ミャンマー(ビルマ)知・動・説の行方(第12話)
パンロンで見たマジョリティとマイノリティの相克

 民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは宗教や言語、文化、そして歴史を共有し、民族意識により結び付いた人々の集まりを指すとされますが、多民族国家ミャンマーをフィールドにしてきた文化人類学者で広島大学名誉教授の髙谷紀夫さんは、文化と社会のリアリティに迫るためには、民族同士の関係の特異性や、各民族の中にある多様性にも注目し、立体的で柔軟な民族観の構築が必要だと言います。

 特にビルマとシャンの関係に注目してきた髙谷さんが、多民族国家であるにもかかわらず民族の観点から語られることが少ないミャンマー社会について、立体的、かつ柔軟に読み解く連載の第12話です。

シャン州のパンロンで開かれたシャン文芸遺産(リックロン)会議の開会式でテープカットするオックスフォード・サヤドー(2017年12月27日、筆者撮影)

パンロンで開かれたシャン文芸遺産会議(2017年12月27~30日)

 今回は、第11話で紹介したシャン文芸遺産会議(シャン語で「リックロン」会議)とシャン史研究会議が、翌2017年12月にパンロンで開かれた時の模様を紹介しよう。

 南部シャン州のロイレム郡に位置するパンロン(ビルマ語でピンロン)は、ビルマ(ミャンマー)史のなかで記念碑的な地である。ビルマ側の代表だったアウンサン将軍と複数民族が1947年にこの地で協定を結び、独立へのシナリオを合意したという事実は、この国の歴史観を形成する重要なプラットフォームになっているためだ。アウンサン将軍の娘であり、2016年より国家顧問を務めていたアウンサンスーチー氏が主導した国民民主連盟(NLD)の政権下で開かれた《多》民族間会議は「21世紀パンロン会議」と呼ばれたが、その意義はこうした歴史を知ってこそ鮮明になる。もっとも、2017年当時は、特に外国人がパンロンに立ち入ろうとすると、事前に特別許可を取得しなければならなかった。

パンロンで開かれたシャン文芸遺産会議の参加者を歓迎する看板(2017年12月29日、筆者撮影)

 筆者は2017年12月、冒頭のシャン文芸遺産会議に参加するためにパンロンを訪ねた。ヤンゴンを早朝に発って、南部シャン州の玄関口であるヘーホー空港でインド東北部から来たタイ系民族らの同行者と合流し、州都タウンジーを経由して宿泊地のロイレムに到着した時には、すっかり日が暮れていた。会議が開かれるパンロン市内には外国人が宿泊できる宿舎がなかったため、ロイレムに滞在しながらパンロンに通うことになったのだ。

 とはいえ、特別許可がない者の滞在は認められていないのはロイレムも同じで、到着した日に警察から受けたチェックは、筆者が以前、北部シャン州を訪ねた時に経験した以上に厳しかった。後日、独立系メディアであるイラワジ紙の英語版が伝えたところによれば、この月の中旬にパンロンで開かれたシャン諸民族間対話がミャンマー国軍によって妨害されたという。われわれが公式に開催を認められたシャン文芸遺産会議の出席者であることは、行政側の一部には伝わっていたものの、必要書類の確認などで一悶着があり、この夜は宿舎近くの市場で遅い晩ご飯を食する羽目になった。

パンロンで開かれたシャン文芸遺産会議後に記念撮影をする参加者たち(2017年12月27日、筆者撮影)

 翌日から4日間にわたり、シャン文芸遺産会議とシャン史研究会議に参加した。2016年に開かれた前回会議に参加した筆者を覚えていてくれた主催者のオックスフォード・サヤドー(第11話参照)が、開会式が始まる直前に親しく声をかけてくれた。

 参加者の中には、カチン州から来たシャン系のタイ・リェンの一団のほか、前回も参加していた英国人研究者と米国人研究者の姿もあった。さらに、前回、筆者と同じ分科会で発表したインド東北部の女性研究者が今回も参加していた。

