ミャンマー(ビルマ)知・動・説の行方(第3話)
「州の日」と「民族の日」の相克に見る多様な歴史観
- 2025/1/29
- 知・動・説の行方
民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは、宗教や言語、文化、そして歴史などを共有し、民族意識により結び付いた人々の集まりを指すとされますが、多民族国家ミャンマーをフィールドにしてきた文化人類学者で広島大学名誉教授の髙谷紀夫さんは、文化と社会のリアリティに迫るためには、民族同士の関係の特異性や、各民族の中にある多様性にも注目し、立体的で柔軟な民族観の構築が必要だと言います。
特にビルマとシャンの関係に注目してきた髙谷さんによる新連載がスタートしました。多民族国家であるにもかかわらず、民族の観点から語られることが少ないミャンマー社会について、立体的、かつ柔軟に読み解く連載の第3話です。
シャン州の日の祝賀会(1984年2月7日)
第2話で紹介したカレン族の「卒業生の送別会とドゥン踊り研修修了式」から約半年後の1984年2月7日、今度は第37回「シャン州の日」のイベントに招かれた。ステージ上の幕には、ビルマ語表記と並び、シャン語で「ワン・ムアン・タイ」と記載されていた。直訳すれば、「シャンのクニの日」という意味である。
シャン系の人々との親交の道筋をつけてくれたのは、当時、ラングーン大学(現在のヤンゴン大学)のビルマ語科で教員をしていたウー・ターウーだった。彼は民族的にはインダー族の出自だが、学内ではシャン文芸文化委員会の書記長として活動を仕切っていた。ステージで弾き語りを披露してくれないかと筆者にリクエストしたのも、彼だった。同じ寮に住んでいた筆者の歌を幾度か聴いていたという。ちなみにこの日は、日本語の歌を1曲と、シャン族の歌手として著名なサイティサインによるビルマ語の歌「サイ・ピャンヤー・オンメー」(邦題は「あの人がもう帰ってしまう」)を披露した。
シャン文化保存活動の大立者との出会いと再会
この頃、ミャンマー(ビルマ)の首都はラングーン(現在のヤンゴン)に置かれ、この地のシャン文芸文化組織の大立者といえば、ウー・サイアウントゥンだった。北部シャン州出身のシャン族で、シャン文化保存と保護活動の中心的な役割を担っていた人物だ。その彼がこの日は来賓として舞台の最前列に座していた。彼は当時、筆者のような海外からの留学生の受入先だった外国語学院(現ヤンゴン外国語大学)の院長も務めていたため、筆者とは公的に挨拶する程度の関係でもあった。ちなみに当時、外国語学院には留学生対象のビルマ語科がなく、教員はラングーン大学ビルマ語学科に所属しながら同学院に出向して授業を行っていた。留学生の数は少なく、授業はすべてマンツーマン指導だったため、恵まれていたと言えよう。
そんな彼とは、その後、1996年に再会することになる。日本国文部省(当時)アジア諸国等派遣留学生としての滞在を終えて1984年11月に帰国した筆者は、日本で研究活動を続けるかたわら、1986年、1991年、そして1995年と断続的にミャンマーを訪れたものの、この時はいずれも彼との接点はなかった。その後、1996年に軍事政権下で外国人として初めて客員研究員として大学歴史研究センターに赴任することが認められたため、再び長期滞在してミャンマーに関する歴史人類学的研究に従事することになった。このセンターは当時、ミャンマー唯一の国史編纂機関である歴史委員会の実働的な調査部として位置付けられており、教育大臣が同委員会の議長を務めていた。その下で副議長を務めていたのが、前出のウー・サイアウントゥンだった。彼と再会し、交流を深めたことで、筆者の知・動・説の比重は、ビルマ研究を基盤としたシャン研究へとシフトすることになる。
「シャン民族の日」から「シャン州の日」へ
ところで、「シャン」とは、英領植民地時代に西洋の人々がミャンマー国内でタイ系言語を話す人々を指して用いた呼称であり、それが後に外の世界へと広まった。タイ系言語を話す人々自身は、自分たちのことを「自由=Free」という意味を込めて「タイ」と呼ぶ。
