ミャンマー(ビルマ)知・動・説の行方(第8話)
独立後初めて全国規模で開かれたシャンの新年祝賀会

 民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは、宗教や言語、文化、そして歴史を共有し、民族意識により結び付いた人々の集まりを指すとされますが、多民族国家ミャンマーをフィールドにしてきた文化人類学者で広島大学名誉教授の髙谷紀夫さんは、文化と社会のリアリティに迫るためには、民族同士の関係の特異性や、各民族の中にある多様性にも注目し、立体的で柔軟な民族観の構築が必要だと言います。
 特にビルマとシャンの関係に注目してきた髙谷さんが、多民族国家であるにもかかわらず民族の観点から語られることが少ないミャンマー社会について、立体的、かつ柔軟に読み解く連載の第8話です。

東部シャン州のケントゥンで開かれた「全国シャン新年祝賀会」の開会式の様子(2012年12月12日、筆者撮影)

祝賀会と国際会議が東部シャン州で同時開催

 ミャンマーのシャン族にとって、2012年は特別な年となった。シャンの新年を祝う全国大会の開催が、独立後初めて政府から認められたのだ。その会場となったのが、東部シャン州の中心であるケントゥンだった。シャン州とタイ王国、ラオス、そして中国・雲南省を結ぶ交通の要所に位置するという地理的な優位性から、この地で開催されることになったという。4〜5カ月前に開催が認められ、実質2カ月で準備が進められた。それまでは、基本的に地域ごとに開催され、相互に招待し合うことはあっても全国規模での開催は認められていなかったが、これ以降、2014年には南部シャン州のタウンジーで、その後、2018年には北部シャン州のラショーで、全国規模の祝賀会が開かれることになる。

 2012年のシャン新年全国大会では、新しい年の祝賀会に加え、シャン研究に関する国際会議も開かれた。「タイ(シャン)民族集団の文化遺産」というテーマで開かれたこの記念すべき会議に招かれた筆者は、J.N.クッシング博士の辞書について人類学の観点から研究した論考を発表した。
 クッシングは、19世紀にキリスト教プロテスタントの一派であるバプティストの宣教師として、アメリカから英領ビルマ(当時)に渡り、シャン語と英語の辞書の編纂をはじめ、旧約聖書や新約聖書のシャン語への翻訳などで活躍した。
 彼が編纂した辞書には、さまざまな民族の呼称が散見される。それはまさに、西洋知とシャン民族知が邂逅した記録であり、西洋人がどのようにシャンを理解したかを示す痕跡である。第3話でも指摘したように、シャン族の人々は自らを「タイ」と呼ぶ。そんな彼らが「シャン」と呼ばれるようになったのは、英領植民地時代に、ヨーロッパの人々がタイ語系の言語を話す人々をそう呼んでいたことに遡る。つまり、結果的には、ヨーロッパ人が「シャン」という呼称を外の世界に広めたと言える。筆者は、全国シャン新年祝賀会と併せて開かれた国際会議に招待された唯一の日本人として、このようなシャン民族知の構築過程に迫ることで研究成果を現地に還元しようと試みた。

国際会議会場で取材を受けたメディア・レポーターたちと(中央が筆者)(2012年12月14日、筆者提供)

 この会議には、タイ系の民族の一つ、アホム族の研究者がインドのアッサム地方から参加していたほか、タイ王国最北端の街メーサイから来訪した研究者や、ミャンマー国内のシャン研究者なども集まっていた。筆者はその会場で、サイチョーウーと15年ぶりに再会した。1997年にシャンの伝説の王都と言われるカチン州のモーガウン(シャン語でムアンコーン)を共に旅した人物である(第5話参照)。また、ケントゥンで金細工業を営み、財を成した資産家とも交流できた。

