダヌ文芸文化と地域発展中央委員会事務所）だった。ダヌ族は、2008年のミャンマー連邦共和国憲法によってシャン州内に自治地域を確保された民族集団の一つである。2011年に『ダヌ民族史（ビルマ語）』を出版したばかりだという名誉顧問の話によれば、委員会は約２年前にタウンジーに事務所を構えたという。</p>

<div id="attachment_17227" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04898-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17227" class="wp-image-17227" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04898-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04898-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04898-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04898-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04898-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04898-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04898-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17227" class="wp-caption-text">ダヌ族のタウンジー事務所の看板（2014年11月21日、筆者撮影）</p></div>

<p>　ダヌ語がビルマ語系統に属しているためか、名誉顧問はダヌ族とビルマ文化の共通性を強調した。例えば、季節の祭りのなかでも、ビルマ暦の新年（西暦の４月）のティンジャン、雨安居明けからダザウンダイン灯明祭りまでの期間（西暦の10月から11月）に僧衣を寄進するカティンの祭り、そしてダザウンダイン灯明祭り（西暦11月）の三つが特に盛大に祝われており、特にティンジャンはビルマ族と祝い方がまったく同じだと彼は語った。その一方で、ダヌ族の太鼓はシャン文化でも使われているが、「ダヌ族の太鼓は、シャンの太鼓と比べて丈が低くて太い」と話し、「われわれはシャン新年祝賀会とはまったく関係ない」と強調した。</p>
<p>　もっとも、ダヌ族の男性のフォーマルな衣装は、いわゆるシャン・ズボン（ビルマ語でバウンビー）で、シャン文化と共通している。ダヌ族事務所が開設されたことをどう思うかとシャン族の知識人に尋ねると、「民族同士の分割統治をもくろむ政府の政策だと思う」と、いたって冷静に受け止めていた。</p>

<div id="attachment_17236" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04899-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17236" class="wp-image-17236" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04899-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04899-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04899-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04899-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04899-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04899-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC04899-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17236" class="wp-caption-text">ダヌ族のタウンジー事務所の様子（2014年11月21日、筆者撮影）</p></div>

<p>　ダヌ民族の日は、毎年、ビルマ暦のナドー月白分８日と定められている。西暦では、第１回が2018年12月15日、第２回が2019年12月４日に開かれており、民族の日を定めている他の民族と比べれば歴史的に新しい。第６回は、2023年12月20日にシャン州都タウンジーから約70キロ離れた山間の町、ピンダヤで開催されたようだが、反政府闘争を重ねているダヌ民族解放戦線は、ダヌ民族委員会が軍事政権と合同で祝賀会を開催したことを問題視し、「ダヌ族の尊厳を汚した」とウェブ上で批判している。2021年２月に発生した軍事クーデターは、シャン州の少数民族が自画像を構築するうえで、連帯よりも分断をもたらしていることがうかがえる。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>民族と仏教と歴史が交錯するサンカ</strong></span></p>
<p>　シャン新年祝賀会の後、筆者はインレー湖上に建てられているファウンドーウー・パゴダなどを動力船で周遊した。毎年、ビルマ暦のダディンジュ月（西暦の９月から10月）に仏像を船（カラウェイ）に乗せ、18日かけて湖畔の村々を回りながら祈りを捧げる「ファウンドーウー祭り」、あるいは「カラウェイ・フェスティバル」で知られるパゴダである。</p>

<div id="attachment_17235" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05035-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17235" class="wp-image-17235" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05035-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05035-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05035-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05035-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05035-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05035-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05035-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17235" class="wp-caption-text">ファウンドーウー・パゴダの側に設営されたカラウェイの倉庫（2014年11月22日、筆者撮影）</p></div>

<p>　船が納められている倉庫に立ち寄った後、動力船は水草を掻き分けながらさらに南下し、細い水路を抜けてサンカ（ビルマ語ではサガー）に到着した。　</p>

<div id="attachment_17230" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05070-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17230" class="wp-image-17230" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05070-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05070-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05070-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05070-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05070-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05070-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05070-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17230" class="wp-caption-text">インレー湖を進む動力船（2014年11月22日、筆者撮影）</p></div>

<p>　サンカでは、かつてシャン系の伝統的な首長であるツァオパーが領主を務めていた（<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_7/">第７話</a>参照）。子孫の一人が案内役を務めてくれ、系図や写真を示しながらこの地の歴史を説明してくれたところによれば、このあたりは最近まで反政府軍と抗争していたが、最近は治安が安定し、観光用のロッジも建設されて、インレー湖の観光業の新たな拠点になっているということだった。</p>
<p>　サンカに建立されている寺院は、まさに民族と仏教と歴史が交錯している。例えば、僧侶の一人はシャン族ということだったが、読経の際にはビルマ式で発音していた。同行していたシャンの知識人がそう指摘すると、僧侶は「自分がビルマ式で発音していることは自覚しているが、この国の僧侶の世界も中央集権化が進んでいるため、その発音方法に従っている」と語った。</p>

<div id="attachment_17232" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05088-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17232" class="wp-image-17232" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05088-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05088-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05088-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05088-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05088-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05088-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05088-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17232" class="wp-caption-text">インレー湖畔のパゴダ（2014年11月22日、筆者撮影）</p></div>

<p>　ここで筆者は、現在のタイ王国北部から東部シャン州にかけて僧侶の集団（仏教サンガ）の交流がどのように行われ、どう変遷したかについて、歴史家の石井米雄氏がシャン文化圏の歴史と言語に関する座談会で語った内容を思い出す。石井氏は、全227に上る仏教の戒律を僧侶が一緒に唱和できるか否かという点に注目して仏教宗派間の親和性を分析。タイ王国北部のチェンマイ、チェンライ、中国雲南省西双版納ツェンフン（景洪）、ラオスのルアンパバーン（チェントーン）、そしてミャンマーの東部シャン州ケントゥンの５つの地域では僧侶たちが戒律を唱和できるのに対し、シャン州内でもケントゥン以外のシャン寺院の僧侶たちは唱和できないことを挙げてシャン仏教にビルマ化の影響が認められると指摘した。</p>
<p>　これら５地域では、首長であるツァオパーの間に系譜的なつながりがあり、僧侶と商人らの移動を通じてタイ系の言語を話す人々の生活圏が歴史的に形成されていたが、19世紀から20世紀にかけて国境が設定され、今日にいたる。</p>

<div id="attachment_17233" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05180-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17233" class="wp-image-17233" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05180-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05180-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05180-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05180-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05180-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05180-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05180-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17233" class="wp-caption-text">サンカのパゴダ群（2014年11月22日、筆者撮影）</p></div>

<p>　しかし、それで交流が途絶えたわけではなかった。その例として挙げられるのが、タイ王国チェンマイのドイステープ寺院で1934年から1935年に建設された参道である。この事業は、当時、民衆から絶大な支持を得ていた僧侶のクルーバー・スィウィチャイが主導し、ミャンマーの南部シャン州に住んでいたシャン系商人らの支援を得て進められた。ドイステープ寺院の麓にある記念モニュメントには、他の支援者と並んでこの商人の像も建てられている。</p>

<div id="attachment_17234" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05118-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17234" class="wp-image-17234" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05118-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05118-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05118-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05118-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05118-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05118-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2025/02/DSC05118-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-17234" class="wp-caption-text">サンカのツァオパーを務めたツァオセインプーの写真（2014年11月22日、筆者撮影）</p></div>

<p>　ビルマ族の視点に立つと、同じタイ系言語を母語としているシャン系の人々をとかくひとくくりにしがちだが、彼らには多様性があり、民族と宗教と言語が交錯している。さらに彼らは、近代に入って進められた国家の中央集権化の影響も受けている。シャン族も、シャン仏教も、シャン語も、長年にわたる周辺民族との重層的な交流の中で変遷を遂げており、一筋縄で理解することは難しい。だからこそ、歴史的にも空間的にも、一つ一つ解き明かしていくことが期待されるのである。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>参考文献：</p>
<p>新谷忠彦（編） 1998 『黄金の四角地帯〜シャン文化圏の歴史・言語・民族』 慶友社.</p>
<p>&nbsp;</p><p>The post <a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_10/">ミャンマー（ビルマ）知・動・説の行方（第10話）</a> first appeared on <a href="https://dotworld.press">dotworld｜ドットワールド｜現地から見た「世界の姿」を知るニュースサイト</a>.</p><div class='yarpp yarpp-related yarpp-related-rss yarpp-related-none yarpp-template-list'>
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			</item>
		<item>
		<title>ミャンマー（ビルマ）知・動・説の行方（第９話）</title>
		<link>https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_9/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[dotworld_admin]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 26 Mar 2025 05:17:23 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ミャンマー]]></category>
		<category><![CDATA[知・動・説の行方]]></category>
		<category><![CDATA[社会を読み解く]]></category>
		<category><![CDATA[髙谷紀夫]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://dotworld.press/?p=16738</guid>

					<description><![CDATA[<p>　民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは宗教や言語、文化、そして歴史を共有し、民族意識により結び付いた人々 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p>　民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは宗教や言語、文化、そして歴史を共有し、民族意識により結び付いた人々の集まりを指すとされますが、多民族国家ミャンマーをフィールドにしてきた文化人類学者で広島大学名誉教授の髙谷紀夫さんは、文化と社会のリアリティに迫るためには、民族同士の関係の特異性や、各民族の中にある多様性にも注目し、立体的で柔軟な民族観の構築が必要だと言います。</p>
<p>　特にビルマとシャンの関係に注目してきた髙谷さんが、多民族国家であるにもかかわらず民族の観点から語られることが少ないミャンマー社会について、立体的、かつ柔軟に読み解く連載の第９話です。</p>

