ミャンマー(ビルマ)知・動・説の行方(第6話)
横並びの《多》民族表象に見る国家の思惑
- 2025/2/19
- 知・動・説の行方
民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは宗教や言語、文化、そして歴史を共有し、民族意識により結び付いた人々の集まりを指すとされますが、多民族国家ミャンマーをフィールドにしてきた文化人類学者で広島大学名誉教授の髙谷紀夫さんは、文化と社会のリアリティに迫るためには、民族同士の関係の特異性や、各民族の中にある多様性にも注目し、立体的で柔軟な民族観の構築が必要だと言います。
特にビルマとシャンの関係に注目してきた髙谷さんが、多民族国家であるにもかかわらず民族の観点から語られることが少ないミャンマー社会について、立体的、かつ柔軟に読み解く連載の第6話です。
連邦記念日の祝賀イベント(1984年2月12日)
日本国文部省(当時)のアジア諸国等派遣留学生として滞在した1983〜1984年、筆者はさまざまな場面で《多》民族の表象を体験する機会に恵まれた。なかでも圧巻だったのは、1984年2月12日に開かれた連邦記念日の祝賀イベントだった。ミャンマー(ビルマ)の独立に際して、アウンサン将軍と少数民族の代表者たちが連邦国家の建設に合意し、1947年2月12日にパンロン協定が締結されたことに由来している。
連邦記念日の祝賀イベントは、ヤンゴン市内の旧競馬場、チャイカサン・スタジアムで行われていた。その広大な敷地内に設営されたパビリオンやステージでは、数日間にわたって繰り広げられていた各民族の歌や舞踊の盛り上がりが最高潮に達していた。光量不足で撮影を諦めざるを得ず、残念ながらここで披露できる写真はないが、ただただ見事という一言に尽きる舞台であった。
首都はその後、2006年にネーピードーに移された。それ以降、地元紙は連邦記念日にもっぱら新首都に集まって記念日を祝う首脳陣の様子を報じるようになったが、ヤンゴンでも中心部に位置する金色のシュエダゴン・パゴダを東に仰ぐ人民公園でも、早朝、それぞれの民族衣装をまとった代表者たちが連邦国旗の掲揚と表敬式を行っていたようだ。
「135民族」と「33民族」に込められた政治的な意図
ところで、ミャンマー(ビルマ)にはいくつの民族がいて、政府系メディアで用いられている「主要8民族、135民族」という数字は、《多》民族の表象にどう反映されているのだろうか。第3話では、1982年の市民権法に言及しつつ、軍事政権が国勢調査で用いてきた民族区分の考え方が恣意的なもので、一貫性のない線引きであったことを指摘した。
ここで、筆者自身の経験を紹介したい。筆者が初めて135民族に関するデータに接したのは、1995年3月のことだ。文化省(当時)の傘下にあった文化館局の局長に閲覧を申し込んだところ、副局長が記憶をたどり、ヤンゴン市内にあった国立図書館に同行してくれたのだ。筆者はそこで、1983年の国勢調査で用いられたという135民族のリストを入手した。1990年9月26日付のビルマ語国営紙に掲載されたものである。
このリストでは、計135民族が、カチン、カヤー、カレン(ビルマ語でカイン)、チン、ビルマ(ビルマ語でバマー)、モン、ラカイン、そしてシャンという8つの主要民族群に分類されたうえで列挙されている。さらに、各群の最初には、政府系メディアが報じる「主要8民族」が135民族の一つとして名を連ねているのを見ると、この分類が主要8民族を意識していることは明らかだ。
しかし、詳しく見てみると、この線引きは恣意的で、一貫性がないことが随所から伺える。たとえば〈シャン群〉として列挙されている33の民族には、シャン、シャン・ジー、タイ・ロンの3民族の名称が含まれている。これについては、彼ら自身も、周辺の民族も、皆、ビルマ語のシャン・ジー(「大きなシャン」の意)という自称と、シャン語のタイ・ロンは同じだと言う。また、シャン・ジー(あるいはタイ・ロン)はシャン系民族の代表であり、シャンの中でもマジョリティなのだという自己評価も耳にした。筆者も、シャン系の人々に民族を尋ねる時に、ビルマ語で聞くか、シャン語で聞くかで返ってくる答えが変わるという経験をした。「シャン系の中の何シャンか」とさらに尋ねた時に、重複した答えが返ってきたこともある。
