ミャンマー(ビルマ)知・動・説の行方(第1話)
「連邦=ユニオン」と「平等=イコールティ」の整合とせめぎ合い
- 2025/1/15
- 知・動・説の行方
民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは、宗教や言語、文化、そして歴史などを共有し、民族意識により結び付いた人々の集まりを指すとされますが、多民族国家ミャンマーをフィールドにしてきた文化人類学者で広島大学名誉教授の髙谷紀夫さんは、文化と社会のリアリティに迫るためには、民族同士の関係の特異性や、各民族の中にある多様性にも注目し、立体的で柔軟な民族観の構築が必要だと言います。
特にビルマとシャンの関係に注目してきた髙谷さんによる新連載が、いよいよスタートしました。多民族国家であるにもかかわらず、民族の観点から語られることが少ないミャンマー社会について、立体的、かつ柔軟に読み解く連載の第1話です。
諸民族文化発表共演大会(1983年7月23日)
最初に、1983年7月23日に筆者が参加した「諸民族文化発表共演大会」を紹介しよう。ラングーン大学(現在のヤンゴン大学)の学生団体連合「諸民族文芸文化中央委員会」の主催で開かれ、さまざまな民族の学生たちがそれぞれの文化パフォーマンスを披露した。以下は、筆者が事前に受け取った招待状である。
事実、ラングーン大学には、ビルマ族以外にも、さまざまな民族の出自の人々がいた。留学中に滞在していたキャンパス内の大学教員寮にも、インダー族やカレン族、チン族、パオ族の教員がいた。この文化発表共演大会に誘ってくれたのも、彼らだった。
当時、主要な大学では、民族ごとに「文芸文化委員会」が組織され、それぞれの民族文化を継承するために活動していた。筆者の知る限り、実質的な活動は1960年前後まで遡ることができる。ラングーン大学では、1958年から翌1959年にかけて「シャン文学会」が始動したほか、他の民族も次々と文芸文化組織が立ち上げられ、これらを束ねる中央委員会もあった。他方、第二の都市マンダレーにあるマンダレー大学でも、当時の学長の指示で1965年から翌1966年にかけて学内の各民族グループが連帯し、「諸民族文芸文化中央委員会(マンダレー大学連合)」が発足した。
このような組織活動は、1962年以降の軍事政権下で規制を加えられた時期もあったが、程度の差こそあれ、機能し続けた。1948年1月に独立して以来、《多》民族の連帯を国是としてきたミャンマー(ビルマ)の政治的な文脈において、自民族への帰属意識に根差した具体的な活動は、政権側にとっても、反政府運動に発展しない範囲内であれば許容せざるを得なかったと言えるかもしれない。
マイノリティとマジョリティが対等にパフォーマンスを披露
ところで、ラングーン大学で開かれた文化発表共演大会のステージは、まさに《多》民族の共演であった。以下の6枚の写真を見てほしい。上から順に、シャン族、カレン(ビルマ語でカイン)族、チン族、パオ族、カヤー族、そしてビルマ族のステージを撮影したものである。また、写真は残っていないものの、ラカイン族やモン族、カチン族の学生も出演していた。いわゆる主要な8民族(ビルマ族と7つの少数民族)とパオ族が、この日の演者のラインナップであった。
これらの写真は、マジョリティであるビルマ族の舞踊と歌唱パフォーマンスが、マイノリティであるビルマ族以外の諸民族の演目と対等にプログラムに入っていたことを示している。マジョリティかマイノリティかに関わらず、それぞれの民族の文芸文化が“あたりまえ”のように同等に披露されたことに筆者は驚き、民族集団間の平等=イコールティを強く印象付けられた。
特に、ビルマ族の衣装や楽器や舞手のパフォーマンスには筆者も以前から写真や映像で接しており、この連邦国家の“代表的”な歌舞として無意識のうちにインプットされていたに違いない。ところが、この日の舞台を見て、ビルマ族以外の各民族の演目も《多》民族国家の“代表的”な歌舞なのだと腑に落ちた。ビルマ族と同じように自負に満ちて自民族の文化を披露する学生たちの姿に、それほど感服した。
この国は、《多》民族の連邦=ユニオンとして誕生した。その国体は不変である。だが、もし、諸民族間の平等=イコールティが実現する前に、連邦=ユニオンのスローガンが優越されるなら、マジョリティの思想、つまりビルマ語を母語とするビルマ族仏教徒の価値観が、いつのまにか支配的になるのではないだろうか。マジョリティの構造は、無意識のうちにマイノリティの存在を無視しがちであるからだ。他方、平等=イコールティを過度に強調して対立すると、マイノリティにとって、連邦=ユニオンを保持する必然性は希薄化する。独立から現在に至る抗争の歴史は、「連邦=ユニオン」と「平等=イコールティ」という、「イデオロギーと現実」の整合とせめぎ合いであったと言えるかもしれない。
近代史を動かしてきたラングーン大学
ところで、ラングーン大学は、同国の近代史を動かしてきた存在である。1920年に、当時の英領インド・ビルマ州で初めての大学として創立された後、1920年と1936年に起きた学生ストライキや、近代の新しい文学運動(キッサン・サーペー)などの舞台となり、反英独立闘争に身を投じる若者たちを数多く輩出してきた。その中には、後に「独立の父」と崇められる若きアウンサンもいた。学生ストライキが始まった1920年12月5日は、時代が下って英領植民地時代の後半に「国民の日」として休日に制定されたうえ、独立後は公的な祝日にも定められ、現在も祝賀されている。しかも、西暦ではなく、ビルマ暦(ダザウンモン月黒分10日)である。
また、1962年3月に軍事クーデターが勃発すると集会を開催し、批判を続けたのもラングーン大学学生同盟であった。これに対し、軍事政権は軍隊を動員し、抵抗する学生同盟の建物を爆破する暴挙に出た。さらに、1974年12月に第三代国連事務総長ウー・タント氏が無言の帰国をした際、同氏の遺体に対する軍事政権の非情な処遇に強く抗議したのも、1988年3月から9月にかけて全土に広がった大規模な民主化運動を強く牽引したのも、この大学の学生たちであった。つまり、ラングーン大学のキャンパスは、民族問題を含め、政治意識を醸成するための活動の主な舞台として、一貫して中心的な存在であり続けてきたのである。だからこそ軍事政権は学生の動向に極めて神経をとがらせ、彼らを重要な監視対象としてきた。
1993年、ヤンゴン郊外に、新たな文科系理科系総合大学としてダゴン大学が創立された。また、大学閉鎖が解除された後の2000年には、マンダレー郊外にも同様にヤダナボン大学が開設された。いずれも、軍の弾圧により多数の人々が命を落とし、民主化運動にとってエポックメイキングな年となった1988年の出来事を受けて、学生たちをヤンゴン大学とマンダレー大学のメインキャンパスから遠ざけ、郊外に隔離するためだったと言われている。
危機に瀕する教育セクター
ところで、ミャンマーの国立大学は、2021年1月時点で174校あった。このうち134校が教育省の管轄下にあるが、医科や歯科、薬科、看護大学は保健・スポーツ省、国防カレッジや防衛アカデミーは国防省、国際テラワーダ仏教宣教大学や国立文化芸術大学は宗教・文化省、連邦民族発展大学は国境省というように、この国の大学には全部で8つの省庁が関わっている。
大学への進学を希望する者は、毎年3月に実施される大学入学資格試験を受験しなければならない。従来は、基礎教育(初等および中等教育)が、幼稚園1年と小学校4年、中学校4年、そして高校2年の11年制であったが、2016年度より基礎教育カリキュラムの改革が始まり、12年制に移行した。そして、2024年3月に新カリキュラムを受けた一期生が大学受験に臨んだ。
しかし、受験者数は、コロナ禍と軍事クーデターによって激減した。政府系メディアによると、コロナ禍直前の2020年には90万人以上いた受験生が、2024年には13万人弱にまで落ち込んだという。事実、国外脱出を図る若者たちは後を絶たず、国内には高等教育への諦めや絶望感があふれている。国外に活路を見出そうとする若者たちの将来は、どこに向かうのだろうか。ミャンマーの教育セクターが、危機的状況に瀕している。