<div id="attachment_16461" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC02718-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16461" class="wp-image-16461" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC02718-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC02718-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC02718-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC02718-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC02718-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC02718-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC02718-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16461" class="wp-caption-text">ヤンゴンで開かれた「シャン新年祝賀会」で新年のカウントダウンを待つシャン系の女性たち（2013年12月２日、筆者撮影）</p></div>

<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>シャンの新年祝賀会（2013年12月２～３日）と二言語の招待状</strong></span></p>
<p>　ミャンマーの最大都市ヤンゴンでもっとも有名なシャン寺院と言えば、ピィ通り沿いの９マイル交差点付近にあるアウンミェー・ボンター・シャン・チャウンダイ（シャン語では、ウィハーン・アウンミェー・ポンサー）である。ある程度以上の大きさの仏教寺院を意味するビルマ語の「チャウンダイ」（シャン語では「ウィハーン」）という言葉が示す通り、広い境内には僧堂や講堂などが点在し、シャンの文芸文化に関心を寄せる人々に知識を提供する図書館として活用されている建物や、シャン文芸文化協会が入っている建物、近隣の人々の会合や文化イベント会場に活用されている建物などもあった。</p>
<p>　筆者は2013年、この寺院の僧院長にインタビューした。南部シャン州出身だという僧院長によれば、正式僧や見習い僧は約170坊～180坊おり、全員がシャン族ということだった。彼らのほとんどが地方出身だということもあるのだろう、見習い僧にはビルマ語を解さない者が少なくないということだった。</p>

<div id="attachment_16746" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/YGN2013-8.png"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16746" class="wp-image-16746" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/YGN2013-8.png" alt="" width="400" height="265" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/YGN2013-8.png 1500w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/YGN2013-8-300x199.png 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/YGN2013-8-1024x679.png 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/YGN2013-8-768x509.png 768w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16746" class="wp-caption-text">竹糸で造った仏像に金箔などを重ねて仕上げた竹糸仏陀像が安置された講堂で、シャン族の知人一家とともに。左から３人目が筆者（2013年12月２日、筆者提供）</p></div>

<p>　同年12月、筆者はこの寺院で開かれたシャン新年の祝賀会に出席した。シャン暦の始まりは、西暦の始まりより94年早い。伝説のシャン王国が紀元前94年（仏教暦450年）に建国されたことに由来しているためだ。シャンの元日であるシャン暦の１月１日は、ビルマ暦ではナドー月白分１日、西暦ではだいたい11月から12月にあたり、シャンの新年祝賀会は、作物の収穫を祝うための行事と位置付けられている。</p>
<p>　祝賀会に先立って受け取った招待状の表紙には、シャン語で「シャン新年おめでとう」と書かれていたが、中面には式次第がビルマ語とシャン語で併記されており、公用語がビルマ語であることと、シャン文字が読めない人がいることへの配慮が伺えた。<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_2/">第２話</a>でも紹介した通り、シャン族が全員、シャン語を読み書きできるとは限らないためだ。</p>

<div id="attachment_16739" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/29d3bc99193cb0b837fb8cc53f050ae5-5.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16739" class="wp-image-16739" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/29d3bc99193cb0b837fb8cc53f050ae5-5.jpg" alt="" width="400" height="285" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/29d3bc99193cb0b837fb8cc53f050ae5-5.jpg 337w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/29d3bc99193cb0b837fb8cc53f050ae5-5-300x214.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16739" class="wp-caption-text">2013年のシャン新年祝賀会の招待状の表紙には、シャン語で「シャン新年おめでとう」と記されている（筆者提供）</p></div> <div id="attachment_16784" style="width: 460px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/cdf6ee88a042c9cc617040386b92972b.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16784" class="wp-image-16784" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/cdf6ee88a042c9cc617040386b92972b.jpg" alt="" width="450" height="161" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/cdf6ee88a042c9cc617040386b92972b.jpg 1053w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/cdf6ee88a042c9cc617040386b92972b-300x107.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/cdf6ee88a042c9cc617040386b92972b-1024x367.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/cdf6ee88a042c9cc617040386b92972b-768x275.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 450px) 100vw, 450px" /></a><p id="caption-attachment-16784" class="wp-caption-text">招待状の中面の式次第は、ビルマ語とシャン語が併記されている（筆者提供）</p></div>

<p>　二言語が併記されたこの招待状を見ると、思い出す場面がある。2019年３月にシャン文芸文化協会のヤンゴン支部で開かれた年次会議に参加した時のことだ。以下、紹介しよう。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>ビルマ化の機運と民族意識</strong></span></p>
<p>　年次会議当日は、参加者の自己紹介に続き、次年度の組織体制をどうするか協議が行われたのだが、その場でビルマ語とシャン語が半々で用いられていたことが印象的だった。<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_2/">第２話</a>で指摘した通り、ミャンマーでは民族・宗教・言語の《多》が歴史的に交錯しているため、「Aという民族は、A語を母語とし、A文化を保持している」と考えるとリアリティを見誤ってしまううえ、A系の人々の多様性と対立を見逃しかねない。では、ヤンゴンにいるシャン族の数は公式にはどれぐらいなのか。</p>
<p>　それを考えるにあたっては、2008年から各管区と州議会レベルで始まった民族担当議員制度が一つの目安となるだろう。この制度によって、各管区や州内でミャンマー人口の0.1％以上の人数を擁し、かつ、自治地区を有していない民族には議員枠が一人、与えられることになった。これにより、ヤンゴン管区では全人口の0.1％にあたる５万人以上を擁するカレン（ビルマ語でカイン）族とラカイン族にそれぞれ担当議員が任命されたが、シャン族は任命されなかった。2019年に内務省傘下の総務局が公表した統計では、ヤンゴン管区内に居住するシャン人口が２万3,000人にも満たなかったためだ。なお、マンダレー管区、ザガイン管区、そしてカチン州では、シャン族の担当議員が任命された。</p>
<p>　とはいえ、多くのシャン系の人々が最大都市ヤンゴンへと流入している実態を踏まえると、ヤンゴン管区内のシャン系人口が５万人未満であるとは考えづらい。そこでシャン文芸文化協会のヤンゴン支部で理由を尋ねてみると、「ヤンゴンに流入するシャンの人々の多くは、シャンではなくビルマで民族登録しているためだろう」という回答が返ってきた。</p>

<div id="attachment_16748" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/YGN2013-5b.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16748" class="wp-image-16748" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/YGN2013-5b.jpg" alt="" width="400" height="265" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/YGN2013-5b.jpg 1059w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/YGN2013-5b-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/YGN2013-5b-1024x679.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/YGN2013-5b-768x509.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16748" class="wp-caption-text">シャン暦の大晦日にシャン寺院で披露された出し物。ステージの背後には、きたる2014年の干支である午が描かれていた。シャン文化と干支との関係については、いまだ調査中である（2013年12月２日、筆者撮影）</p></div>

<p>　同年、シャン文芸文化協会のヤンゴン支部長にもインタビューした。支部長によるれば、ヤンゴン支部ではシャン新年や「シャン州の日」の祝賀会の開催、シャンの水掛け祭りの実施、ヤンゴンに新たに流入した家族に対する読経会の開催、シャン語の研修会やシャン文芸文化講座の開催など、全10種類に上る活動を行っているということだった。また、同会はヤンゴン在住のシャン族に慶事や弔事があった際の互助組織としても機能しているとのことだった。</p>
<p>　さらに支部長は、これらの活動の中で、特にシャン新年やシャン州の日の祝賀会に力を入れていることや、水掛け祭りは前年に始まった新しいイベントであることなどを話してくれた。筆者は、ヤンゴンへの流入者の対応やシャン語講座などの取り組みを行っているという話が、特に印象に残った。ビルマ化への強い機運があるなか、シャン系の人々が集う機会をいかに創出し、自分たちの言語や文芸文化を継承していくか苦心している様子が伝わってきたためだ。ヤンゴンに住むシャン族の人々にとって、シャン文芸文化協会のヤンゴン支部は、自分たちが「シャンであること」を再認識する大切な拠点となっていることが伝わってきた。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>歌舞音曲も披露されたヤンゴンの祝賀会</strong></span></p>
<p>　さて、前述の通り、シャン新年祝賀会には、その年の収穫を祝う意味がある。筆者がヤンゴンにある冒頭のシャン寺院で開かれたシャン新年の祝賀会に参加したのは、2013年が初めてではなく、12年前の2001年にも参加したことがあった。どちらの年も、大晦日の午前中に新米の仏飯を僧侶へ捧げた後で来訪者に振舞う儀式が行われたほか、入り口から境内にかけて参拝客目当ての露店が並び、夕方からステージ上で歌唱や舞踏によるパフォーマンスが繰り広げられたのも同じであった。</p>

<div id="attachment_16747" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/YGN2013-1.png"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16747" class="wp-image-16747" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/YGN2013-1.png" alt="" width="400" height="265" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/YGN2013-1.png 1500w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/YGN2013-1-300x199.png 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/YGN2013-1-1024x679.png 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/YGN2013-1-768x509.png 768w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16747" class="wp-caption-text">シャン寺院の入り口から境内にかけて、参拝客めあての露店が並んでいた（2013年12月２日、筆者撮影）</p></div>

