ミャンマー(ビルマ)知・動・説の行方(第2話)
マジョリティの構造とマイノリティの存在
- 2025/1/22
- 知・動・説の行方
民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは、宗教や言語、文化、そして歴史などを共有し、民族意識により結び付いた人々の集まりを指すとされますが、多民族国家ミャンマーをフィールドにしてきた文化人類学者で広島大学名誉教授の髙谷紀夫さんは、文化と社会のリアリティに迫るためには、民族同士の関係の特異性や、各民族の中にある多様性にも注目し、立体的で柔軟な民族観の構築が必要だと言います。
特にビルマとシャンの関係に注目してきた髙谷さんによる新連載がスタートしました。多民族国家であるにもかかわらず、民族の観点から語られることが少ないミャンマー社会について、立体的、かつ柔軟に読み解く連載の第2話です。
卒業生送別会とカレンのドゥン踊り研修修了式(1983年7月30日)
今回も、筆者が日本国文部省(当時)のアジア諸国等派遣留学生として滞在していた時に、ラングーン(現在のヤンゴン)大学で参加したイベントの紹介から始めたい。
第1話で紹介した「諸民族文化発表共演大会」から1週間後の1983年7月30日、カレン(ビルマ語ではカイン)族のイベントが開かれた。卒業生の送別会と、カレンの舞踊として定番化しているドゥン踊りの研修修了式を目的として、学内のカレン族文芸文化委員会によって企画されたものだった。前回の《多》民族表象の共演から一転し、今度はカレン族の歌舞パフォーマンスだけを集中的に見聞することになった。ドゥン踊りのほかに、8本の竹を交差させてその間を飛び跳ねるバンブー・ダンスも披露された。
筆者をこのイベントに誘ってくれたのは、大学教員寮の隣にあった一軒家の教員宿舎に住んでいたラングーン大学人類学科講師で、カレン族のウォーレス・カンジーだった。筆者と同じ人類学を専門としていた彼の宿舎には青銅製の祭具(楽器)である銅鼓などが飾られ、なかばカレン博物館と化していた。筆者はそんな彼の宿舎を時折、訪問しては、カレン族の学生たちと語り、ドゥン踊りのギター伴奏をした。冒頭のイベントでも請われてギターの弾き語りを披露した。
- ウォーレス・カンジー宅の銅鼓(1983年3月26日、筆者撮影)
- ウォーレス・カンジー(右)と筆者(1983年3月26日、筆者提供)
ラングーン大学には当時、カレン族の教員が約30人いた。その中心にいたのが、前出のウォーレス・カンジーと、英語科の教授をしていた姉、そして講師をしていた弟の3人だった。また、筆者が滞在していた寮の隣部屋にいたウー・テッキンも、リーダー格の一人だった。彼もカレン族の出自で、外国語学院(現在のヤンゴン外国語大学)でドイツ語科の教員をしていた。
なお、この日の筆者のフィールドノートには、「文芸が消滅すると、民族も消滅する。民族の団結と伝統文化を守ろう!」というスローガンが会場に掲示されていたことや、冒頭の学生代表の挨拶は「カレン族ここにあり」と感じさせる内容であったこと、そして、ウー・テッキンが学生たちのパフォーマンスについて「ドゥン踊りの研修修了式と言いながら、きちんと踊れているのは男女1人ずつしかおらず、なってない!」と、辛口のコメントをしたことが記録されている。
〈ビルマ化〉のモーメントに注目
ところで、このカレン族こそ、筆者を東南アジア大陸部というフィールドへ誘った民族集団であった。東京大学に在学中に主指導を仰いだ恩師の大林太良教授ゼミで、タイ王国とビルマの国境に広がる山岳地域に居住していたカレン族に関する論文「アリヤと黄金の本:カレン族の千年王国的仏教セクト」(1968年、T. スターン)を担当したことがきっかけだった。この論文には、民族に関するマイノリティとマジョリティの相克や儀礼論、文字に関する口頭伝承、民族意識、土着主義運動、文化変容を含む文化動態論などの要素が盛り込まれており、筆者の人類学的関心の総体とほぼ重なっていた。
さらに、筆者のフィールドワークの師匠であり、タイ王国北部のメーサリアン近郊のカレン族の村をフィールドにしていた東京外国語大学の飯島茂教授(当時)のモノグラフやエッセイを熱心に読んでいたこともあって、深い関心を寄せていた。