135という民族の数がどのように確定され、公定化されたのか、経緯の詳細は不明だが、軍事政権時代から、ほぼ独力で少数民族の研究に取り組んできた民族誌家のウー・ミンナインは、「調査対象者が自己申告する民族名をそのまま集計したために重複しているのではないか」と話していた。
なお、〈シャン群〉の33民族には、母語がシャン系言語ではないものの、2008年のミャンマー連邦共和国憲法(以下、2008年憲法)によってシャン州内に民族自治地域・区域の設定を認められたダヌやパオ、パラウン、コーカン、そして“ワ”(ルウェラ)の名前も入っている。さらに、カチン州に居住するシャン系のカムティ・シャンや、タイ・リェンも含まれている。つまり、〈シャン群〉として列挙される民族には、人々が自己申請する民族名に、シャン州内に居住しているという行政単位の観点と、シャン系であるという民族系統の要素が加わっているのだ。〈シャン群〉というくくりに一貫性が見られないのは、そのためである。つまり、135という民族数はあくまで公的な総数に過ぎず、連邦制の堅持という政治的な文脈で意味を持つのである。
民族の数を巡って揺れる政治的な評価
椎名誠著『秘密のミャンマー』(2003年、小学館)には、「我々はミャンマーに135の民族があると言ってはいけないのです。シャン族が33民族に分かれていると言ってもいけないのです。政府はそう言わせないようにしています」と話すガイドが登場する。徹底して秘密にするというより、「知っているが知らないことにする」というのが実相に近いだろう。「では、政府が言う民族の数はいくつか」と重ねて尋ねる椎名氏に、ガイドは「8」と答えている。言うまでもなく、主要民族の数である。椎名氏がミャンマーを訪ねた当時、135という民族の数は表立って言及されない時期だったのである。もっとも近年は、国営紙でも再び135という数字が用いられるようになっている。
なぜ、民族の数をめぐる政治的な評価がこれほど変化してきたのか。1990年代から2000年代初頭に軍幹部と蜜月関係を保ちながら生き抜いてきたある知識人に筆者が理由を尋ねると、彼は「民族数への言及が制限されたのは、(当時、軍のトップだった)タンシュエ上級大将の意向だった」と、即答した。もちろん、多民族国家において、民族の相違をことさら強調することに政権中枢側が神経をとがらせることがあっても、何ら驚くことではない。自民族意識を目覚めさせ、連邦の瓦解につながる危険性があるからだ。
事実、ミャンマー(ビルマ)の歴史はそれを証明している。1947年のビルマ連邦憲法では、シャン州、カチン州、カレン州、カレンニー州(現在のカヤー州)、チン特別区の設置が条文化され、連邦離脱の権利も規定されていた。1974年のビルマ連邦社会主義共和国憲法では、7州7管区が条文化された。そして2008年憲法では、民族自治地域・区域が新設された。それによって、各民族が自立や独立,自民族地域を求める意識が却ってかき立てられたように思われる。
主要8民族とプロパガンダ
ところで、ミャンマーの公的な祝日のうち、民族の名称が付いているのはカレン新年だけである。1937年に英領植民地議会で法案が採択され、翌1938年(カレン暦で2677年)に施行された。元日は、ビルマ暦で10番目のピャードー月白分1日にあたる。
筆者は、親しくしていたカトリック教徒の一家に誘われ、1984年(カレン歴で2723年)にヤンゴン市内のマヤンゴン郡で開かれたカレン新年の祝賀会に参加した。この年の元日は1月3日であった。会場には観覧車などが設置され、カレン族の衣装をまとった子どもや若者の人気を集めていた。
この日の筆者のフィールドノートには、祝賀会の後にタマイン地区へ移動し、カレン族が集住するキリスト教センターを見学した後、カレン族の仏教徒が集うアーレイン・ガーシンというパゴダを訪問し、隣接する寺院でカレン族出自の僧侶とも懇談したという記録がある。パゴダの境内では運動会が開かれており、宗教を超えてカレン新年を祝う人々で賑わっていた。