<p>　2001年の筆者のフィールドノートと写真には、インド・アッサムから来た研究者が祝賀会に参加し、大晦日の夜にはステージでスピーチして歓声を浴びたり、シャン族の人気歌手だったサイティサインも来場し、ギターの弾き語りを披露して来客を魅了したりしていた様子が記されている。なお、1984年２月に筆者がヤンゴン大学（当時はラングーン大学）で開かれたシャン州の日の祝賀会で彼の代表曲を披露したことは、<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_3/">第３話</a>で紹介した通りだ。</p>
<p>　その後、筆者は2013年もシャン暦の大晦日をシャン寺院で過ごした。再びフィールドノートをめくってみると、竹糸で造った仏像に金箔を重ねて仕上げた竹糸仏が安置された講堂で昼下がりに他の参拝客からヤンゴン市内の他のシャン寺院の情報を教えてもらったとの記録がある。その後は寺院の見取り図を作成したり、周辺を散策したりしながら夜のステージの開始を待ったのを覚えている。</p>

<div id="attachment_16743" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC02686-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16743" class="wp-image-16743" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC02686-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC02686-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC02686-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC02686-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC02686-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC02686-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC02686-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16743" class="wp-caption-text">シャン暦の大晦日、ヤンゴンのシャン寺院ではさまざまな出し物が披露された（2013年12月２日、筆者撮影）</p></div>

<p>　歌唱や舞踊などがひととおり披露された後、12月３日の午前０時に向けてカウントダウンが始まった。シャン系のさまざまな衣装を身にまとった女性たちが新年を寿ぐ歌を斉唱し、盛り上がりが最高潮に達した頃、多くの見習い僧たちが物珍しそうにステージ上のパフォーマンスに夜遅くまで見入っていた姿が印象的だった。</p>

<div id="attachment_16751" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC02693b-1-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16751" class="wp-image-16751" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC02693b-1-scaled.jpg" alt="" width="400" height="229" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC02693b-1-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC02693b-1-300x171.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC02693b-1-1024x585.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC02693b-1-768x439.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC02693b-1-1536x878.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC02693b-1-2048x1171.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16751" class="wp-caption-text">さまざまな出し物が披露されるステージを見習い僧たちが木陰から興味深そうに眺めていた（2013年12月２日、筆者撮影）</p></div>

<p><strong><span style="font-size: 14pt;">地域的なつながりを重視するマンダレーの「シャン」</span></strong></p>
<p>　ヤンゴンのシャン新年祝賀会の翌日、筆者は北上して旧王都マンダレーに住むシャン族の人々を訪ねた。</p>
<p>　マンダレーには当時、代表的なシャン寺院であるナムカム寺にシャン文芸文化協会のマンダレー支部が置かれていた。シャン新年祝賀会がマンダレーで開かれる時の主会場でもあるナムカム寺を筆者が訪ねると、僧院長はおおいに歓待してくれ、シャン文芸文化協会の幹部や、北部シャン州チャウメーから祝賀会のために来ていた歌唱舞踊団に声を掛けて特別にパフォーマンスも見せてくれた。地元紙の日刊マンダレーは、12月２日の大晦日と翌３日午前の新年祝賀会の様子を報じ、マンダレー管区議会のシャン民族担当議員が来賓として招かれていたと伝えた。前述の統計によれば、マンダレー管区におけるシャン人口は６万人を超えている。</p>
<p>　僧院長は、マンダレー市内にあるシャン寺院の概略や、シャン族の人々の生活についても話してくれた。なかでも、マンダレーでは、慶事や弔事があった際に、シャン文芸文化協会のマンダレー支部とは別に「シャン社会福祉協会」という互助組織が活動しているという話に興味を引かれた。</p>
<p>　さっそくマンダレー市内の35番通りにあるシャン社会福祉協会の事務所を訪ね、協会の沿革と活動状況について説明を受けると、自称タイ族に加え、パラウン（自称タアン）族、ダヌ族、インダー族、パオ族などをシャン諸民族として支援しているということであった。ここで言う「シャン」とは、民族というより、シャン州にゆかりのある人々を意味していた。かつてビルマ王国の都が置かれたマンダレーが、シャン州から平地に下りた交通の要所に位置し、王朝時代から諸民族を統べるシャン系の伝統的な首長であるツァオパーと朝貢を通じて交流しつつ、シャン系の諸民族を包括してきた歴史を有していることを再認識した。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>シャン文化圏の過去といま</strong></span></p>
<p>　<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_3/">第３話で</a>紹介したように、かつてシャン文化圏の人々は、民族間のコミュニケーション手段（リンガ・フランカ）であるシャン語や、シャン系の伝統的な首長の存在を介して同胞意識を共有していた。ところが、イギリス支配からの独立前後から、諸民族は言語や仏教信仰の共通性よりも、それぞれの自民族意識を優先するようになる。第３話で紹介した「シャン」人口の統計上の減少は、そのことを明確に示している。</p>
<p>　ヤンゴンでは、ビルマ化の強い機運の中、シャン語とシャンの文芸文化の継承に加え、互助組織としての役割も果たそうと苦心する文芸文化協会の活動に触れた。他方、マンダレーでは、文芸文化協会と社会福祉協会が役割分担し、特に社会福祉協会は、民族的な出自よりも、シャン州という地域的なつながりを重視している様子を感じた。</p>

<div id="attachment_16813" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/2013.12.05-MDY-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16813" class="wp-image-16813" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/2013.12.05-MDY-scaled.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/2013.12.05-MDY-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/2013.12.05-MDY-300x199.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/2013.12.05-MDY-1024x680.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/2013.12.05-MDY-768x510.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/2013.12.05-MDY-1536x1021.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/2013.12.05-MDY-2048x1361.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16813" class="wp-caption-text">マンダレー市内にあるシャン寺院でインタビューを行う筆者（右端）（2013年12月５日、筆者提供）</p></div>

<p>　また、マンダレーのシャン社会福祉協会の事務担当者が「文芸文化協会は次世代向けの組織であり、社会福祉協会は親世代向けの組織だ」と話していたことも印象に残った。今日のシャン文化圏では、シャン系の人々が置かれている状況を反映しつつ、覚醒した民族意識が時に共存し、時に対立している多様性が顕著に見られると言えよう。</p>
<p><span style="text-decoration: line-through;">&nbsp;</span></p><p>The post <a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_9/">ミャンマー（ビルマ）知・動・説の行方（第９話）</a> first appeared on <a href="https://dotworld.press">dotworld｜ドットワールド｜現地から見た「世界の姿」を知るニュースサイト</a>.</p><div class='yarpp yarpp-related yarpp-related-rss yarpp-related-none yarpp-template-list'>
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		<title>ミャンマー（ビルマ）知・動・説の行方（第８話）</title>
		<link>https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_8/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[dotworld_admin]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 19 Mar 2025 06:45:27 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ミャンマー]]></category>
		<category><![CDATA[知・動・説の行方]]></category>
		<category><![CDATA[社会を読み解く]]></category>
		<category><![CDATA[髙谷紀夫]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://dotworld.press/?p=16716</guid>

					<description><![CDATA[<p>　民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは、宗教や言語、文化、そして歴史を共有し、民族意識により結び付いた人 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p>　民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは、宗教や言語、文化、そして歴史を共有し、民族意識により結び付いた人々の集まりを指すとされますが、多民族国家ミャンマーをフィールドにしてきた文化人類学者で広島大学名誉教授の髙谷紀夫さんは、文化と社会のリアリティに迫るためには、民族同士の関係の特異性や、各民族の中にある多様性にも注目し、立体的で柔軟な民族観の構築が必要だと言います。<br>
　特にビルマとシャンの関係に注目してきた髙谷さんが、多民族国家であるにもかかわらず民族の観点から語られることが少ないミャンマー社会について、立体的、かつ柔軟に読み解く連載の第８話です。</p>

<div id="attachment_16719" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0025.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16719" class="wp-image-16719" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0025.jpg" alt="" width="400" height="300" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0025.jpg 2304w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0025-300x225.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0025-1024x768.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0025-768x576.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0025-1536x1152.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0025-2048x1536.jpg 2048w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0025-280x210.jpg 280w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0025-150x112.jpg 150w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16719" class="wp-caption-text">東部シャン州のケントゥンで開かれた「全国シャン新年祝賀会」の開会式の様子（2012年12月12日、筆者撮影）</p></div>

<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>祝賀会と国際会議が東部シャン州で同時開催</strong></span></p>
<p>　ミャンマーのシャン族にとって、2012年は特別な年となった。シャンの新年を祝う全国大会の開催が、独立後初めて政府から認められたのだ。その会場となったのが、東部シャン州の中心であるケントゥンだった。シャン州とタイ王国、ラオス、そして中国・雲南省を結ぶ交通の要所に位置するという地理的な優位性から、この地で開催されることになったという。４〜５カ月前に開催が認められ、実質２カ月で準備が進められた。それまでは、基本的に地域ごとに開催され、相互に招待し合うことはあっても全国規模での開催は認められていなかったが、これ以降、2014年には南部シャン州のタウンジーで、その後、2018年には北部シャン州のラショーで、全国規模の祝賀会が開かれることになる。</p>
<p>　2012年のシャン新年全国大会では、新しい年の祝賀会に加え、シャン研究に関する国際会議も開かれた。「タイ（シャン）民族集団の文化遺産」というテーマで開かれたこの記念すべき会議に招かれた筆者は、J.N.クッシング博士の辞書について人類学の観点から研究した論考を発表した。<br>
　クッシングは、19世紀にキリスト教プロテスタントの一派であるバプティストの宣教師として、アメリカから英領ビルマ（当時）に渡り、シャン語と英語の辞書の編纂をはじめ、旧約聖書や新約聖書のシャン語への翻訳などで活躍した。<br>
　彼が編纂した辞書には、さまざまな民族の呼称が散見される。それはまさに、西洋知とシャン民族知が邂逅した記録であり、西洋人がどのようにシャンを理解したかを示す痕跡である。第３話でも指摘したように、シャン族の人々は自らを「タイ」と呼ぶ。そんな彼らが「シャン」と呼ばれるようになったのは、英領植民地時代に、ヨーロッパの人々がタイ語系の言語を話す人々をそう呼んでいたことに遡る。つまり、結果的には、ヨーロッパ人が「シャン」という呼称を外の世界に広めたと言える。筆者は、全国シャン新年祝賀会と併せて開かれた国際会議に招待された唯一の日本人として、このようなシャン民族知の構築過程に迫ることで研究成果を現地に還元しようと試みた。</p>