その一方で、筆者がカレン族に対する視野を広げるきっかけになったのは、平地部のカレン族に関する論文「カレン族のビルマ化〜民族的適応性に関する一研究」 (1924年、J.L.ルイス)だった。同論文で提示されている「…化」という分析の概念に魅力を感じたのだ。前出の飯島茂教授も以前からこの概念の利便性を提唱していたため、筆者も影響を受けていたのだと思う。拙著『ビルマの民族表象〜文化人類学の視座から』(2008年、法藏館)で、〈シャンのビルマ化〉を作業仮説の一つに据えて考察したのも、その展開である。
このように、多民族国家ミャンマー(ビルマ)の民族状況を語るためには、マジョリティであるビルマ語を母語とするビルマ族仏教徒が優越する状況について、〈ビルマ化〉のモーメントに注目することが欠かせない。
2008年憲法から読む《多》相互の関係性
この連載の骨格について、筆者は第0話の中で、多民族・多宗教・多言語国家であるミャンマー(ビルマ)の《多》の座標系のリアリティを「知る」「動く」「説く」から成る「知動説」の立場から考察することにあると述べた。《多》は「説く」ための出発点であるが、それぞれの《多》相互の関係性については丁寧に議論する必要がある。そこで、2008年に制定されたミャンマー連邦共和国憲法(以下、2008年憲法)から関係する条文を取り上げ、その概略をミャンマーの政治的文脈に沿って示しておきたい。
【2008年憲法より抜粋】
《22条(1)》国家は、諸民族の言語、文学、芸術、及び文化の発展のための支援を行う。
《34条》すべての国民は、公序、倫理、国民の健康、その他憲法上の規定に反しない限りにおいて、良心の自由、信仰の自由を平等に認められなければならない。
《348条》国家は、ミャンマー連邦共和国のいかなる国民に対しても、人種、出生、宗教、社会的地位、身分、文化、性別、及び貧富に基づく差別を行ってはならない。
《350条》女性は、同様の職種に就いている場合、男性と同等の権利と報酬を受ける権利を有する。
《354条(4)》いかなる国民も、国家の安全保障、法と秩序、平和平穏または公序と道徳の普及のために定められた法律に違反しない限り、以下の権利を自由に行使する権利を有する。特定の民族間と諸民族間、及び諸宗教間に偏見を生じさせない限りにおいて、自ら愛着を持つ言語、文学、文化、信仰する宗教、及び慣習を発展させる権利を有する。
《361条》国家は、大多数の国民が信仰する仏教の特別な地位を公認する。
《362条》国家は、憲法が発効した日に、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、及び精霊信仰も、国内に存在する宗教として公認する。
《450条》ミャンマー(ビルマ)語を公用語とする。
2008年憲法の基本精神は、国民の法の前の平等を前提に、信教の自由を謳うことにある。事実、「憲法上の規定に反しない限りにおいて」と留保しながらも、34条と348条でその精神を言語規約としている。同様に、諸民族間と諸宗教間についても、留保付きで354条4項で規定している。
しかし、361条と362条では、仏教をマジョリティが信仰する宗教と公認したうえで、その他の宗教については名称を列挙するに留まっている。この法的な建て付けは、非仏教徒をマイノリティだとするまなざしを暗示している。これが如実に問題化したのが、少数派イスラム教徒ロヒンギャをめぐる係争である。国内に居住するムスリムは、ロヒンギャだけではない。しかし、大半のミャンマー人は、ロヒンギャの人々に会ったことがないため、「ムスリムはすなわちロヒンギャである」という根拠のない拡大解釈と誤解がマジョリティである仏教徒側の一部に生じて差別が露呈したのである。