オックスフォード・サヤドーを囲んで記念撮影。後列左から順に、米国人研究者、筆者、英国人研究者、インドから参加していたタイ系民族の夫妻(2017年12月28日、筆者撮影)

 開会のあいさつに立ったオックスフォード・サヤドーが、シャン文芸遺産会議を開催する経緯と意義について、シャン語、ビルマ語、そして英語でスピーチを行った後、シャン州サンガ(僧侶の集団)の長老委員会議長で国家サンガ大長老委員会副議長も兼任する僧侶や、シャン州主席大臣、軍管区司令官などの祝辞が続いた。司令官は、主要な民族の名前を挙げながら全135民族の文芸や慣習を保護する重要性を強調したうえで、外国人研究者が参加する意義にも言及した。

埋もれゆく文芸遺産の蓄積と共有

 筆者はこの会議で、シャン文化が表象される「モノ(物質文化)」について発表した。具体的には、シャン・バッグと呼ばれる肩掛けカバンと乾漆像を取り上げた。

 このうち、シャン・バッグについては、1990年に筆者が中国・雲南省の西双版納(シーサンパンナ)にあるタイ族の自治州を訪ね、ビルマ文字が書かれたシャン・バッグを目にした経験を紹介したうえで、カバンという「モノ」を通じて文化が伝わる重要性を指摘した。また、欧米ではシャン・バッグ類のコレクションが見られることにも言及。カチンやチンのバッグの場合は「誰から買った」「どの民族が使っていた」という具合に出自が特定されるのに対し、シャンのバッグの場合、「シャン地方で使われていた」と地理的な説明に留まっていることを紹介した。

 また、乾漆像については、ミャンマーの上ビルマ地方から中国国境にいたる仏像の流通に注目し、仏教の文脈におけるシャン文化圏のダイナミズムの分析を試みた。漆を用いた乾漆像は、北部シャン州の寺院や、最大都市ヤンゴンのシュエダゴン・パゴダ近くにあるカンボーザー仏教会館などで今も見ることができる。筆者はこの日、行商の歴史に関する論文と、国境付近に住むシャン系の人々の仏像祭(ポイ・パラー)に関する書籍を参照しつつ報告した。近年、シャン文化圏では、乾漆像ではなく、仏像を竹糸で造形する事例が増えている。しかし、シャン系の人々が仏像造形に喜捨を行い、功徳を積む根底に流れる仏教への信仰心は変わっていないのかもしれない。

パンロンで開かれたシャン文芸遺産会議の会場には、竹糸で造形された仏像が鎮座していた(2017年12月28日、筆者撮影)

 会議が終わると、筆者は、物質文化を研究するノウハウについてシャン系の人々から助言を求められた。また、米国出身の研究者、ピーター・コレットから「この会議もまた、新たなシャンの文芸遺産、すなわちリックロンを生み出す場になっているのではないか」と問われた。このような発表の機会がなければ文芸遺産は各寺院や家庭で埋もれていくだけだが、会議という場があることによって発掘され、人々に吟唱され、文字で記録され、蓄積され、共有されるのではないかというコレットの指摘には、筆者もまったく同感であった。

宿泊地ロイレムの社会

 会議の期間中は、ロイレムからパンロンの会議場まで毎日、地元の姉妹に車で送迎してもらった。運転中や休憩時間に二人から聞いたところによれば、彼女たちはパンロン生まれの「純粋なシャン族」で、両親はシャン語しか話せないということだった。パンロンでは、ビルマ語で授業が行われる公立学校に通わない限り、家庭でも社会でもビルマ語を使う機会はないため、この地に住んでいるシャン族はビルマ語ができない傾向が強くなる。

 姉は英語と中国語を習得し、シンガポールで中国人相手に働くかたわら、パンロンと行き来しているということだった。一方、妹は9年生まで公立学校に通い、中国語も6年間習ったという。「シャン語も話せるがシャン文字は習っていないため、ビルマ語が母語の人たちと比べると不公平だ」と語っていたが、ロイレムにおける公立学校の就学率などの状況を示す統計がないため、詳細は不明だ。

パンロンの町の遠景と、独立記念塔の合成写真。塔には「タウンタン・ピィーマ」という文字が刻まれている(シャン族の知人提供)

 後日、ロイレムの宿主から聞いた話では、この町で英語と中国を習得してからシンガポールに出稼ぎに行った者は少なくないということだった。宿主自身はマンダレー管区の出身で、ロイレムで現在の妻と出会い、3人の子どもに恵まれたという。この町の住民はムスリムやヒンドゥー教徒、キリスト教徒が多く、妻もムスリムから仏教に改宗したという。民族的に見れば、シャン族やパオ族が多く、ビルマ族は少ないと宿主は話してくれたが、実際、内務省傘下の総務局が2019年に発表した統計を見ても、ロイレム郡の人口12万人あまりのうち、シャン族は約4万6000人、パオ族は約5万7000人、そしてビルマ族は1万3000人という内訳だった。西側にパオ民族の自治地域が2つあることを鑑みると、パオ族の多さはうなずける。また、1、2年前から外国人も特別許可を得ればこの町に入れるようになったそうで、宿主は「ユネスコ(国連教育科学文化機関)の一行が宿泊したこともある」と自慢そうに語った。

独立記念塔に刻まれた文字の変遷と民族表象

 パンロンの町中には、パンロン協定の締結を記念する独立記念塔があり、それを取り囲むようにパンロン会議の出席者たちの肖像画が並んでいる。中央に掲げられているのは、アウンサン将軍の肖像だ。この独立記念塔を模したレプリカがミャンマー各地に建てられている。

 案内してくれたシャン族の若者が、「町の目抜き通りから独立記念塔に向かう分岐点に2006年にパゴダが建立され、独立記念塔が目立たなくなった」と話した。「軍事政権の元第一書記で、後に首相になったキンニュンの仕業だ」と彼は断定したが、キンニュンは2004年に失脚しているため、真相は定かではない。

2017年に筆者が撮影した独立記念塔には「ピィーマ・タウンタン」と刻まれている(2017年12月27日、筆者撮影)

 さらに若者は、独立記念塔に刻まれた文字についても興味深い話をしてくれた。上の写真に見る通り、塔には現在、「ピィーマ・タウンタン」という文字がビルマ語で刻まれている。「ピィーマ」はビルマ本土の平地部を、「タウンタン」は山地部を意味している。しかし、以前は「タウンタン・ピィーマ」と刻まれていたというのだ。つまり、語順がどこかの時点で逆転したのだという。

 若者は、アウンサン将軍が山地に住む諸民族に敬意を表すために、平地部を表す「ピィーマ」の前に山地部を表す「タウンタン」を置いたものの、ミャンマー軍がそれを快く思わず、塔を修復する時に語順を入れ替えたと言った。

『ピンロン白書』に掲載されている独立記念塔の写真。「タウンタン・ピィーマ」と記されている(筆者提供)

 帰国後、筆者は、パンロン会議にいたる歴史をビルマ語で記録した書籍『ピンロン白書』(1984年出版)を開いてみた。すると、上の写真の通り、確かに昔は塔に刻まれた文字の語順が現在と逆だったことが確認できた。また、シャン族の知人から提供されたパンロンの町の遠景と独立記念塔の合成写真でも、塔に「タウンタン・ピィーマ」と刻まれていることが確認できる(前掲の写真参照)。この合成写真の出典が不明であるため、若者の認識がどの程度、事実に基づいたものか分からないが、彼の説明からは、マイノリティの存在を無視しがちなマジョリティと、それに抗うマイノリティの対抗意識が伝わってきた。ミャンマーにおける民族の《多》をめぐるマジョリティとマイノリティの相克がよく表れたエピソードだと言えよう。

 

参考文献:

Dr.Than Tun 1980“Lacquer Images of the Buddha (Mam Bhura)”,『史録』13: 21-36.

T’ien Ju-K’ang 1986 Religious Cults of the Pai-I along the Burma-Yunnan Border.

Southeast Asia Program, Cornell University.

 

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