<div id="attachment_16728" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0108.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16728" class="wp-image-16728" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0108.jpg" alt="" width="400" height="300" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0108.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0108-300x225.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0108-1024x768.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0108-768x576.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0108-1536x1152.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0108-2048x1536.jpg 2048w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0108-280x210.jpg 280w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0108-150x112.jpg 150w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16728" class="wp-caption-text">国際会議会場で取材を受けたメディア・レポーターたちと（中央が筆者）（2012年12月14日、筆者提供）</p></div>

<p>　この会議には、タイ系の民族の一つ、アホム族の研究者がインドのアッサム地方から参加していたほか、タイ王国最北端の街メーサイから来訪した研究者や、ミャンマー国内のシャン研究者なども集まっていた。筆者はその会場で、サイチョーウーと15年ぶりに再会した。1997年にシャンの伝説の王都と言われるカチン州のモーガウン（シャン語でムアンコーン）を共に旅した人物である（<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_5/">第５話</a>参照）。また、ケントゥンで金細工業を営み、財を成した資産家とも交流できた。</p>
<p>　このような機会に恵まれたのは、サイサンアイ博士の計らいだった。博士はミャンマーと中国の国境の街、ムセー出身で、ヤンゴン大学在学中にシャン語識字教育に参加した経験を有する。卒業後はミャンマー中央部のイエジンにある農業大学で教鞭をとっていたが、退職して工業製品の輸入ビジネスを立ち上げるかたわらシャン研究も続け、他の研究者の支援にも熱心だった。筆者は教鞭をとっていた広島大学にも二度にわたり招へいし、学生に講義してもらったことがある。<br>
　国際会議の会場では、ある人物に声をかけられた。東京・高田馬場にあるミャンマー料理屋で、シャン料理のメニューが豊富なことで知られる「ノングインレイ」を営むオーナーだ。ケントゥンは彼が幼少期を過ごした地であり、新年祝賀会を支援するために来たのだと流暢な日本語で話してくれた。その場で携帯番号を交換し、日本での再会を約束して別れた。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>多くのシャン民族が一堂に会した「連帯の証」</strong></span></p>
<p>　祝賀会のメイン会場となったケントゥン市内のサッカースタジアムにはシャン系の民族ごとにブースが設けられ、伝統衣装や手工芸品、書籍などが並べられたほか、来訪者を歓待する露店や遊興施設も設置され、メイン・ステージでは、シャン州都のタウンジーからやって来た舞踊団が神獣に扮するトー踊りや、神話上の鳥に扮した踊り手が鳥の動きや羽をはばたかせて舞うキナラ・キナリ踊りなど、シャン系の各民族が伝統的な舞踊を披露していた。また、タイ王国のチェンマイから招かれた歌手のステージも、祝賀の雰囲気を盛り上げていた。</p>

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<p>　祝賀会の実行委員会の書記長は、地元のミャンマータイムズ紙のインタビューに答え、「これほど多くの人々が参加するとは期待していなかった。来場者は20万人に上るのではないか」と述べた。書記長によれば、当初、実行委員会は、国内外のシャン系の各民族を最低３人ずつ招待したが、ほとんどの民族がこれに応え、なかには20～30人を派遣した民族もあったという。タイ王国との国境の街、ターチレイからは、100人以上が参加した。書記長は、「想像以上の規模になったため、うまくいかなかったこともある。今回の学びを次に生かし、より円滑に運営したい」と振り返った。さらに、「多くのシャン民族が一堂に会しているのは連帯の証であり、感慨深い。こうしてすべてのシャン系民族が互いにつながることで、一つのシャンになる」と語った。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>連邦の精神と平等の思想</strong></span></p>
<p>　この時期、高地にあるケントゥンの夜は冷える。夜のとばりが次第に消え、朝靄が立ち込める頃になって、ようやく開会式が始まった。祝辞の中で特に印象に残ったのは、軍管区司令官のスピーチだった。当時は民政移管を進めたテインセイン政権であったが、軍関係者の臨席とスピーチは依然として必須だった。軍管区司令官は、冒頭にシャン語で挨拶し、人々からの歓声を受けた後、ビルマ語で「デモクラシー」という単語を連呼しながら軍の功績と貢献を強調した。司令官は、「今回の祭典は、シャン文芸文化協会の中央本部とヤンゴン支部、そしてケントゥン支部の共催で開催された。今後は、タウンジーやラショーでも開催されるだろう」と続けた。筆者は、「連邦の精神」を優先する軍側の「デモクラシー」と、「民族の精神」が覚醒した平等＝イコールティの思想とのギャップを感じた。</p>

<div id="attachment_16722" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0043.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16722" class="wp-image-16722" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0043.jpg" alt="" width="400" height="300" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0043.jpg 2304w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0043-300x225.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0043-1024x768.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0043-768x576.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0043-1536x1152.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0043-2048x1536.jpg 2048w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0043-280x210.jpg 280w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0043-150x112.jpg 150w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16722" class="wp-caption-text">開会のスピーチを行う軍管区司令官（2012年12月12日、筆者撮影）</p></div>

<p>　次いで、シャン新年祝賀会の実行委員長がビルマ語で、また、シャン文芸文化協会の中央本部の名誉顧問がシャン語で、それぞれ祝辞を述べた。ビルマ語とシャン語の併用が印象的な開会式だった。</p>

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<p>　2012年12月13日深夜にカウントダウンが行われた後、14日に元日を迎えた。筆者はビルマ語が話せる外国人ということで珍しがられ、衛星テレビチャンネルのスカイネットからインタビューを受けた。</p>
<p>　なお、ケントゥンはこれが２回目の訪問だったが、いろいろな意味で中国の存在感の拡大を実感した。1995年に初めて訪れた時には、タイ王国の通貨であるバーツがケントゥンで流通しており、バーツ経済圏であることを感じたが、この時は中国の通貨、元が使えるようになっていた。また、この地で初めて全国規模でシャン新年の祝賀会の開催が認められたことについて、あるシャン族の知識人は、筆者に「中国との関係上、地理的な要衝に位置しており、物資が豊富で経済力があるうえ、近隣で武力衝突が起きておらず平穏だからではないか」と語った。</p>

<div id="attachment_16729" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0188.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16729" class="wp-image-16729" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0188.jpg" alt="" width="400" height="300" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0188.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0188-300x225.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0188-1024x768.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0188-768x576.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0188-1536x1152.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0188-2048x1536.jpg 2048w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0188-280x210.jpg 280w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0188-150x112.jpg 150w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16729" class="wp-caption-text">シャン文芸文化協会の中央本部の名誉顧問であるウー・サイアウントゥンが、ケントゥン市内の知人宅でシャン族の子どもから敬意を表す拝礼を受けて応える様子（2012年12月13日、筆者撮影）</p></div>

<p>　また、ケントゥンでは富裕層の存在も実感した、金細工業を営む前出の資産家に食事を振舞われた際、その年に発行されたばかりの一万チャット札の新札を束で手にしているのを目にしたのだ。筆者だけでなく、周囲のミャンマー人たちにとっても物珍しかったようで、皆、新札の束にしげしげと見入りながら、順に隣に手渡していたのを覚えている。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>中国との国境の街、ムアンラー</strong></span></p>
<p>　2012年のケントゥン訪問の中でも特筆すべきなのは、中国との国境の街、ムアンラーへの一泊二日の訪問だ。ムアンラーは、シャン州第四特別区と呼ばれる少数民族武装勢力が支配する地域で、シャン州の中では治安が特に不安定で、外国人はもとより、ミャンマー人ですら行きたがらない場所である。中国国内では違法なカジノと売春の拠点として知られていたようだが、実際に訪ねると、想像以上に中国色の濃い街だった。市内には中国語の看板が目立ち、宿泊した東方大酒店というホテルのレセプショニストが話す言葉も中国語だった。</p>

<div id="attachment_16733" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0244.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16733" class="wp-image-16733" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0244.jpg" alt="" width="400" height="300" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0244.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0244-300x225.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0244-1024x768.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0244-768x576.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0244-1536x1152.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0244-2048x1536.jpg 2048w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0244-280x210.jpg 280w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0244-150x112.jpg 150w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16733" class="wp-caption-text">ムアンラーで宿泊した東方大酒店の前で微笑む参加者たち（2012年12月15日、筆者撮影）</p></div>

<p><br>
　この時にムアンラーを訪問した参加者の中で、外国人は、インド・アッサム地方から来ていた研究者と筆者の二人だけだった。招待を受けて参加したにも関わらず、到着してみると、提出されているはずの旅行許可申請が現地に届いていないことが判明し、肝を冷やした。地方行政局と現地で交渉して事なきを得たのは、たまたま情勢が平穏だったからであり、幸運でしかない。</p>
<p>　これに先立ち、筆者は1999年10月、中国・雲南省の昆明からミャンマーと国境を接するターロー（打洛）を訪ねたことがある。昆明で開かれた国際学術研究のワークショップのプログラムに、雲南省の最南端に位置するシーサンパンナ（西双版納）タイ族自治州の視察が含まれていたのだ。当時は、中国人とミャンマー人以外は国境を越えることが許されていなかったため、国境検問所の向こうにパゴダを臨みながら「国境とは何か」と思いを巡らせた。それから13年を経て、ようやくミャンマー側からたどり着いてみると、国境の風景は一変し、立派な検問所が建設されていた。</p>

<div id="attachment_16732" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC06336b-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16732" class="wp-image-16732" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC06336b-scaled.jpg" alt="" width="400" height="244" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC06336b-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC06336b-300x183.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC06336b-1024x624.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC06336b-768x468.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC06336b-1536x936.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC06336b-2048x1248.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16732" class="wp-caption-text">国境付近に建設されていた検問所（2012年12月16日、筆者撮影）</p></div>

<p>　おりしも、ムアンラーでもシャン新年の祝賀会が開催されており、雲南省シーサパンナのタイ族自治州側から来た舞踊団が踊りを披露するなど、国境を越えて豊かな交流があることが感じられた。また、ミャンマー側のパフォーマンスに比べて雲南省の舞踊団のパフォーマンスは洗練されており、観光化の進展具合の違いも表れていた。</p>

<div id="attachment_16731" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0242b.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16731" class="wp-image-16731" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0242b.jpg" alt="" width="400" height="211" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0242b.jpg 2480w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0242b-300x158.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0242b-1024x540.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0242b-768x405.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0242b-1536x810.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/IMGP0242b-2048x1080.jpg 2048w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16731" class="wp-caption-text">ムアンラーで開かれたシャン新年の祝賀会で披露された舞踊（2012年12月15日、筆者撮影）</p></div>

<p>　シャン州の中でも中国との国境付近に住む人々は、情勢が落ち着いてさえいれば、非常に頻繁に中国側と交流している。実際、あるシャン族は、中国側に住む親戚と連絡を取り合い、ムアンラーで面会していた。インド・アッサムから来た前述の研究者も、ケントゥンで通じなかったスマートフォンがムアンラーでは使えることに驚いていた。</p>

<div id="attachment_16734" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC06352-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16734" class="wp-image-16734" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC06352-scaled.jpg" alt="" width="400" height="300" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC06352-scaled.jpg 2560w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC06352-300x225.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC06352-1024x768.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC06352-768x576.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC06352-1536x1152.jpg 1536w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC06352-2048x1536.jpg 2048w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC06352-280x210.jpg 280w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/DSC06352-150x112.jpg 150w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16734" class="wp-caption-text">ムアンラーの町の遠景（2012年12月16日、筆者撮影）</p></div>

<p>　ムアンラーでは、地元に住むシャン新年祝賀会の実行委員会のメンバーとともに、シャン文芸文化の保護について会合が開かれた。ヤンゴンやケントゥンからの来訪者、そしてインド人研究者らが口々にその重要性と必要性を訴えたにもかかわらず、経済発展や戦争の回避が優先され、あまり共感を得られなかったと後で聞いた。文芸文化団体同士が連帯するために政治情勢の安定は大前提であり、国軍や少数民族武装集団とのコネクションもまた不可欠なのである。</p>
<p>　街や行政単位ごとに実施されている文化的な活動の成功には、地理的な位置関係や経済状況、そして軍関係者とのコネクションの有無が関わっていること、そして、文芸文化団体の運営は中央組織への集権化が期待される一方、民族ごとの地域性も影響していることを確認する旅となった。</p>
<p>&nbsp;</p><p>The post <a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_8/">ミャンマー（ビルマ）知・動・説の行方（第８話）</a> first appeared on <a href="https://dotworld.press">dotworld｜ドットワールド｜現地から見た「世界の姿」を知るニュースサイト</a>.</p><div class='yarpp yarpp-related yarpp-related-rss yarpp-related-none yarpp-template-list'>
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		<title>ミャンマー（ビルマ）知・動・説の行方（第７話）</title>
		<link>https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_7/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[dotworld_admin]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 12 Mar 2025 08:35:08 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ミャンマー]]></category>
		<category><![CDATA[知・動・説の行方]]></category>
		<category><![CDATA[社会を読み解く]]></category>
		<category><![CDATA[髙谷紀夫]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://dotworld.press/?p=16695</guid>

					<description><![CDATA[<p>　民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは宗教や言語、文化、そして歴史を共有し、民族意識により結び付いた人々 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p>　民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは宗教や言語、文化、そして歴史を共有し、民族意識により結び付いた人々の集まりを指すとされますが、多民族国家ミャンマーをフィールドにしてきた文化人類学者で広島大学名誉教授の髙谷紀夫さんは、文化と社会のリアリティに迫るためには、民族同士の関係の特異性や、各民族の中にある多様性にも注目し、立体的で柔軟な民族観の構築が必要だと言います。</p>
<p>　特にビルマとシャンの関係に注目してきた髙谷さんが、多民族国家であるにもかかわらず民族の観点から語られることが少ないミャンマー社会について、立体的、かつ柔軟に読み解く連載の第７話です。</p>

<div id="attachment_16704" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000109.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16704" class="wp-image-16704" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000109.jpg" alt="" width="400" height="268" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000109.jpg 1840w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000109-300x201.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000109-1024x686.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000109-768x514.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000109-1536x1028.jpg 1536w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16704" class="wp-caption-text">北部シャン州のチャウメ―で開かれた「シャン文芸功労者の日」で仏教経典を吟唱する若者たち（1999年１月１日、筆者撮影）</p></div>

<p><strong><span style="font-size: 14pt;">シャンであること、シャンになること</span></strong></p>
<p>　この連載では、文化人類学者である筆者が通算4、5年にわたるミャンマーでのフィールドワーク中に現地で参加した文化イベントを時系列で紹介している。第７話からは、シャン族やシャン系の人々、あるいはシャン州にゆかりのある人々が参加したイベントを写真とともに振り返りながら、シャン研究に関する「知・動・説」の足跡をたどることにしたい。</p>
<p>　かつて筆者は、「シャンであること、シャンになること」について問う論文を1998年と2007年に発表した（参考文献参照）。生まれながらのシャンはいない。民族・宗教・言語の規範や価値観の面で文化化の過程を経てシャンになり、シャンであることを“当たり前”にしていくのである。そこで筆者は、〈シャン〉を前提にするのではなく、〈シャン〉になるプロセスに注目した。このプロセスを、筆者は〈シャンのシャン化〉と呼んでいる。</p>
<p>　このテーマに注目したのは、<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_5/">第５話</a>でも触れた通り、カチン州で出会った〈シャン系の人々〉、特にタイ・リェンがビルマ語を母語とし、男性がビルマ風ロンジーを身に着けるなど、〈ビルマ化〉の影響を受けながらも、シャン族としての民族意識を持ち続けている様子を見て、「シャンとは誰か」と自問するようになったことがきっかけだった。</p>

<div id="attachment_16710" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000112.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16710" class="wp-image-16710" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000112.jpg" alt="" width="400" height="268" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000112.jpg 1840w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000112-300x201.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000112-1024x686.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000112-768x514.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000112-1536x1028.jpg 1536w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16710" class="wp-caption-text">シャン語で書かれた経典（1999年１月１日、筆者撮影）</p></div>

<p>　では、シャン州に住むシャン族や、シャン文化の影響を受けてきた周辺民族はどうか―。そんな問題意識を抱えて筆者が初めて北部シャン州を訪れたのは、1997年４月のことだった。当時、大学歴史研究センターの外国人客員研究員としてヤンゴンに滞在していた筆者は、北部シャン州の各地で〈シャンのシャン化〉を動かしていたシャン文芸文化協会を訪ね、インタビューを重ねた。もっとも、中国との国境の街ムセーは、当時、訪問するために特別許可が必要だったため、断念せざるを得なかった。念願がかない訪問できたのは、2019年末のことだった。その様子は第15話で紹介する。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>チャウメーの出会い　</strong></span></p>
<p>　北部シャン州では、チャウメーの街でウー・クンミィンに出会った。彼は、ヤンゴン大学の国際関係学科で准教授をしていたソーキンジーという女性の弟だった。姉弟の父親は医者で、彼らの伯父は王朝時代からシャン諸州を統治していた最後の伝統的首長（ツァオパー）の一人だったという。</p>
<p>　ソーキンジーは当時、ヤンゴン大学内のシャン文芸文化組織で要職を務めていた。他方、弟のウー・クンミィンも、マンダレー大学に在学中、シャン文芸文化の保存運動に書記長として参画していた。</p>

<div id="attachment_16696" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/29d3bc99193cb0b837fb8cc53f050ae5-4.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16696" class="wp-image-16696" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/29d3bc99193cb0b837fb8cc53f050ae5-4.jpg" alt="" width="400" height="291"></a><p id="caption-attachment-16696" class="wp-caption-text">ヤンゴン大学のシャン文芸文化組織のメンバーたち。 前列左から５人目の男性がウー・サイアウントゥン（<a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_3/">第３話</a>参照）で、その右隣がソーキンジーである（1995年、シャン族の知人提供）</p></div>

