ミャンマー(ビルマ)知・動・説の行方(第11話)
ビルマ化と西洋化が各地の地域性に与える影響
- 2025/4/9
- 知・動・説の行方
民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは宗教や言語、文化、そして歴史を共有し、民族意識により結び付いた人々の集まりを指すとされますが、多民族国家ミャンマーをフィールドにしてきた文化人類学者で広島大学名誉教授の髙谷紀夫さんは、文化と社会のリアリティに迫るためには、民族同士の関係の特異性や、各民族の中にある多様性にも注目し、立体的で柔軟な民族観の構築が必要だと言います。
特にビルマとシャンの関係に注目してきた髙谷さんが、多民族国家であるにもかかわらず民族の観点から語られることが少ないミャンマー社会について、立体的、かつ柔軟に読み解く連載の第11話です。
シャン文芸遺産会議(マンダレー、2016年12月27〜30日)
今回は、シャン文芸遺産会議について紹介したい。シャン語で「リックロン」と冠称されるこの会議は、シャン仏教の文献など文芸遺産の発掘と情報共有、保存および考察を目的として、2013年にヤンゴンで初めて開催された。以来、2014年には南部シャン州のライカー、2015年には北部シャン州のラショー、2016年には旧王都で国内第二の都市マンダレー、2017年にはかつてビルマ独立の父アウンサン将軍が少数民族の代表と連邦制による独立に合意したパンロン会議が開かれたことで知られるシャン州のパンロン、そして2018年には避暑地として名高いマンダレー管区のピンウールウィンで開かれている。2015年からは、シャン(タイ)史の研究会議も同時開催されるようになった。
一連の会議を主催していたのは、人々から「オックスフォード・サヤドー」(サヤドーは、僧侶の敬称)と呼ばれている僧侶だった。1964年にライカーに生まれ、タイ王国やスリランカ、英国で仏教の勉学を修めた人物で、オックスフォード・サヤドーという通称は、2004年に英国オックスフォード大学で博士号を取得した経歴に由来する。2016年には、シャン州の州都であるタウンジーの郊外にシャン州仏教大学を開学するなど、仏教の普及に加えてシャン民族としての知識や伝統に対する人々の意識啓発と醸成、高揚に重要な役割を果たしている知識人の一人である。
そんなサヤドーの名声は、筆者もかねてより耳にしていた。ヤンゴン市内で彼の講話のポスターを見かけたこともある。その後、2016年12月にマンダレーで4回目のシャン文芸遺産会議と2回目のシャン(タイ)史研究会議が4日間にわたり開かれた際、会場となったエーヤワディ川沿いの大乗仏教系寺院、金多堰(ジントーヤン)で筆者はサヤドーに会う機会に恵まれた。この年の会議は、当初、中国国境のムセー市で開催される予定だったが、治安が不安定化したため、急きょ、マンダレーに変更されたのだった。
当日は、シャンの文芸遺産(リックロン)に精通した126坊以上の僧侶が集まり、会場の一角には宿舎も用意されているようだった。壇上ではセッションごとに発表者が入れ替わり、モデレーターや司会者の進行に従って講演して質疑応答が行われた。それぞれの発表資料は事前にシャン系文字や英語で印刷され、当日、会場で配布された。
オックスフォード・サヤドーの危機感
1日目の会議で、前出のオックスフォード・サヤドーは英語とビルマ語、シャン語を巧みに使い分けながら議事をリードしていた。第10話でも触れた通り、筆者にとっては盛会を祝賀するパーリ語の詠唱の中で、シャン式の発音とビルマ式の発音が混在していたことが特に印象深く、同じシャン仏教徒の中でもビルマ化の影響はひとそれぞれだと感じた。同時に、ビルマ化の過程には、時間や空間、場所など、ひとくくりにできない複数の影響があると確信した。
筆者も、シャン(タイ)史の研究会議の歴史研究セッションで発表した。同席した発表者の中に、インドから来た女性がいた。彼女によれば、父親はタイ系の民族の一つであるタイ・アホムでヒンドゥー教徒、母親は別のシャン系民族であるパーケー族で仏教徒だということだった。
