ミャンマー(ビルマ)知・動・説の行方(第5話)
カチン州に住むカチン系の人々との出会い

 民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは宗教や言語、文化、そして歴史を共有し、民族意識により結び付いた人々の集まりを指すとされますが、多民族国家ミャンマーをフィールドにしてきた文化人類学者で広島大学名誉教授の髙谷紀夫さんは、文化と社会のリアリティに迫るためには、民族同士の関係の特異性や、各民族の中にある多様性にも注目し、立体的で柔軟な民族観の構築が必要だと言います。

 特にビルマとシャンの関係に注目してきた髙谷さんによる新連載がスタートしました。多民族国家であるにもかかわらず、民族の観点から語られることが少ないミャンマー社会について、立体的、かつ柔軟に読み解く連載の第5話です。

カチン州ミッチーナで開かれた「カチン州の日」の祝賀会でセッティングされたマノー踊りの舞台(1997年1月10日、筆者撮影)

カチン州の日祝賀会(1997年1月10日)

 アジア諸国等派遣留学生として1983年から1984年にミャンマー(当時はビルマ)に滞在してから12年後、今度は文部省(当時)の在外研究員制度を活用し、ヤンゴン大学キャンパス内にあった大学歴史研究センターで1996年から1997年にかけて外国人客員研究員として多民族国家ミャンマーに関する歴史人類学研究に励む機会を得た。同センターは、国史編纂を担う歴史委員会傘下の実働的な調査部であった。

 受け入れてくれたセンター長をはじめ、交渉の進め方を助言してくれた現地の研究者、滞在許可の申請窓口だった日本の外務省や、ミャンマー政府と交渉してくれた在ミャンマー日本大使館館員の強力な支援を受けて成就できたことは幸運であり、感謝の言葉しかない。二度目となるこの長期滞在を通じて、筆者は研究者として成長することができた。この時は、一度目の長期滞在中に訪問できなかったラカイン州やカチン州、モン州、そしてシャン州北部を可能な限り巡った。今回はそのなから、1997年1月10日に参加した「カチン州の日」の祝賀会について紹介しよう。

民族衣装に身を包んだ「カチン州の日」の祝賀会の参加者たち(1997年1月10日、筆者撮影)

多様な背景の人々が同居するミッチーナ社会

 ミャンマーで好きな町はどこかと尋ねられたら、筆者は必ずカチン州都のミッチーナを挙げる。初めてミッチーナを訪れた1997年1月は電気の供給事情が芳しくなかったが、その状況が逆に幸いして夜景が秀逸だった。筆者は、逗留していたミッチーナ駅の二階にあったポーパ・ホテルの周辺を散歩しながら、しばしば満天の星を見上げたものだ。

 この時は交通手段の利便にも恵まれた。当時、ミャンマー国内では、国営のミャンマー国際航空と、民間のエアー・マンダレー航空が就航していた。このうち、ヤンゴンとミッチーナの間はミャンマー国際航空が結んでいたが、前年の10月から新たに民間のヤンゴンエアウェイズも両都市間を飛び始めたため、ミッチーナへの移動が各段に楽になったのだ。

1996年10月にヤンゴンとミッチーナ間で就航したヤンゴンエアウェイズの機内誌の創刊号(筆者提供)

 ミッチーナには、筆者の古くからの友人、コー・ソーイーが住んでいた。知り合ったのは筆者が一度目に長期滞在していた1980年代で、彼は当時、外国語学院(現在のヤンゴン外国語大学)のフランス語科で学んでいた。筆者が日本に戻った後も、彼は国際郵便でたびたびカチン州の状況を知らせてくれ、ミッチーナに来ないかと熱心に誘ってくれた。リス族のキリスト教徒をはじめ、南部から移住してきたカレン(ビルマ語でカイン)族の人々や英領インド生まれの女性、シャン系の人々などと知り合い、多彩な交流ができたのは、彼のおかげだ。このように、ミッチーナ社会には、民族的、宗教的、歴史的な経緯からさまざまな背景の人々が同居していた。こうした状況の中で生きるシャン系の人々との出会いを機に、筆者は、シャン研究をさらに本格化していくことになる。

自民族を研究するロウォの人々

 前述の通り、カチン州には多様な背景の人々がおり、民族的にもカチン系とシャン系それぞれにいくつかのグループが共存している。

 このカチン系グループの一つに、自らをロウォ族と名乗る人々がいる(周囲からはマル族と呼ばれていた)。彼らは、カチン系の諸民族のマジョリティであるジンポー族とは別の民族集団だ。冒頭の「カチン州の日」の祝賀会の席で、その代表を務める人物に出会った。筆者はその日、主賓である国軍の北部管区司令官のすぐ後ろに席を与えられ歓待を受けていたが、ロウォ族の代表を務める彼が自民族を研究する方法論についてアドバイスを請うてきたことに胸を打たれ、ヤンゴンに戻ってから人を介して一冊の本を送った。かつて文化省の調査官をしていた民族学者のウー・ミンナインが編纂した民族調査項目に関するガイドブックである。もっとも、この本は彼らもすでに入手していたようで、その後、彼ら自身でガイドブックの項目に従い調査した結果をまとめた報告書を入手した。当時、このように自民族について研究を続けている民族はほかにあまり例がなかった。

 1994年11月にオープンしたカチン州文化博物館のパンフレットに、カチン州の人口構成について以下のような記載があった。それによると、カチン系が最も多く、次いでビルマ族、そしてシャン系の順になっている。

【カチン系の人々】 6民族(合計 41万2761人)

 1:ジンポー        27万4977人

   2:ロウォ                          2万1600人

 3:ラワン                          4万3372人

 4:ラツィ                          1万1513人

 5:ザイワー                       2282人

 6:リス                         5万9017人

【ビルマ族】                 31万7515人

【シャン系の人々】 5民族(合計 26万2132人)

 1:タイ・ロン                    11万6197人

 2:タイ・レー              3524人

 3:タイ・リェン                   13万8176人

 4:タイ・カムティ                3679人

 5:タイ・サー(マインダー)       556人

 

 そもそもカチン州の日とは、カチン州が成立した1月10日を記念する日である。その一方で、カチン系の人々の間にはさまざまな多様性があり、対立もある。その一例が、「ジンポー」という言葉を巡る問題だ。詳しくは後述するが、「ジンポー族」と名乗る文化的な同胞が中国国内に居住していることや、中国ではリス族がジンポー族とは別に公式民族として認定されていることを踏まえると、民族が何を指すのか考えさせられると同時に、旧宗主国からの独立後、民族がいかに多民族国家の民族政策に従属してきたかがうかがえる。

不変ではない民族の帰属意識

 カチンに関する人類学的研究といえば、必ず引用されるのが、英国出身の人類学者、E.R.リーチの『高地ビルマの政治体系〜カチンの社会構造研究』(1954年出版)である。フィールドワークが行われたのが第二次世界大戦中だったという時代的な制約はあるものの、特定の人々に関する民族誌というより、高地ビルマ地域、すなわちカチン山地に関する優れた社会誌である。同書には、いくつか刺激的なフレーズがあるが、その一つが「カチン」と「シャン」の関係を示唆する以下のくだりだ。

 「過去百年間に現われたほとんどの文献は、カチンを未開野蛮な好戦的民族であるかのように描く。容姿、言語そして文化全般においてシャンとは大きく異なり、人種的にも別系統のものと見なされてきた。…(中略)…ところが、カチンとシャンは、ほぼどこでもとなりあう隣人であり、日常の暮らしにおいて区別をつけがたい。」(筆者要約)

 またシャンとその周辺民族の関係や、シャン文化のリアリティに関する以下のフレーズも示唆的である。

 「…(前略)…シャンの隣人である諸山地民は、文化的に驚くほど多様である。他方、シャンは、その分布の広さと多様な居住形態の割には驚くほど斉一である。…(中略)…河谷に住むシャンは、何世紀も前から絶えず山地の隣人たちを同化してきたが、その様相はどこも似通っていたというのが、私の歴史上の仮定である。シャン文化自体は、ほとんど変化を受けることがなかった。」

「カチン州の日」の祝賀会では、さまざまな伝統行事も行われた(1997年1月10日、筆者撮影)

 文献の冒頭と末尾には、カチンからシャンになった男のエピソードが引用され、「家族は約70年も間、カチンでもあり、またシャンでもあった」という見方も紹介されている。つまり、民族の帰属意識は不変ではないのだ。同書が一つの文化や一つの部族といった単位を仮定する従来のやり方を批判し、柔軟で動態的、かつ包括的な民族観に立つ必要性を訴えているのは、そのためである。