ミャンマーでは、行政区分に民族名が冠されている7州、具体的には、カチン州、カヤー州、カレン州(ビルマ語でカイン州)、チン州、モン州、ラカイン州、そしてシャン州にそれぞれ「州の日」が定められている。このうち、2月7日の「シャン州の日」の起源は、ツァオパーと呼ばれるシャン系の首長と住民代表が1947年2月11日に現シャン州のパンロンに集まり、満場一致でこの日を「シャン民族の日」と定めたことに遡る。おりしも、少数民族の自治権を認め、ビルマ族と少数民族の連邦国家としてイギリスから独立することで合意したパンロン協定の締結を記念する連邦記念日の前日だった。
この「シャン民族の日」の制定に併せて、シャン民族の歌とシャン民族の旗も定められた。前出のウー・サイアウントゥンの説明によれば、旗の黄色は宗教を、緑は自然の樹木の美しさを、赤は勇気を、そして白は高潔を表しているという。
なお、1997年に出版された『シャン州50周年記念雑誌』(ビルマ語とシャン語、および英語の三言語併記)によれば、当初、「シャン民族の日」と呼ばれていた2月7日は、1959年にツァオパーの自治権が返上されて以降、「シャン州の日」と呼ばれるようになった。国軍の政治への介入が本格化したことを考慮したうえでの自粛であったのかもしれない。
この『シャン州50周年記念雑誌』が発行された1997年は、すべての出版物に対して検閲が行われ、軍事政権が掲げる三つのスローガン、すなわち「連邦を解体しない」「民族の団結を瓦解しない」「国家の主権を確保する」を記載することが義務付けられており、同誌にも例外なくその記載がある。もっとも、その下には「諸民族は相互に尊重せよ、敬愛せよ、平等に処遇せよ」という一文が加えられていることが注目される。
あるシャン史家は、同誌に「2月7日とは、連邦の子が相互に兄弟のように団結し、慈愛と親睦を深めることを国外に世界に知らしめる日」であり、「奴隷状態から自由になり、自由が何より大事だと相互に表明し支援するための特別な価値ある日」だというコメントを寄せている。過度にも感じられる「自由」への言及は、何を示唆しているのだろうか。シャンの人々が自らを「タイ」と呼ぶ意味を勘案すれば、マイノリティの心情を暗示していると言えるかもしれない。
シャンとは誰か、シャンとは何か 変容する民族表象の文脈
さて、筆者は冒頭で〈シャン系の人々〉と表現した。これは、彼らの間に歴史的に同胞意識があったと考えられる一方、地域性と個別の歴史を重視する差異化意識が次第に認められることを考慮したうえでのことだ。さらに、ビルマ中心主義に配慮して〈ビルマ化〉を消極的に受容したり、母語がビルマ語であったりするといった理由から、「シャン」ではなく「ビルマ」として民族登録しているシャン系の人々が一定数いることに注目しているためでもある。
そのことを示唆する数字がある。1983年の国勢調査と、2019年に内務省傘下の総務局が全国330郡のうち323郡で実施した調査報告を集計し、数字の不統一と信用度を留保したうえで比較すると、「シャン」の人口がミャンマー全土で減少しているのだ。
具体的には、1983年時点では全国の「シャン」は約287万人に上り、シャン州でも人口約309万人の76%にあたる約236万人を占めていた。これに対し、京都大学の中西嘉宏准教授が2019年の総務局データを基に計算した結果によると、全国の「シャン」の人口は約226万人、シャン州内でも人口約485万人の30%にあたる約157万人と、ともに1983年より減少しているのだ。この間、全国的には人口が増加傾向にあるにもかかわらず、「シャン」の人口が減少している最大の理由は、統計上、「シャン」に含まれる人々の範囲が異なるためではないだろうか。つまり、1983年の国勢調査で「シャン」としてカウントされた人々の相当数が、2019年の総務局データでは全体の58%を占める「その他」のカテゴリーに入れられていると推測されるのだ。具体的に言えば、2019年には、コーカン族(約18万人)、ダヌ族(約29万人)、パラウン族(約42万人)、パオ族(約68万人)、“ワ”(ルウェラ)族(約12万人)、そしてインダー族(約13万人)などが「その他」に含まれていると見られる。