<p>　筆者はその後、世紀をまたいで北部シャン州に通い続けた。年末年始には、毎年、チャウメーにある彼の家にホームステイをしながらシャン語を勉強し、20世紀最後の正月も、21世紀最初の正月も彼の家で迎えた。こうして、シャン研究の知・動・説のうち、「動」は、〈シャンのシャン化〉の現場で本格的に始まった。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>シャン文化の復興と継承を促進</strong></span></p>
<p>　北部シャン州では、西暦でだいたい12～１月にあたるシャン暦１月から、西暦でだいたい１～２月にあたるシャン暦２月にかけて、「シャン文芸功労者の日」の祝賀会が各地で開かれている。これは、シャンの文芸に功労のあった先達を顕彰し、シャン文化の復興と継承を促すことを目的としたもので、1968年12月に州都のタウンジーで開かれて以来、チャウメーやシポー（ビルマ語ではティボー）など、各地で盛大に祝われている。いわば、古今の文芸功労者を顕彰するビルマ族の「文芸功労者の日」（サソードー・ネ）のシャン版である。</p>

<div id="attachment_16711" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000096.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16711" class="wp-image-16711" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000096.jpg" alt="" width="400" height="268" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000096.jpg 1840w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000096-300x201.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000096-1024x686.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000096-768x514.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000096-1536x1028.jpg 1536w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16711" class="wp-caption-text">北部シャン州のチャウメ―で開かれた「シャン文芸功労者の日」でクーモーを顕彰する人々（1999年１月１日、筆者撮影）</p></div>

<p>　この「シャン文芸功労者の日」の祝賀会は、シャン語で「ポイ・クーモー・タイ」と言う。「クーモー」の「モー」は、シャン文化を享受する者が身に付けるべき基本的な技能を意味し、「クーモー」で「知識が豊かな人」を意味する。<br>
　まさにこの「クーモー」と言えるのが、シャン文芸の「生みの親」たちであろう。シャン州各地をはじめ、シャンと縁が深いタイ王国北部のメーホンソーン県でも、しばしば彼らの系譜を目にした。場所によって詳細は異なるが、代表的な以下の６人の名前は、どの系譜にも共通している。彼らの名前は、シャン文芸功労者の伝記『シャンの６人の文芸功労者』にも挙げられている。</p>
<div style="background: #FFFFFF; border: 2px solid #00a5dd; border-radius: 5px; padding: 10px;">
<p>シャン文芸の「生みの親」たち</p>
<p>① ツァオ・タンマティンナ 　　　　&nbsp; &nbsp;　 1541（シャン暦12月9日）～1640<br>
② ツァオ・カーンスー 　　　　&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp;　　1787（シャン暦12月１日）～1881<br>
③ ツァオ・コーリー 　　　　　　&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; 1847（シャン暦12月9日）～1910<br>
④ ナン・カムクー 　　　　　&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; 　　1853（シャン暦12月7日）～1918<br>
⑤ ツァオ・アマットロン・ムンノーン　 1854（シャン暦12月4日）～1905<br>
⑥ ツァオ・ノーカム　　　&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp;　 　1856（シャン暦11月7日）～1895</p>
</div>
<p>&nbsp;</p>
<p>　なお、功労者のリストは各地で加えられていく。2018年にラショーを訪ねた時には、最近亡くなった人物がリストに加えられているのを見た。その中には、生前、筆者がお世話になったルン・タンケーの名前もあった。シャン文字を広く普及させるために、1940年に始まった新シャン字体の開発プロジェクトに参画していた人物の一人だった。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>「シャン文芸功労者の日」（1999年１月１日）</strong></span></p>
<p>　1999年１月、筆者はチャウメーのカンボーザ寺院で10日間にわたり開催された「シャン文芸功労者の日」の祝賀会に参加した。</p>
<p>　初日の１月１日の朝に開かれた開会式では、軍関係の代表と、行政官の代表が２人でテープカットを行った。複数の少数民族武装組織がこの地区周辺に拠点を置き、恒常的に抗争を続けていることを象徴しているように感じた。その後、近隣の30の村々から集まった約1800人の村人たちが敬礼する中でシャン旗が掲揚され、境内の奥では、仏・法・僧の三宝に誠心を捧げる三帰依も行われた。午後は、チャウメーの郊外にある著名なクーモーの一人の墓前で顕彰の祝賀会も行われた。</p>

<div id="attachment_16703" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000103b.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16703" class="wp-image-16703" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000103b.jpg" alt="" width="400" height="268" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000103b.jpg 1840w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000103b-300x201.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000103b-1024x686.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000103b-768x514.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000103b-1536x1028.jpg 1536w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16703" class="wp-caption-text">北部シャン州のチャウメ―で開かれた「シャン文芸功労者の日」でテープカートをする軍関係者とシャンの重鎮たち（1999年１月１日、筆者撮影）</p></div>

<p>　さらに、文芸功労者の顕彰だけでなく、仏教経典の吟唱や、シャン太鼓の演奏、剣術、舞踊、歌謡、綱引き、伝統衣装のファッションショー、弁論コンテストなど、さまざまなシャン文化が披露され、この場が伝統文化の重要な保存活動の場にもなっていることが伝わってきた。特に、祝賀会の沿革と主旨に照らして最も根幹に関わるプログラムだと言える仏教経典の吟唱には、12の団体が参加していた。</p>
<p>　「シャン文芸功労者の日」に合わせて企画される文化的なパフォーマンスは、年々、拡充され、祝祭の色合いが濃くなっているようだった。興味深いことに、普段は宗派の異なる仏教行事にまったく参加しないシャンの人々も、この日だけは宗派を超え、互いの祝賀会や行事に参加していた。それぞれに帰依している仏教の宗派より、〈シャン〉であることが優先されていたためだと言えよう。</p>

<div id="attachment_16706" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000105.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16706" class="wp-image-16706" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000105.jpg" alt="" width="400" height="268" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000105.jpg 1840w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000105-300x201.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000105-1024x686.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000105-768x514.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/FH000105-1536x1028.jpg 1536w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16706" class="wp-caption-text">普段は宗派の異なる仏教行事に一切参加しないシャンの人々も、「シャン文芸功労者の日」には、宗派を超えて互いの祝賀会や行事に参加していた（1999年１月１日、筆者撮影）</p></div>

<p>　これまで見てきたように、「シャン文芸功労者の日」は、ビルマ化や西洋化の強い波に日々、さらされているマイノリティの人々が、シャンとしてのアイデンティティを確認し、「シャンである」、あるいは「シャンになる」ための祭事である。彼らは、家庭内ではシャン語で会話しているにも関わらず、学校教育の教授言語はビルマ語であり、シャン語を公的に学ぶこともかなわない。就職や出世にも、ビルマ語や英語の能力が必須なのである。そんな彼らが、マジョリティであるビルマ族と共有する仏教信仰の場を利用してシャン民族の知を継承することを目指したのが、「シャン文芸功労者の日」である。それはまさに、〈シャンのビルマ化〉と表裏一体をなす〈シャンのシャン化〉の表象であった。人々が宗派を超えて参加していたことも、それを示唆している。シャン族による「シャン」の表象には、さまざまな演出と仕掛けがあったのである。</p>
<p><strong><span style="font-size: 14pt;">王宮に残る歴史の痕跡</span></strong></p>
<p>　近現代史の政治的文脈からシャンを考える時には、伝統的首長である「ツァオパー」を抜きには語れない。英領植民地下にあった1922年にシャン連合州を組織し、少数民族とビルマ族の連邦制国家の発足が合意された1947年のパンロン会議にも、複数のシャンのツァオパーが参加した。その体制は、1959年にツァオパーが封建的な特権を返上し、1962年に軍事クーデターが起きるまで続いたが、シャン語で「ホー」と呼ばれる各地の王宮は、一部を除いて放置・解体され、北部シャン州のシポーや、南部シャン州のニャウンシュエなどにわずかに残っているだけだ。</p>

<div id="attachment_16823" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/Hsipaw-Haw-4.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16823" class="wp-image-16823" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/Hsipaw-Haw-4.jpg" alt="" width="400" height="268" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/Hsipaw-Haw-4.jpg 1840w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/Hsipaw-Haw-4-300x201.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/Hsipaw-Haw-4-1024x686.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/Hsipaw-Haw-4-768x514.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/Hsipaw-Haw-4-1536x1028.jpg 1536w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16823" class="wp-caption-text">歴史を感じさせる風景と佇まいが外国人観光客に人気なシポー王宮（1997年４月26日、筆者撮影）</p></div>

<p>　なかでもシポーは、歴史を感じさせる風景と佇まいが外国人観光客に人気だ。街の象徴はなんといってもホー王宮だが、王宮と幹線道路を挟んで反対側には、マンダレーのマハムニパゴダをモデルにした仏陀像があり、王朝時代のビルマ王とシポー・ツァオパーとの関係を彷彿とさせる。この仏陀像の堂内には、「1895年」（ビルマ暦1257年）と寄進年が刻まれており、ツァオパーの存命中から今にいたるまで、パゴダのための喜捨の行列が編成されていることを示している。</p>