 このような機会に恵まれたのは、サイサンアイ博士の計らいだった。博士はミャンマーと中国の国境の街、ムセー出身で、ヤンゴン大学在学中にシャン語識字教育に参加した経験を有する。卒業後はミャンマー中央部のイエジンにある農業大学で教鞭をとっていたが、退職して工業製品の輸入ビジネスを立ち上げるかたわらシャン研究も続け、他の研究者の支援にも熱心だった。筆者は教鞭をとっていた広島大学にも二度にわたり招へいし、学生に講義してもらったことがある。
 国際会議の会場では、ある人物に声をかけられた。東京・高田馬場にあるミャンマー料理屋で、シャン料理のメニューが豊富なことで知られる「ノングインレイ」を営むオーナーだ。ケントゥンは彼が幼少期を過ごした地であり、新年祝賀会を支援するために来たのだと流暢な日本語で話してくれた。その場で携帯番号を交換し、日本での再会を約束して別れた。

多くのシャン民族が一堂に会した「連帯の証」

 祝賀会のメイン会場となったケントゥン市内のサッカースタジアムにはシャン系の民族ごとにブースが設けられ、伝統衣装や手工芸品、書籍などが並べられたほか、来訪者を歓待する露店や遊興施設も設置され、メイン・ステージでは、シャン州都のタウンジーからやって来た舞踊団が神獣に扮するトー踊りや、神話上の鳥に扮した踊り手が鳥の動きや羽をはばたかせて舞うキナラ・キナリ踊りなど、シャン系の各民族が伝統的な舞踊を披露していた。また、タイ王国のチェンマイから招かれた歌手のステージも、祝賀の雰囲気を盛り上げていた。

 祝賀会の実行委員会の書記長は、地元のミャンマータイムズ紙のインタビューに答え、「これほど多くの人々が参加するとは期待していなかった。来場者は20万人に上るのではないか」と述べた。書記長によれば、当初、実行委員会は、国内外のシャン系の各民族を最低3人ずつ招待したが、ほとんどの民族がこれに応え、なかには20~30人を派遣した民族もあったという。タイ王国との国境の街、ターチレイからは、100人以上が参加した。書記長は、「想像以上の規模になったため、うまくいかなかったこともある。今回の学びを次に生かし、より円滑に運営したい」と振り返った。さらに、「多くのシャン民族が一堂に会しているのは連帯の証であり、感慨深い。こうしてすべてのシャン系民族が互いにつながることで、一つのシャンになる」と語った。

連邦の精神と平等の思想

 この時期、高地にあるケントゥンの夜は冷える。夜のとばりが次第に消え、朝靄が立ち込める頃になって、ようやく開会式が始まった。祝辞の中で特に印象に残ったのは、軍管区司令官のスピーチだった。当時は民政移管を進めたテインセイン政権であったが、軍関係者の臨席とスピーチは依然として必須だった。軍管区司令官は、冒頭にシャン語で挨拶し、人々からの歓声を受けた後、ビルマ語で「デモクラシー」という単語を連呼しながら軍の功績と貢献を強調した。司令官は、「今回の祭典は、シャン文芸文化協会の中央本部とヤンゴン支部、そしてケントゥン支部の共催で開催された。今後は、タウンジーやラショーでも開催されるだろう」と続けた。筆者は、「連邦の精神」を優先する軍側の「デモクラシー」と、「民族の精神」が覚醒した平等=イコールティの思想とのギャップを感じた。

開会のスピーチを行う軍管区司令官(2012年12月12日、筆者撮影)

 次いで、シャン新年祝賀会の実行委員長がビルマ語で、また、シャン文芸文化協会の中央本部の名誉顧問がシャン語で、それぞれ祝辞を述べた。ビルマ語とシャン語の併用が印象的な開会式だった。

 2012年12月13日深夜にカウントダウンが行われた後、14日に元日を迎えた。筆者はビルマ語が話せる外国人ということで珍しがられ、衛星テレビチャンネルのスカイネットからインタビューを受けた。

 なお、ケントゥンはこれが2回目の訪問だったが、いろいろな意味で中国の存在感の拡大を実感した。1995年に初めて訪れた時には、タイ王国の通貨であるバーツがケントゥンで流通しており、バーツ経済圏であることを感じたが、この時は中国の通貨、元が使えるようになっていた。また、この地で初めて全国規模でシャン新年の祝賀会の開催が認められたことについて、あるシャン族の知識人は、筆者に「中国との関係上、地理的な要衝に位置しており、物資が豊富で経済力があるうえ、近隣で武力衝突が起きておらず平穏だからではないか」と語った。