また、言語については、450条でミャンマー(ビルマ)語を公用語と定めていることに注目してほしい。これに先立ち1974年に制定されたビルマ連邦社会主義共和国憲法の152条では、ビルマ語は共通語として規定され、「ビルマ語以外の少数民族言語による教育も容認される」とされていた。しかし実際には、ビルマ語以外の教育を公教育段階に導入する取り組みが幾度か試みられたにも関わらず、すべてが成功したわけではなく、放課後の課外授業や僧侶による仏教教室の一部に言語教育が組み込まれた事例がいくつかあった程度だった。時代が下り、2011年からのテインセイン大統領の政権下では、ビルマ語以外での教育や教科書編纂が公的に認められたものの、どこまで実質化したかは不明である。
その一方で、言語について語るのであれば、英語についても触れる必要がある。この国はかつて英領植民地であり、現在も英語は特別な存在であるからだ。ちなみに、1947年に初めて公布されたビルマ連邦憲法の216条では、「英語の使用も許容するという条件付きでビルマ語が公用語である」とされている。つまり、この国の人々にとって、英語はある意味でビルマ語と共通点があると言えるかもしれない。独立以来、この国には「ビルマ語こそ共通語であり、公用語である」という法的な評価があり、ビルマ語を母語としない人々にとっては、公的書類の作成言語や学校教育の教授言語として、ビルマ語が事実上、強制されてきたことを意味した。こうして、ビルマ語を習得することが社会的に有益だという状況が作り出された。同じことは、英語を取り巻く状況についても言えそうである。
シャン語に見る民族・宗教・言語の《多》の交錯
言語と社会状況について、シャン語を例に説明を進めよう。シャン族は、ミャンマーにおいてカレン族と並ぶ代表的な少数民族の一つであり、植民地時代に成立したシャン連合州が独立後のシャン州の基盤となっている。そのシャン族は、シャン州以外に、北部のカチン州や西北部のザガイン管区にも多く居住している。
実は、これらの地域では、シャン語ではなくビルマ語を母語とするシャン族が少なからずいる。歴史的に〈ビルマ化〉が浸透した地域であるためだ。つまり、民族・宗教・言語の《多》が歴史的に交錯してきたミャンマーで「Aという民族はA語を母語とし、A文化を保持している」という見方をすれば、リアリティを見誤りかねないことになる。さらに、シャン系の人々の間における多様性と対立も見逃しかねない。
それを裏付けるエピソードがある。シャンの新年を祝うイベントがヤンゴンで開かれ、ある著名なシャン族歌手の娘がステージに立った時のことだ。彼女は冒頭、「私はシャン語ができないため、ビルマ語で歌うことをお詫びします」と謝罪し、ほとんどの観客はそれを受け容れたように見えたが、中には「なぜシャン語ができないのか」と不満気な声も聞こえてきたのだ。また、中部シャン州のラーショーで開かれたシャン新年の祝賀会に出席した時には、北西部のザガイン管区から参加していたシャン族の代表がスピーチに立ち、「シャン語ではなくビルマ語でしか挨拶できないことを申し訳なく思っている」と号泣するのを目の当たりにした。
このような事例は、「A民族」と「A語」を無意識のうちに不可分に考えることの問題を示唆している。さらに、シャン族の場合は、仏教信仰の要素も加わる。ミャンマーと中国との国境の町、ムセーで知り合ったシャン族のキリスト教バプティスト派の宣教師は、「シャン族全体の9割以上が仏教徒であるため、布教活動はハードルが高い」と筆者に語り、「シャン文化と言えば実態はほぼ仏教」だと冷静に評価していた。民族・宗教・言語の《多》の座標系は、民族によって事情が異なるだけでなく、同系民族内にも多様性があるのだ。
民族とはその人の帰属意識に関わるものであり、本質的には目に見えないからこそ、民族衣装や物質文化などの視覚情報からたどられがちだ。それに対し、宗教は信仰の告白と関わっており、その宗教行動は倫理観を通底して明らかになる。どこでどのように祈るのかや、祈る場の文脈が問われるのだ。また、言語とは他者とのコミュニケーション・ツールであり、住んでいる国家の教育政策や、将来の選択肢などにも密接に関係してくる。
こう考えると、「連邦=ユニオン」が現実的になるのは、民族・宗教・言語の相違と対立を超えた先の話だと言えよう。第1話でも述べた通り、マジョリティの人々は無意識のうちにマイノリティの存在を無視しがちである。この国で「平等=イコールティ」が達成されない限り、「連邦=ユニオン」の実現が遠い道のりであることは確かだ。