<div id="attachment_16825" style="width: 275px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/52bdb3f6f05b6a5e49b5d907d959aa7d-scaled.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16825" class="wp-image-16825" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/52bdb3f6f05b6a5e49b5d907d959aa7d-scaled.jpg" alt="" width="265" height="400" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/52bdb3f6f05b6a5e49b5d907d959aa7d-scaled.jpg 1698w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/52bdb3f6f05b6a5e49b5d907d959aa7d-199x300.jpg 199w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/52bdb3f6f05b6a5e49b5d907d959aa7d-679x1024.jpg 679w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/52bdb3f6f05b6a5e49b5d907d959aa7d-768x1158.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/52bdb3f6f05b6a5e49b5d907d959aa7d-1019x1536.jpg 1019w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/52bdb3f6f05b6a5e49b5d907d959aa7d-1358x2048.jpg 1358w" sizes="auto, (max-width: 265px) 100vw, 265px" /></a><p id="caption-attachment-16825" class="wp-caption-text">王宮と幹線道路を挟んで反対側にはツァオパーゆかりのパゴダがあり、祭事の際は多くの参拝者で参道が賑わう（2001年12月21日、筆者撮影）</p></div>

<p>　なお、国営紙によれば、現在の軍事政権が2023から2024年にかけて、センウィやケントゥンにあるホー王宮を再建し、ミンアウンフライン総司令官が出席して記念式典を行ったという。「ホー王宮はユニオン＝連邦の象徴であり、観光資源にしたい」と総司令官が発言したと記事は伝えているが、真相はどうか。</p>
<p>　このように、「シャン文芸功労者の日」は、シャン族による〈シャンのシャン化〉のソフト面での営みである。他方、現軍事政権によるホー王宮の再建は、一見、〈シャンのシャン化〉をハード面で支援しているように見えるものの、あくまでビルマ族中心の歴史を伝える博物館という意味が込められている。これはすなわち、ホー王宮を介した〈シャンのビルマ化〉であり、〈ビルマ化〉に翻弄されたシャン文化の表象だと言えよう。</p>
<p>［参考文献］ &nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;</p>
<p>髙谷紀夫　1998　「シャンの行方」『東南アジア研究』35巻４号、38-56頁.</p>
<p>　＊拙論は、<a href="https://kyoto-seas.org/pdf/35/4/350403.pdf">京都大学のリポジトリ</a>でダウンロードすることが可能。</p>
<p>Takatani Michio 2007“Who are the Shan? An Ethnological Perspective”, Mikael Gravers (ed.) <em>Exploring Ethnic Diversity in Burma</em>, NIAS Press, pp.178-199.</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p><p>The post <a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_7/">ミャンマー（ビルマ）知・動・説の行方（第７話）</a> first appeared on <a href="https://dotworld.press">dotworld｜ドットワールド｜現地から見た「世界の姿」を知るニュースサイト</a>.</p><div class='yarpp yarpp-related yarpp-related-rss yarpp-related-none yarpp-template-list'>
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		<title>ミャンマー（ビルマ）知・動・説の行方（第６話）</title>
		<link>https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_6/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[dotworld_admin]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 19 Feb 2025 01:37:31 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ミャンマー]]></category>
		<category><![CDATA[知・動・説の行方]]></category>
		<category><![CDATA[社会を読み解く]]></category>
		<category><![CDATA[髙谷紀夫]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>　民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは宗教や言語、文化、そして歴史を共有し、民族意識により結び付いた人々 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p>　民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは宗教や言語、文化、そして歴史を共有し、民族意識により結び付いた人々の集まりを指すとされますが、多民族国家ミャンマーをフィールドにしてきた文化人類学者で広島大学名誉教授の髙谷紀夫さんは、文化と社会のリアリティに迫るためには、民族同士の関係の特異性や、各民族の中にある多様性にも注目し、立体的で柔軟な民族観の構築が必要だと言います。<br>
　特にビルマとシャンの関係に注目してきた髙谷さんが、多民族国家であるにもかかわらず民族の観点から語られることが少ないミャンマー社会について、立体的、かつ柔軟に読み解く連載の第６話です。</p>

<div id="attachment_16663" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/Hsipaw-NOV1997-2.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16663" class="wp-image-16663" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/Hsipaw-NOV1997-2.jpg" alt="" width="400" height="268" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/Hsipaw-NOV1997-2.jpg 1840w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/Hsipaw-NOV1997-2-300x201.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/Hsipaw-NOV1997-2-1024x686.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/Hsipaw-NOV1997-2-768x514.jpg 768w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/Hsipaw-NOV1997-2-1536x1028.jpg 1536w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16663" class="wp-caption-text">北部シャン州シポーで開かれた新年祝賀会では、シャン系民族の横並びの《多》民族表象が見られた（1996年12月撮影、シャン族の知人提供）</p></div>

<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>連邦記念日の祝賀イベント（1984年２月12日）</strong></span></p>
<p>　日本国文部省（当時）のアジア諸国等派遣留学生として滞在した1983〜1984年、筆者はさまざまな場面で《多》民族の表象を体験する機会に恵まれた。なかでも圧巻だったのは、1984年２月12日に開かれた連邦記念日の祝賀イベントだった。ミャンマー（ビルマ）の独立に際して、アウンサン将軍と少数民族の代表者たちが連邦国家の建設に合意し、1947年２月12日にパンロン協定が締結されたことに由来している。<br>
　連邦記念日の祝賀イベントは、ヤンゴン市内の旧競馬場、チャイカサン・スタジアムで行われていた。その広大な敷地内に設営されたパビリオンやステージでは、数日間にわたって繰り広げられていた各民族の歌や舞踊の盛り上がりが最高潮に達していた。光量不足で撮影を諦めざるを得ず、残念ながらここで披露できる写真はないが、ただただ見事という一言に尽きる舞台であった。<br>
　首都はその後、2006年にネーピードーに移された。それ以降、地元紙は連邦記念日にもっぱら新首都に集まって記念日を祝う首脳陣の様子を報じるようになったが、ヤンゴンでも中心部に位置する金色のシュエダゴン・パゴダを東に仰ぐ人民公園でも、早朝、それぞれの民族衣装をまとった代表者たちが連邦国旗の掲揚と表敬式を行っていたようだ。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>「135民族」と「33民族」に込められた政治的な意図</strong></span></p>
<p>　ところで、ミャンマー（ビルマ）にはいくつの民族がいて、政府系メディアで用いられている「主要８民族、135民族」という数字は、《多》民族の表象にどう反映されているのだろうか。第３話では、1982年の市民権法に言及しつつ、軍事政権が国勢調査で用いてきた民族区分の考え方が恣意的なもので、一貫性のない線引きであったことを指摘した。</p>

<div id="attachment_16670" style="width: 278px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/eb22bf7a906b7f73af3d68cd620dade7.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16670" class="wp-image-16670" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/eb22bf7a906b7f73af3d68cd620dade7.jpg" alt="" width="268" height="400" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/eb22bf7a906b7f73af3d68cd620dade7.jpg 465w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/eb22bf7a906b7f73af3d68cd620dade7-201x300.jpg 201w" sizes="auto, (max-width: 268px) 100vw, 268px" /></a><p id="caption-attachment-16670" class="wp-caption-text">タイ・クゥンの民族衣装を着てシャンの新年祝賀会に参加した男女（1996年撮影、シャン族の知人提供）</p></div>

<p data-wp-editing="1">　ここで、筆者自身の経験を紹介したい。筆者が初めて135民族に関するデータに接したのは、1995年３月のことだ。文化省（当時）の傘下にあった文化館局の局長に閲覧を申し込んだところ、副局長が記憶をたどり、ヤンゴン市内にあった国立図書館に同行してくれたのだ。筆者はそこで、1983年の国勢調査で用いられたという135民族のリストを入手した。1990年９月26日付のビルマ語国営紙に掲載されたものである。<br>
　このリストでは、計135民族が、カチン、カヤー、カレン（ビルマ語でカイン）、チン、ビルマ（ビルマ語でバマー）、モン、ラカイン、そしてシャンという８つの主要民族群に分類されたうえで列挙されている。さらに、各群の最初には、政府系メディアが報じる「主要８民族」が135民族の一つとして名を連ねているのを見ると、この分類が主要８民族を意識していることは明らかだ。<br>
　しかし、詳しく見てみると、この線引きは恣意的で、一貫性がないことが随所から伺える。たとえば〈シャン群〉として列挙されている33の民族には、シャン、シャン･ジー、タイ・ロンの３民族の名称が含まれている。これについては、彼ら自身も、周辺の民族も、皆、ビルマ語のシャン･ジー（「大きなシャン」の意）という自称と、シャン語のタイ・ロンは同じだと言う。また、シャン・ジー（あるいはタイ・ロン）はシャン系民族の代表であり、シャンの中でもマジョリティなのだという自己評価も耳にした。筆者も、シャン系の人々に民族を尋ねる時に、ビルマ語で聞くか、シャン語で聞くかで返ってくる答えが変わるという経験をした。「シャン系の中の何シャンか」とさらに尋ねた時に、重複した答えが返ってきたこともある。<br>
　135という民族の数がどのように確定され、公定化されたのか、経緯の詳細は不明だが、軍事政権時代から、ほぼ独力で少数民族の研究に取り組んできた民族誌家のウー・ミンナインは、「調査対象者が自己申告する民族名をそのまま集計したために重複しているのではないか」と話していた。</p>

<div id="attachment_16668" style="width: 283px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/44d29d2792be3bad9a9ed98c7bbb20d6.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16668" class="wp-image-16668" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/44d29d2792be3bad9a9ed98c7bbb20d6.jpg" alt="" width="273" height="400" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/44d29d2792be3bad9a9ed98c7bbb20d6.jpg 463w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/44d29d2792be3bad9a9ed98c7bbb20d6-205x300.jpg 205w" sizes="auto, (max-width: 273px) 100vw, 273px" /></a><p id="caption-attachment-16668" class="wp-caption-text">タイ・リソーの民族衣装を着てシャンの新年祝賀会に参加した男女（1996年12月、シャン族の知人提供）</p></div>