インド東北部のタイ系民族として知られるタイ・アホムは、13世紀に現在のミャンマーからブラマプトラ渓谷に移動したと言われている。その後、18世紀には、カムティやパーケーも移住したと考えられている。つまり、タイ系の人々の移住の時期にはいくつかの波があり、現在のシャン仏教徒に共通する年中行事や入仏門式の慣習を保持する民族集団もいるのである。
筆者は、人類学的な立場から、英領植民地化前夜にあたる19世紀のビルマ王朝時代から21世紀の現在までを「近代」だと考えている。この時期に、西洋近代の「知」の枠組みが《多》民族をめぐる語りに強い影響を与えたと考えているためである。しかし、筆者はこの日、外国人以外のすべての発表から、シャン族自身が自らの文芸伝統に対して強い畏怖と自負の念を抱いていることを感じた。この会議は、シャン系の人々の民族観や宗教観、言語観を顕示し、共有する場であったと言えよう。あるいは、会議を開催したオックスフォード・サヤドーがシャン文芸遺産の散逸と消滅に対して有していた強い危機感の表れであったとも言えるかもしれない。
ビルマ化が顕著なカチン州在住の人々
会議とその後の視察を通じ、筆者はシャン州のほかにカチン州などから来たシャン系の人々にも出会った。その一人、カチン州から来た78歳のシャン族の男性は、釈尊の臨終を描いた経典「涅槃経」(スッタ・ニッバーナ)を詠唱するために、経典の現物を持参していた。彼の話によれば、経典は故人を供養するために遺族が寺院に寄付し、その後、下賜して各家庭で保存するのが慣習だということだった。彼自身、50歳から月に4日は涅槃経を読む習慣を守っているとも語った。
そんな彼の名前の最初に「ツァオ」がついていることに気付き、改めてプログラムを見直すと、彼以外にも、名前が「ツァオ」で始まる発表者がかなりいるようだった。かつての伝統的な首長ツァオパーの冠称であった「ツァオ」や「クン」を名乗ることが許されているのは血縁者か高級官吏に限られ、それ以外の男性は「ツァイ」や「サイ」を名乗ると思っていた筆者が疑問に思い、昔を知るシャンの長老に尋ねると、最近は庶民の間でも「ツァオ」を名乗る人が増えているということだった。
4回目のシャン文芸遺産会議と、2回目のシャン史研究会議がすべて終わると、参加者は6台のバスに分かれて乗り込み、1784年に創建されたマンダレーで最大、かつ最も有名なマハムニ・パゴダや、2015年に創建された翡翠パゴダ、かつてシャン族の都が置かれていたと言われているインワ遺跡、2013年にユネスコの世界記憶遺産に認定されたクードゥードー・パゴダ、そしてマンダレー王宮などを訪問した。2016年12月31日のことだった。マハムニ・パゴダでシャン仏教徒たちがシャン語のイントネーションに乗せてパーリ語で行った読経は素晴らしく、インワ遺跡にシャン系の人々があふれる様子も圧巻だった。
バスの車内で、筆者はザガイン管区から来たというシャン族の年配の男性と隣り合った。彼は、18歳の時に単身、故郷の村を離れて以来、宝石を探し続けて52年が過ぎたと語った。カチン州やザガイン管区に住むシャン系の男性がビルマ風の腰巻風衣装であるパソーを巻いたり、ビルマ語が母語であったりする者は少なくなく、この男性もそうだった。彼のようにビルマ化が顕著なシャン系の人々の姿は、そうではないシャン系の人々の目にどう映っているのだろうか。
第5話で触れた通り、筆者がシャン研究に力を入れるようになったのは、カチン州に住むシャン系の人々との交流が一つのきっかけだった。シャン新年祝賀会にせよ、シャン文芸遺産会議にせよ、シャン系の人々同士の連帯が前面に出れば、多様性や対立が目立たなくなることは否定できない。しかし、シャン州やカチン州、ザガイン管区などを訪ね、シャン系の人々にインタビューを重ねると、地域性や歴史が反映された彼らの間の多様性が際立つ。その重要な要因となっているのが、欧米世界との接触を通じた「西洋化」と、独立以降に顕著になる「ビルマ化」の受容の度合いの違いである。シャン系の人々は、それぞれの地域で「西洋化」と「ビルマ化」の多様な状況に適応しながら、「シャンであること、シャンになること」という民族意識の課題に臨んできたのである。
もっとも、シャン系の人々の間には母語や服装のビルマ化に対して批判的な見方もあり、筆者もたびたびそうした声を聞いた。ビルマ化の過度な受容は、「シャンであること、シャンになること」とは相反すると考える評価があるためだ。シャンをめぐる《多》の座標系の考察は、今後も続く。