シャン文芸文化協会の中央本部の名誉顧問であるウー・サイアウントゥンが、ケントゥン市内の知人宅でシャン族の子どもから敬意を表す拝礼を受けて応える様子(2012年12月13日、筆者撮影)

 また、ケントゥンでは富裕層の存在も実感した、金細工業を営む前出の資産家に食事を振舞われた際、その年に発行されたばかりの一万チャット札の新札を束で手にしているのを目にしたのだ。筆者だけでなく、周囲のミャンマー人たちにとっても物珍しかったようで、皆、新札の束にしげしげと見入りながら、順に隣に手渡していたのを覚えている。

中国との国境の街、ムアンラー

 2012年のケントゥン訪問の中でも特筆すべきなのは、中国との国境の街、ムアンラーへの一泊二日の訪問だ。ムアンラーは、シャン州第四特別区と呼ばれる少数民族武装勢力が支配する地域で、シャン州の中では治安が特に不安定で、外国人はもとより、ミャンマー人ですら行きたがらない場所である。中国国内では違法なカジノと売春の拠点として知られていたようだが、実際に訪ねると、想像以上に中国色の濃い街だった。市内には中国語の看板が目立ち、宿泊した東方大酒店というホテルのレセプショニストが話す言葉も中国語だった。

ムアンラーで宿泊した東方大酒店の前で微笑む参加者たち(2012年12月15日、筆者撮影)

 この時にムアンラーを訪問した参加者の中で、外国人は、インド・アッサム地方から来ていた研究者と筆者の二人だけだった。招待を受けて参加したにも関わらず、到着してみると、提出されているはずの旅行許可申請が現地に届いていないことが判明し、肝を冷やした。地方行政局と現地で交渉して事なきを得たのは、たまたま情勢が平穏だったからであり、幸運でしかない。

 これに先立ち、筆者は1999年10月、中国・雲南省の昆明からミャンマーと国境を接するターロー(打洛)を訪ねたことがある。昆明で開かれた国際学術研究のワークショップのプログラムに、雲南省の最南端に位置するシーサンパンナ(西双版納)タイ族自治州の視察が含まれていたのだ。当時は、中国人とミャンマー人以外は国境を越えることが許されていなかったため、国境検問所の向こうにパゴダを臨みながら「国境とは何か」と思いを巡らせた。それから13年を経て、ようやくミャンマー側からたどり着いてみると、国境の風景は一変し、立派な検問所が建設されていた。

国境付近に建設されていた検問所(2012年12月16日、筆者撮影)

 おりしも、ムアンラーでもシャン新年の祝賀会が開催されており、雲南省シーサパンナのタイ族自治州側から来た舞踊団が踊りを披露するなど、国境を越えて豊かな交流があることが感じられた。また、ミャンマー側のパフォーマンスに比べて雲南省の舞踊団のパフォーマンスは洗練されており、観光化の進展具合の違いも表れていた。

ムアンラーで開かれたシャン新年の祝賀会で披露された舞踊(2012年12月15日、筆者撮影)

 シャン州の中でも中国との国境付近に住む人々は、情勢が落ち着いてさえいれば、非常に頻繁に中国側と交流している。実際、あるシャン族は、中国側に住む親戚と連絡を取り合い、ムアンラーで面会していた。インド・アッサムから来た前述の研究者も、ケントゥンで通じなかったスマートフォンがムアンラーでは使えることに驚いていた。

ムアンラーの町の遠景(2012年12月16日、筆者撮影)

 ムアンラーでは、地元に住むシャン新年祝賀会の実行委員会のメンバーとともに、シャン文芸文化の保護について会合が開かれた。ヤンゴンやケントゥンからの来訪者、そしてインド人研究者らが口々にその重要性と必要性を訴えたにもかかわらず、経済発展や戦争の回避が優先され、あまり共感を得られなかったと後で聞いた。文芸文化団体同士が連帯するために政治情勢の安定は大前提であり、国軍や少数民族武装集団とのコネクションもまた不可欠なのである。

 街や行政単位ごとに実施されている文化的な活動の成功には、地理的な位置関係や経済状況、そして軍関係者とのコネクションの有無が関わっていること、そして、文芸文化団体の運営は中央組織への集権化が期待される一方、民族ごとの地域性も影響していることを確認する旅となった。

 

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