<p>　なお、〈シャン群〉の33民族には、母語がシャン系言語ではないものの、2008年のミャンマー連邦共和国憲法（以下、2008年憲法）によってシャン州内に民族自治地域・区域の設定を認められたダヌやパオ、パラウン、コーカン、そして“ワ”（ルウェラ）の名前も入っている。さらに、カチン州に居住するシャン系のカムティ・シャンや、タイ・リェンも含まれている。つまり、〈シャン群〉として列挙される民族には、人々が自己申請する民族名に、シャン州内に居住しているという行政単位の観点と、シャン系であるという民族系統の要素が加わっているのだ。〈シャン群〉というくくりに一貫性が見られないのは、そのためである。つまり、135という民族数はあくまで公的な総数に過ぎず、連邦制の堅持という政治的な文脈で意味を持つのである。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>民族の数を巡って揺れる政治的な評価</strong></span></p>
<p>　椎名誠著『秘密のミャンマー』（2003年、小学館）には、「我々はミャンマーに135の民族があると言ってはいけないのです。シャン族が33民族に分かれていると言ってもいけないのです。政府はそう言わせないようにしています」と話すガイドが登場する。徹底して秘密にするというより、「知っているが知らないことにする」というのが実相に近いだろう。「では、政府が言う民族の数はいくつか」と重ねて尋ねる椎名氏に、ガイドは「８」と答えている。言うまでもなく、主要民族の数である。椎名氏がミャンマーを訪ねた当時、135という民族の数は表立って言及されない時期だったのである。もっとも近年は、国営紙でも再び135という数字が用いられるようになっている。<br>
　なぜ、民族の数をめぐる政治的な評価がこれほど変化してきたのか。1990年代から2000年代初頭に軍幹部と蜜月関係を保ちながら生き抜いてきたある知識人に筆者が理由を尋ねると、彼は「民族数への言及が制限されたのは、（当時、軍のトップだった）タンシュエ上級大将の意向だった」と、即答した。もちろん、多民族国家において、民族の相違をことさら強調することに政権中枢側が神経をとがらせることがあっても、何ら驚くことではない。自民族意識を目覚めさせ、連邦の瓦解につながる危険性があるからだ。<br>
　事実、ミャンマー（ビルマ）の歴史はそれを証明している。1947年のビルマ連邦憲法では、シャン州、カチン州、カレン州、カレンニー州（現在のカヤー州）、チン特別区の設置が条文化され、連邦離脱の権利も規定されていた。1974年のビルマ連邦社会主義共和国憲法では、７州７管区が条文化された。そして2008年憲法では、民族自治地域・区域が新設された。それによって、各民族が自立や独立，自民族地域を求める意識が却ってかき立てられたように思われる。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>主要８民族と</strong></span><span style="font-size: 14pt;"><strong>プロパガンダ</strong></span></p>
<p>　ところで、ミャンマーの公的な祝日のうち、民族の名称が付いているのはカレン新年だけである。1937年に英領植民地議会で法案が採択され、翌1938年（カレン暦で2677年）に施行された。元日は、ビルマ暦で10番目のピャードー月白分１日にあたる。<br>
　筆者は、親しくしていたカトリック教徒の一家に誘われ、1984年（カレン歴で2723年）にヤンゴン市内のマヤンゴン郡で開かれたカレン新年の祝賀会に参加した。この年の元日は１月３日であった。会場には観覧車などが設置され、カレン族の衣装をまとった子どもや若者の人気を集めていた。<br>
　この日の筆者のフィールドノートには、祝賀会の後にタマイン地区へ移動し、カレン族が集住するキリスト教センターを見学した後、カレン族の仏教徒が集うアーレイン・ガーシンというパゴダを訪問し、隣接する寺院でカレン族出自の僧侶とも懇談したという記録がある。パゴダの境内では運動会が開かれており、宗教を超えてカレン新年を祝う人々で賑わっていた。</p>
<p>　それに対し、2002年12月にヤンゴン市内の南東地区付近にオープンした民族村は、主要８民族の衣装や生活習慣などを分かりやすく展示した、いわばテーマパークである。筆者も2005年、日本の内閣府が実施する青年国際交流事業のミャンマー派遣団長として渡航した際に訪問したのだが、敷地内には、主要８民族の伝統家屋をはじめ、仏教徒の巡礼地として知られるモン州のチャイティヨー仏塔（通称ゴールデン・ロック）のレプリカやカチン州北部の山々など、各州の代表的な風景がミニチュアサイズで再現され、片足漕ぎ舟を操る南部シャン州のインダー族を模した人形も展示されていた。<br>
　その時に謹呈された説明用資料には、民族村の目的として、①国民の団結と連邦の精神を高揚することと、②すべての民族の文化・習慣・伝統を一堂に集めて観察できるようにすること、の２点が挙げられていた。さらに、主要８民族の“代表的な”民族衣装を着た女性たちが８人、左からビルマ語のアルファベット順に並んで手をつないでいる写真も添えられており、《多》民族の団結を視覚化していることは明らかだった。</p>
<p>　当時、文化省ではなく、辺境地域民族集団進歩発展省がこの民族村を所管していた（その後、2011年に国境省の傘下に置かれた）ことを考えると、この横並びの《多》民族表象には、大いに政治的なプロパガンダが込められていると考えられる。また、民族の差異を民族衣装で表現している分、主要８民族の間の不平等の実態が却って見えづらくなっているとも言える。まるで各民族が有するさまざまな生活文化の文脈や背景を無視して、それぞれの文化の一部だけに光を当てて標準化し、陳列しているかのように筆者には感じられた。</p>

<div id="attachment_16660" style="width: 410px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/29d3bc99193cb0b837fb8cc53f050ae5-3.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16660" class="wp-image-16660" src="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/29d3bc99193cb0b837fb8cc53f050ae5-3.jpg" alt="" width="400" height="266" srcset="https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/29d3bc99193cb0b837fb8cc53f050ae5-3.jpg 1323w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/29d3bc99193cb0b837fb8cc53f050ae5-3-300x200.jpg 300w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/29d3bc99193cb0b837fb8cc53f050ae5-3-1024x681.jpg 1024w, https://dotworld.press/cms_wp/wp-content/uploads/2024/12/29d3bc99193cb0b837fb8cc53f050ae5-3-768x511.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 400px) 100vw, 400px" /></a><p id="caption-attachment-16660" class="wp-caption-text">民族村の資料には、主要８民族の民族衣装を着て手を取り合う女性たちの写真が掲載されている（筆者提供）</p></div>

<p>　ミャンマーの歴史と《多》民族の表象は、2013年12月にミャンマー（ビルマ）で開催された東南アジア競技大会 （SEA Games）、通称「東南アジアのオリンピック」の開会式にもよく表れていた。ビルマ族が中心となって国としての歴史を寸劇で紹介した後、主要８民族の代表者がそれぞれの民族衣装を身に着け、ビルマ語の歌に合わせて踊る様子を、筆者はテレビの前に釘付けになって見入った。さらに、７州７管区を地図上で表現するパフォーマンスや、ミャンマー大会のモットーである「緑、クリーン、友好」を表すマスゲームも行われた。まさに、2011年に民政移管したミャンマーが、テインセイン政権下で国際社会に復帰したことを喧伝する象徴的イベントだったと言える。事実、ミャンマーはその後、2014年に東南アジア諸国連合（ASEAN）の議長国となった。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>民族衣装は誰のものか</strong></span></p>
<p>　筆者は毎朝、ミャンマー国営紙など現地のメディアをウェブで閲覧している。2024年５月、ある記事が目に留まった。民族衣装の標準化を図るための会議が開かれたことを報じる記事（2024年５月24日付）だ。開催は2024年に入って２回目で、関係省庁からの代表者のほか、国立ヤンゴン文化芸術大学の学長や、各州の文芸文化団体の代表者も出席しているとのことだった。議長を務める宗教文化省のドー・ヌムラザン副大臣は、来日経験もあるため、名前に覚えがある読者もいらっしゃるだろう。<br>
　さらに記事は、この会議の目的について、主要８民族の男女の平時と祭礼時のドレス・コードを提起するとともに、それぞれの民族衣装をパテント化し、無形文化として指定することだと伝えていた。それぞれの民族の織物や意匠、色彩、装飾品にどんな意味が込められ、どのように継承されてきたのか、各民族の文芸文化団体の有識者に写真とともに提出を求め、次の国民文化中央委員会にかける予定だという。これに先立ち、2024年２月25日付の紙面には、国立ヤンゴン文化芸術大学が主要８民族の民族衣装の真正性について調査に乗り出したことを伝える記事も出ていた。<br>
　民族衣装とは誰のものなのか。ここにも《多》民族表象をめぐる政治的思惑が見え隠れしていると感じるのは、筆者だけだろうか。</p>
<p>（編集部注：第７話は３月中旬に公開予定です）</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>［参考文献］ <br>
椎名誠 2003『秘密のミャンマー』小学館.<br>
早瀬晋三 2020 『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム〜SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん.</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p><p>The post <a href="https://dotworld.press/myanmar_burma_cultural_anthropology_6/">ミャンマー（ビルマ）知・動・説の行方（第６話）</a> first appeared on <a href="https://dotworld.press">dotworld｜ドットワールド｜現地から見た「世界の姿」を知るニュースサイト</a>.</p><div class='yarpp yarpp-related yarpp-related-rss yarpp-related-none yarpp-template-list'>
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