ここで、“ワ”(ルウェラ)族にのみ引用符が付いているのは、彼らが支配するシャン州北東部が中国と国境地帯を接し、中央政府の権力がおよばない治外法権となっており実態の把握が難しいためである。また、彼らの民族名称は自称と他称を合わせて複数あり、同定が難しいという曖昧さも関係している。事実、彼らは東部シャン州のケントゥンでは“ワ”族、あるいは“ラ”族と呼ばれていた。また、彼らには“ラワ”族や”カワ”族という他称もあり、同定はなかなかにハードルが高い。
このように、軍事政権は、1982年に制定された市民権法から2014年に行われた国勢調査にいたるまで、民族の間に恣意的な線引きを行い、区分していた。たとえば1990年9月26日付のビルマ語国営紙では、1983年の国勢調査で135の民族類別方法が採用されたことを報じたうえで、〈シャン群〉として33の民族の名称を列挙している。その中には、2008年憲法によってシャン州内に民族自治地域や民族自治区域を確保されたダヌ族やパオ族、パラウン族、コーカン族、“ワ”(ルウェラ)族のほか、インダー族も含まれている。
また、歴史的な変化の理由として、以前はシャン文化圏で民族間のコミュニケーション手段(リンガ・フランカ)として用いられていたシャン語や、シャン系の伝統的な首長であるツァオパーを介して同胞意識を共有していた〈シャン系の人々〉の間で、細分化した“自民族”意識を覚醒された人々の存在が明示されるようになったことが挙げられる。言い換えれば、周辺の非シャン民族を取り込む外的な〈シャン化〉から、シャン文化の標準化を伴う内的な〈シャン化〉へと、民族表象の文脈が変容したとも解釈できる。シャンとは誰か?シャンとは何か?その答えはなかなかに難しい。
ところで、2月7日をどう呼ぶかについての意見は、さまざまだ。「シャン」には、歴史的にも文化的にも広く〈シャン系の人々〉が含まれているため、この日を「シャン民族の日」と呼んで問題ないという立場から、「シャン」はあくまで一つの民族名に過ぎず、2月7日は行政単位に従い「シャン州の日」と呼ぶべきだという立場まで、それぞれの民族観や歴史観の影響を受けて多様な解釈が並存しているのだ。この相違は、歴史的に〈シャン系の人々〉の間で“自民族”意識が覚醒された結果、「シャン系である」ことを肯定的に受容する立場と、「シャンではない」という否定的な意識を強めた立場の違いでもある。それはすなわち、「シャン」を共通文化圏的な〈地域〉として考えるのか、民族としての〈人間集団〉として考えるのかという力点の比重にも関わっている。
チン州の日とチン民族の日
2月には、州の日がもう一つある。「チン州の日」である。1984年2月20日、ラングーン大学のレクリエーションセンターで開催された祝賀会に顔を出すと、ステージに掲げられた幕には「第36回チン民族の日」と記されていた。1983年の国勢調査で採用された135民族の類別の中で「チン群」とされているのは53民族で、主要8民族の中で最も多い。その多様性こそが、「チン」を全体の冠称として受容する基盤となっていると言われる。つまり、「チン州の日」と「チン民族の日」の間に齟齬はない。2005年に出版された『チン民族の日成立史』(ビルマ語)によれば、2月20日が「チン民族の日」と祝われるようになったのは、1948年2月20日に丘陵地帯の特別区を解放することが決議されたことに遡るという。つまり、2月20日は公的には「チン州の日」とされたが、「チン民族の日」として祝賀された歴史も背負っている。
- チン民族の日の出演者たち(1984年2月20日、筆者撮影)
- チン民族の日の舞踊(1984年2月20日、筆者撮影)
このように、「民族の日」を制定することは、民族の旗や歌と同様に民族帰属意識を醸成するための仕掛けの一つだと言える。それぞれの民族の日に人々が一堂に会し、掲揚される民族旗に表敬し、民族の歌を斉唱するという、形式化・儀礼化・標準化された所作によって〈民族〉意識が擦り込まれるためだ。「州の日」か「民族の日」か―。その相克の歴史にも、多様な歴史観と民族意識や民族間関係が深く影を落としている。
[参考文献]
中西嘉宏 2022 『ミャンマー現代史』岩波新書.
植村和秀 2014 『ナショナリズム入門』講談社現代新書.
髙谷紀夫 2017 「シャン民族知と近代」 『アジア社会文化研究』18: 35-64.
*拙論は、広島大学のリポジトリでダウンロードが可能。