それに対し、2002年12月にヤンゴン市内の南東地区付近にオープンした民族村は、主要8民族の衣装や生活習慣などを分かりやすく展示した、いわばテーマパークである。筆者も2005年、日本の内閣府が実施する青年国際交流事業のミャンマー派遣団長として渡航した際に訪問したのだが、敷地内には、主要8民族の伝統家屋をはじめ、仏教徒の巡礼地として知られるモン州のチャイティヨー仏塔(通称ゴールデン・ロック)のレプリカやカチン州北部の山々など、各州の代表的な風景がミニチュアサイズで再現され、片足漕ぎ舟を操る南部シャン州のインダー族を模した人形も展示されていた。
その時に謹呈された説明用資料には、民族村の目的として、①国民の団結と連邦の精神を高揚することと、②すべての民族の文化・習慣・伝統を一堂に集めて観察できるようにすること、の2点が挙げられていた。さらに、主要8民族の“代表的な”民族衣装を着た女性たちが8人、左からビルマ語のアルファベット順に並んで手をつないでいる写真も添えられており、《多》民族の団結を視覚化していることは明らかだった。
当時、文化省ではなく、辺境地域民族集団進歩発展省がこの民族村を所管していた(その後、2011年に国境省の傘下に置かれた)ことを考えると、この横並びの《多》民族表象には、大いに政治的なプロパガンダが込められていると考えられる。また、民族の差異を民族衣装で表現している分、主要8民族の間の不平等の実態が却って見えづらくなっているとも言える。まるで各民族が有するさまざまな生活文化の文脈や背景を無視して、それぞれの文化の一部だけに光を当てて標準化し、陳列しているかのように筆者には感じられた。
ミャンマーの歴史と《多》民族の表象は、2013年12月にミャンマー(ビルマ)で開催された東南アジア競技大会 (SEA Games)、通称「東南アジアのオリンピック」の開会式にもよく表れていた。ビルマ族が中心となって国としての歴史を寸劇で紹介した後、主要8民族の代表者がそれぞれの民族衣装を身に着け、ビルマ語の歌に合わせて踊る様子を、筆者はテレビの前に釘付けになって見入った。さらに、7州7管区を地図上で表現するパフォーマンスや、ミャンマー大会のモットーである「緑、クリーン、友好」を表すマスゲームも行われた。まさに、2011年に民政移管したミャンマーが、テインセイン政権下で国際社会に復帰したことを喧伝する象徴的イベントだったと言える。事実、ミャンマーはその後、2014年に東南アジア諸国連合(ASEAN)の議長国となった。
民族衣装は誰のものか
筆者は毎朝、ミャンマー国営紙など現地のメディアをウェブで閲覧している。2024年5月、ある記事が目に留まった。民族衣装の標準化を図るための会議が開かれたことを報じる記事(2024年5月24日付)だ。開催は2024年に入って2回目で、関係省庁からの代表者のほか、国立ヤンゴン文化芸術大学の学長や、各州の文芸文化団体の代表者も出席しているとのことだった。議長を務める宗教文化省のドー・ヌムラザン副大臣は、来日経験もあるため、名前に覚えがある読者もいらっしゃるだろう。
さらに記事は、この会議の目的について、主要8民族の男女の平時と祭礼時のドレス・コードを提起するとともに、それぞれの民族衣装をパテント化し、無形文化として指定することだと伝えていた。それぞれの民族の織物や意匠、色彩、装飾品にどんな意味が込められ、どのように継承されてきたのか、各民族の文芸文化団体の有識者に写真とともに提出を求め、次の国民文化中央委員会にかける予定だという。これに先立ち、2024年2月25日付の紙面には、国立ヤンゴン文化芸術大学が主要8民族の民族衣装の真正性について調査に乗り出したことを伝える記事も出ていた。
民族衣装とは誰のものなのか。ここにも《多》民族表象をめぐる政治的思惑が見え隠れしていると感じるのは、筆者だけだろうか。
(編集部注:第7話は3月中旬に公開予定です)
[参考文献]
椎名誠 2003『秘密のミャンマー』小学館.
早瀬晋三 2020 『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム〜SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん.