ミャンマー(ビルマ)知・動・説の行方(第9話)
シャン新年祝賀会に見る覚醒した民族意識の共存と対立

 民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは宗教や言語、文化、そして歴史を共有し、民族意識により結び付いた人々の集まりを指すとされますが、多民族国家ミャンマーをフィールドにしてきた文化人類学者で広島大学名誉教授の髙谷紀夫さんは、文化と社会のリアリティに迫るためには、民族同士の関係の特異性や、各民族の中にある多様性にも注目し、立体的で柔軟な民族観の構築が必要だと言います。

 特にビルマとシャンの関係に注目してきた髙谷さんが、多民族国家であるにもかかわらず民族の観点から語られることが少ないミャンマー社会について、立体的、かつ柔軟に読み解く連載の第9話です。

ヤンゴンで開かれた「シャン新年祝賀会」で新年のカウントダウンを待つシャン系の女性たち(2013年12月2日、筆者撮影)

シャンの新年祝賀会(2013年12月2~3日)と二言語の招待状

 ミャンマーの最大都市ヤンゴンでもっとも有名なシャン寺院と言えば、ピィ通り沿いの9マイル交差点付近にあるアウンミェー・ボンター・シャン・チャウンダイ(シャン語では、ウィハーン・アウンミェー・ポンサー)である。ある程度以上の大きさの仏教寺院を意味するビルマ語の「チャウンダイ」(シャン語では「ウィハーン」)という言葉が示す通り、広い境内には僧堂や講堂などが点在し、シャンの文芸文化に関心を寄せる人々に知識を提供する図書館として活用されている建物や、シャン文芸文化協会が入っている建物、近隣の人々の会合や文化イベント会場に活用されている建物などもあった。

 筆者は2013年、この寺院の僧院長にインタビューした。南部シャン州出身だという僧院長によれば、正式僧や見習い僧は約170坊~180坊おり、全員がシャン族ということだった。彼らのほとんどが地方出身だということもあるのだろう、見習い僧にはビルマ語を解さない者が少なくないということだった。

竹糸で造った仏像に金箔などを重ねて仕上げた竹糸仏陀像が安置された講堂で、シャン族の知人一家とともに。左から3人目が筆者(2013年12月2日、筆者提供)

 同年12月、筆者はこの寺院で開かれたシャン新年の祝賀会に出席した。シャン暦の始まりは、西暦の始まりより94年早い。伝説のシャン王国が紀元前94年(仏教暦450年)に建国されたことに由来しているためだ。シャンの元日であるシャン暦の1月1日は、ビルマ暦ではナドー月白分1日、西暦ではだいたい11月から12月にあたり、シャンの新年祝賀会は、作物の収穫を祝うための行事と位置付けられている。

 祝賀会に先立って受け取った招待状の表紙には、シャン語で「シャン新年おめでとう」と書かれていたが、中面には式次第がビルマ語とシャン語で併記されており、公用語がビルマ語であることと、シャン文字が読めない人がいることへの配慮が伺えた。第2話でも紹介した通り、シャン族が全員、シャン語を読み書きできるとは限らないためだ。

2013年のシャン新年祝賀会の招待状の表紙には、シャン語で「シャン新年おめでとう」と記されている(筆者提供)

招待状の中面の式次第は、ビルマ語とシャン語が併記されている(筆者提供)

 二言語が併記されたこの招待状を見ると、思い出す場面がある。2019年3月にシャン文芸文化協会のヤンゴン支部で開かれた年次会議に参加した時のことだ。以下、紹介しよう。

ビルマ化の機運と民族意識

 年次会議当日は、参加者の自己紹介に続き、次年度の組織体制をどうするか協議が行われたのだが、その場でビルマ語とシャン語が半々で用いられていたことが印象的だった。第2話で指摘した通り、ミャンマーでは民族・宗教・言語の《多》が歴史的に交錯しているため、「Aという民族は、A語を母語とし、A文化を保持している」と考えるとリアリティを見誤ってしまううえ、A系の人々の多様性と対立を見逃しかねない。では、ヤンゴンにいるシャン族の数は公式にはどれぐらいなのか。

 それを考えるにあたっては、2008年から各管区と州議会レベルで始まった民族担当議員制度が一つの目安となるだろう。この制度によって、各管区や州内でミャンマー人口の0.1%以上の人数を擁し、かつ、自治地区を有していない民族には議員枠が一人、与えられることになった。これにより、ヤンゴン管区では全人口の0.1%にあたる5万人以上を擁するカレン(ビルマ語でカイン)族とラカイン族にそれぞれ担当議員が任命されたが、シャン族は任命されなかった。2019年に内務省傘下の総務局が公表した統計では、ヤンゴン管区内に居住するシャン人口が2万3,000人にも満たなかったためだ。なお、マンダレー管区、ザガイン管区、そしてカチン州では、シャン族の担当議員が任命された。

 とはいえ、多くのシャン系の人々が最大都市ヤンゴンへと流入している実態を踏まえると、ヤンゴン管区内のシャン系人口が5万人未満であるとは考えづらい。そこでシャン文芸文化協会のヤンゴン支部で理由を尋ねてみると、「ヤンゴンに流入するシャンの人々の多くは、シャンではなくビルマで民族登録しているためだろう」という回答が返ってきた。

シャン暦の大晦日にシャン寺院で披露された出し物。ステージの背後には、きたる2014年の干支である午が描かれていた。シャン文化と干支との関係については、いまだ調査中である(2013年12月2日、筆者撮影)

 同年、シャン文芸文化協会のヤンゴン支部長にもインタビューした。支部長によるれば、ヤンゴン支部ではシャン新年や「シャン州の日」の祝賀会の開催、シャンの水掛け祭りの実施、ヤンゴンに新たに流入した家族に対する読経会の開催、シャン語の研修会やシャン文芸文化講座の開催など、全10種類に上る活動を行っているということだった。また、同会はヤンゴン在住のシャン族に慶事や弔事があった際の互助組織としても機能しているとのことだった。

 さらに支部長は、これらの活動の中で、特にシャン新年やシャン州の日の祝賀会に力を入れていることや、水掛け祭りは前年に始まった新しいイベントであることなどを話してくれた。筆者は、ヤンゴンへの流入者の対応やシャン語講座などの取り組みを行っているという話が、特に印象に残った。ビルマ化への強い機運があるなか、シャン系の人々が集う機会をいかに創出し、自分たちの言語や文芸文化を継承していくか苦心している様子が伝わってきたためだ。ヤンゴンに住むシャン族の人々にとって、シャン文芸文化協会のヤンゴン支部は、自分たちが「シャンであること」を再認識する大切な拠点となっていることが伝わってきた。

歌舞音曲も披露されたヤンゴンの祝賀会

 さて、前述の通り、シャン新年祝賀会には、その年の収穫を祝う意味がある。筆者がヤンゴンにある冒頭のシャン寺院で開かれたシャン新年の祝賀会に参加したのは、2013年が初めてではなく、12年前の2001年にも参加したことがあった。どちらの年も、大晦日の午前中に新米の仏飯を僧侶へ捧げた後で来訪者に振舞う儀式が行われたほか、入り口から境内にかけて参拝客目当ての露店が並び、夕方からステージ上で歌唱や舞踏によるパフォーマンスが繰り広げられたのも同じであった。

シャン寺院の入り口から境内にかけて、参拝客めあての露店が並んでいた(2013年12月2日、筆者撮影)

 2001年の筆者のフィールドノートと写真には、インド・アッサムから来た研究者が祝賀会に参加し、大晦日の夜にはステージでスピーチして歓声を浴びたり、シャン族の人気歌手だったサイティサインも来場し、ギターの弾き語りを披露して来客を魅了したりしていた様子が記されている。なお、1984年2月に筆者がヤンゴン大学(当時はラングーン大学)で開かれたシャン州の日の祝賀会で彼の代表曲を披露したことは、第3話で紹介した通りだ。

 その後、筆者は2013年もシャン暦の大晦日をシャン寺院で過ごした。再びフィールドノートをめくってみると、竹糸で造った仏像に金箔を重ねて仕上げた竹糸仏が安置された講堂で昼下がりに他の参拝客からヤンゴン市内の他のシャン寺院の情報を教えてもらったとの記録がある。その後は寺院の見取り図を作成したり、周辺を散策したりしながら夜のステージの開始を待ったのを覚えている。

シャン暦の大晦日、ヤンゴンのシャン寺院ではさまざまな出し物が披露された(2013年12月2日、筆者撮影)

 歌唱や舞踊などがひととおり披露された後、12月3日の午前0時に向けてカウントダウンが始まった。シャン系のさまざまな衣装を身にまとった女性たちが新年を寿ぐ歌を斉唱し、盛り上がりが最高潮に達した頃、多くの見習い僧たちが物珍しそうにステージ上のパフォーマンスに夜遅くまで見入っていた姿が印象的だった。

さまざまな出し物が披露されるステージを見習い僧たちが木陰から興味深そうに眺めていた(2013年12月2日、筆者撮影)

地域的なつながりを重視するマンダレーの「シャン」

 ヤンゴンのシャン新年祝賀会の翌日、筆者は北上して旧王都マンダレーに住むシャン族の人々を訪ねた。

 マンダレーには当時、代表的なシャン寺院であるナムカム寺にシャン文芸文化協会のマンダレー支部が置かれていた。シャン新年祝賀会がマンダレーで開かれる時の主会場でもあるナムカム寺を筆者が訪ねると、僧院長はおおいに歓待してくれ、シャン文芸文化協会の幹部や、北部シャン州チャウメーから祝賀会のために来ていた歌唱舞踊団に声を掛けて特別にパフォーマンスも見せてくれた。地元紙の日刊マンダレーは、12月2日の大晦日と翌3日午前の新年祝賀会の様子を報じ、マンダレー管区議会のシャン民族担当議員が来賓として招かれていたと伝えた。前述の統計によれば、マンダレー管区におけるシャン人口は6万人を超えている。

 僧院長は、マンダレー市内にあるシャン寺院の概略や、シャン族の人々の生活についても話してくれた。なかでも、マンダレーでは、慶事や弔事があった際に、シャン文芸文化協会のマンダレー支部とは別に「シャン社会福祉協会」という互助組織が活動しているという話に興味を引かれた。

 さっそくマンダレー市内の35番通りにあるシャン社会福祉協会の事務所を訪ね、協会の沿革と活動状況について説明を受けると、自称タイ族に加え、パラウン(自称タアン)族、ダヌ族、インダー族、パオ族などをシャン諸民族として支援しているということであった。ここで言う「シャン」とは、民族というより、シャン州にゆかりのある人々を意味していた。かつてビルマ王国の都が置かれたマンダレーが、シャン州から平地に下りた交通の要所に位置し、王朝時代から諸民族を統べるシャン系の伝統的な首長であるツァオパーと朝貢を通じて交流しつつ、シャン系の諸民族を包括してきた歴史を有していることを再認識した。

シャン文化圏の過去といま

 第3話で紹介したように、かつてシャン文化圏の人々は、民族間のコミュニケーション手段(リンガ・フランカ)であるシャン語や、シャン系の伝統的な首長の存在を介して同胞意識を共有していた。ところが、イギリス支配からの独立前後から、諸民族は言語や仏教信仰の共通性よりも、それぞれの自民族意識を優先するようになる。第3話で紹介した「シャン」人口の統計上の減少は、そのことを明確に示している。

 ヤンゴンでは、ビルマ化の強い機運の中、シャン語とシャンの文芸文化の継承に加え、互助組織としての役割も果たそうと苦心する文芸文化協会の活動に触れた。他方、マンダレーでは、文芸文化協会と社会福祉協会が役割分担し、特に社会福祉協会は、民族的な出自よりも、シャン州という地域的なつながりを重視している様子を感じた。

マンダレー市内にあるシャン寺院でインタビューを行う筆者(右端)(2013年12月5日、筆者提供)

 また、マンダレーのシャン社会福祉協会の事務担当者が「文芸文化協会は次世代向けの組織であり、社会福祉協会は親世代向けの組織だ」と話していたことも印象に残った。今日のシャン文化圏では、シャン系の人々が置かれている状況を反映しつつ、覚醒した民族意識が時に共存し、時に対立している多様性が顕著に見られると言えよう。

 

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