 リーチの指摘を踏まえると、エスノグラファーが《多》民族のリアリティをどう言語化すべきなのか、その精微と洗練方法が問われていることを痛感する。

「ジンポー」が指す範囲はどこまでか

 2020年1月、あるメディアが「カチン州の日」の呼称をめぐる意見の対立について報じた。ジンポー族以外のカチン系民族、すなわちロウォ、ラワン、ラツィ、ザイワー、リスの5民族の文芸文化委員会が、従来の「ジンポー」がつく表現から「カチン」へと変更するように主張したという。「ジンポー」を使用し続けることに5民族がそろって反対を表明したことになる。カチン系の人々にとって代表的な伝統舞踊はマノー踊りであり、カチン州の日の祝賀会で人々が友好の証として披露するのもマノー踊りである。その舞台を巡って対立が表面化しているというのは、ある意味で皮肉だと言えよう。

「カチン州の日」の祝賀会で、大きな円陣を組んでマノー踊りを踊る参加者たち(1997年1月10日、筆者撮影)

 ジンポー語は、もともとカチン系の人々のコミュニケーション手段(リンガ・フランカ)として用いられてきた。「ジンポー」という言葉にカチン系の人々がすべて含まれるとの見方があるのは、そのためだ。しかし、ジンポー族以外の5民族はこれに異議を唱え、1948年にイギリスから独立を果たしてから州の名称が「カチン」と呼ばれるようになったのと同様、ジンポー語の「カチン州の日」も「カチン」という表現にすべきだと主張したのである。この意見の対立は、「ジンポー」という呼称にカチン系の人々全体が含まれるのか、一つの民族だけを指すのかという問題だと言える。

 「カチン」という呼称は、英領植民地時代以降、西洋人が広め、英語、ビルマ語を介して定着した。その一方で、キリスト教の宣教活動によってジンポー族が先行して改宗し、ジンポー語英語辞典の編纂や、聖書のジンポー語訳が進められたために「ジンポー」という呼称が浸透したという宗教的な背景もある。民族と言語と宗教が歴史的に交差し、意見の対立に陰を落としていると言えよう。カチン系の人々の間では、人口的にも言語的にもマジョリティはジンポー族だ。マイノリティであるジンポー族以外のカチン系の民族が、ジンポー語の優位性を認めながらも「ジンポー」の指す範囲や用例に異議を唱え始めたのは、自民族意識の表出という意味で新たな局面を迎えていると解釈できる。

さまざまな要人とともに「カチン州の日」の祝賀会に参加した筆者(前列右から3人目)(1997年1月10日撮影、筆者提供)

 以上、カチン州内のカチン系の人々について述べてきた。しかし、前出の表にもある通り、カチン州にはシャン系の人々もいる。特に注目されるのは、タイ・ロンを上回る13万人以上の人口を擁するとされるタイ・リェンの存在である。彼らは、シャン系の人々の中で比較的、ビルマ化を受け容れてきた。そしてカチン州で他民族と共生している彼らと出会ったことが、筆者がシャン研究に目覚めたきっかけの一つである。筆者はシャン州でシャン研究を展開する前に、カチン州で「シャン」に魅かれたのだ。 

 1997年暮れにミッチーナを再訪した時には、タイ・リェンの研究者であるサイチョーウーと共にカチン州モーガウンの地をフィールドワークした。シャン系の人々が自民族史を語る時に、必ずと言っていいほど登場する町だ。シャンの年代記によれば、かつてムアン・マオ王国がモーガウンを建設し、現在のインド・アッサム地方への遠征を成功させ、その版図を最大化したという。モーガウンは、シャン系の人々にとって、いわば伝説と自負の都なのである。

 筆者はその後、タイ・リェンの人々と幾度も出会い、シャン系の人々の多様性と対立について見聞を広げることになる。詳細は後に譲りたい。

 

 [参考文献]      

 Leach, E.R. 1977 (1954) Political Systems of Highland of Burma: A Study of Kachin Social Structure (Univ. of London, The Athelone Press)

 E.R. リーチ(関本照夫訳) 1987 『高地ビルマの政治体系』弘文堂.

 髙谷紀夫  2017  「シャン民族知と近代」『アジア社会文化研究』18: 35-64.

  *拙論は、広島大学のリポジトリでダウンロードが可能。

 Frontier MYANMAR “Inside the controversy over the Kachin manau festival” 2020.01.14.

 

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