ミャンマー(ビルマ)知・動・説の行方(第7話)
シャン州フィールドワークことはじめ
- 2025/3/12
- 知・動・説の行方
民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは宗教や言語、文化、そして歴史を共有し、民族意識により結び付いた人々の集まりを指すとされますが、多民族国家ミャンマーをフィールドにしてきた文化人類学者で広島大学名誉教授の髙谷紀夫さんは、文化と社会のリアリティに迫るためには、民族同士の関係の特異性や、各民族の中にある多様性にも注目し、立体的で柔軟な民族観の構築が必要だと言います。
特にビルマとシャンの関係に注目してきた髙谷さんが、多民族国家であるにもかかわらず民族の観点から語られることが少ないミャンマー社会について、立体的、かつ柔軟に読み解く連載の第7話です。
シャンであること、シャンになること
この連載では、文化人類学者である筆者が通算4、5年にわたるミャンマーでのフィールドワーク中に現地で参加した文化イベントを時系列で紹介している。第7話からは、シャン族やシャン系の人々、あるいはシャン州にゆかりのある人々が参加したイベントを写真とともに振り返りながら、シャン研究に関する「知・動・説」の足跡をたどることにしたい。
かつて筆者は、「シャンであること、シャンになること」について問う論文を1998年と2007年に発表した(参考文献参照)。生まれながらのシャンはいない。民族・宗教・言語の規範や価値観の面で文化化の過程を経てシャンになり、シャンであることを“当たり前”にしていくのである。そこで筆者は、〈シャン〉を前提にするのではなく、〈シャン〉になるプロセスに注目した。このプロセスを、筆者は〈シャンのシャン化〉と呼んでいる。
このテーマに注目したのは、第5話でも触れた通り、カチン州で出会った〈シャン系の人々〉、特にタイ・リェンがビルマ語を母語とし、男性がビルマ風ロンジーを身に着けるなど、〈ビルマ化〉の影響を受けながらも、シャン族としての民族意識を持ち続けている様子を見て、「シャンとは誰か」と自問するようになったことがきっかけだった。
では、シャン州に住むシャン族や、シャン文化の影響を受けてきた周辺民族はどうか―。そんな問題意識を抱えて筆者が初めて北部シャン州を訪れたのは、1997年4月のことだった。当時、大学歴史研究センターの外国人客員研究員としてヤンゴンに滞在していた筆者は、北部シャン州の各地で〈シャンのシャン化〉を動かしていたシャン文芸文化協会を訪ね、インタビューを重ねた。もっとも、中国との国境の街ムセーは、当時、訪問するために特別許可が必要だったため、断念せざるを得なかった。念願がかない訪問できたのは、2019年末のことだった。その様子は第15話で紹介する。
チャウメーの出会い
北部シャン州では、チャウメーの街でウー・クンミィンに出会った。彼は、ヤンゴン大学の国際関係学科で准教授をしていたソーキンジーという女性の弟だった。姉弟の父親は医者で、彼らの伯父は王朝時代からシャン諸州を統治していた最後の伝統的首長(ツァオパー)の一人だったという。
ソーキンジーは当時、ヤンゴン大学内のシャン文芸文化組織で要職を務めていた。他方、弟のウー・クンミィンも、マンダレー大学に在学中、シャン文芸文化の保存運動に書記長として参画していた。

ヤンゴン大学のシャン文芸文化組織のメンバーたち。 前列左から5人目の男性がウー・サイアウントゥン(第3話参照)で、その右隣がソーキンジーである(1995年、シャン族の知人提供)
筆者はその後、世紀をまたいで北部シャン州に通い続けた。年末年始には、毎年、チャウメーにある彼の家にホームステイをしながらシャン語を勉強し、20世紀最後の正月も、21世紀最初の正月も彼の家で迎えた。こうして、シャン研究の知・動・説のうち、「動」は、〈シャンのシャン化〉の現場で本格的に始まった。
シャン文化の復興と継承を促進
北部シャン州では、西暦でだいたい12~1月にあたるシャン暦1月から、西暦でだいたい1~2月にあたるシャン暦2月にかけて、「シャン文芸功労者の日」の祝賀会が各地で開かれている。これは、シャンの文芸に功労のあった先達を顕彰し、シャン文化の復興と継承を促すことを目的としたもので、1968年12月に州都のタウンジーで開かれて以来、チャウメーやシポー(ビルマ語ではティボー)など、各地で盛大に祝われている。いわば、古今の文芸功労者を顕彰するビルマ族の「文芸功労者の日」(サソードー・ネ)のシャン版である。
この「シャン文芸功労者の日」の祝賀会は、シャン語で「ポイ・クーモー・タイ」と言う。「クーモー」の「モー」は、シャン文化を享受する者が身に付けるべき基本的な技能を意味し、「クーモー」で「知識が豊かな人」を意味する。
まさにこの「クーモー」と言えるのが、シャン文芸の「生みの親」たちであろう。シャン州各地をはじめ、シャンと縁が深いタイ王国北部のメーホンソーン県でも、しばしば彼らの系譜を目にした。場所によって詳細は異なるが、代表的な以下の6人の名前は、どの系譜にも共通している。彼らの名前は、シャン文芸功労者の伝記『シャンの6人の文芸功労者』にも挙げられている。
シャン文芸の「生みの親」たち
① ツァオ・タンマティンナ 1541(シャン暦12月9日)~1640
② ツァオ・カーンスー 1787(シャン暦12月1日)~1881
③ ツァオ・コーリー 1847(シャン暦12月9日)~1910
④ ナン・カムクー 1853(シャン暦12月7日)~1918
⑤ ツァオ・アマットロン・ムンノーン 1854(シャン暦12月4日)~1905
⑥ ツァオ・ノーカム 1856(シャン暦11月7日)~1895
なお、功労者のリストは各地で加えられていく。2018年にラショーを訪ねた時には、最近亡くなった人物がリストに加えられているのを見た。その中には、生前、筆者がお世話になったルン・タンケーの名前もあった。シャン文字を広く普及させるために、1940年に始まった新シャン字体の開発プロジェクトに参画していた人物の一人だった。
「シャン文芸功労者の日」(1999年1月1日)
1999年1月、筆者はチャウメーのカンボーザ寺院で10日間にわたり開催された「シャン文芸功労者の日」の祝賀会に参加した。
初日の1月1日の朝に開かれた開会式では、軍関係の代表と、行政官の代表が2人でテープカットを行った。複数の少数民族武装組織がこの地区周辺に拠点を置き、恒常的に抗争を続けていることを象徴しているように感じた。その後、近隣の30の村々から集まった約1800人の村人たちが敬礼する中でシャン旗が掲揚され、境内の奥では、仏・法・僧の三宝に誠心を捧げる三帰依も行われた。午後は、チャウメーの郊外にある著名なクーモーの一人の墓前で顕彰の祝賀会も行われた。
さらに、文芸功労者の顕彰だけでなく、仏教経典の吟唱や、シャン太鼓の演奏、剣術、舞踊、歌謡、綱引き、伝統衣装のファッションショー、弁論コンテストなど、さまざまなシャン文化が披露され、この場が伝統文化の重要な保存活動の場にもなっていることが伝わってきた。特に、祝賀会の沿革と主旨に照らして最も根幹に関わるプログラムだと言える仏教経典の吟唱には、12の団体が参加していた。
「シャン文芸功労者の日」に合わせて企画される文化的なパフォーマンスは、年々、拡充され、祝祭の色合いが濃くなっているようだった。興味深いことに、普段は宗派の異なる仏教行事にまったく参加しないシャンの人々も、この日だけは宗派を超え、互いの祝賀会や行事に参加していた。それぞれに帰依している仏教の宗派より、〈シャン〉であることが優先されていたためだと言えよう。
これまで見てきたように、「シャン文芸功労者の日」は、ビルマ化や西洋化の強い波に日々、さらされているマイノリティの人々が、シャンとしてのアイデンティティを確認し、「シャンである」、あるいは「シャンになる」ための祭事である。彼らは、家庭内ではシャン語で会話しているにも関わらず、学校教育の教授言語はビルマ語であり、シャン語を公的に学ぶこともかなわない。就職や出世にも、ビルマ語や英語の能力が必須なのである。そんな彼らが、マジョリティであるビルマ族と共有する仏教信仰の場を利用してシャン民族の知を継承することを目指したのが、「シャン文芸功労者の日」である。それはまさに、〈シャンのビルマ化〉と表裏一体をなす〈シャンのシャン化〉の表象であった。人々が宗派を超えて参加していたことも、それを示唆している。シャン族による「シャン」の表象には、さまざまな演出と仕掛けがあったのである。
王宮に残る歴史の痕跡
近現代史の政治的文脈からシャンを考える時には、伝統的首長である「ツァオパー」を抜きには語れない。英領植民地下にあった1922年にシャン連合州を組織し、少数民族とビルマ族の連邦制国家の発足が合意された1947年のパンロン会議にも、複数のシャンのツァオパーが参加した。その体制は、1959年にツァオパーが封建的な特権を返上し、1962年に軍事クーデターが起きるまで続いたが、シャン語で「ホー」と呼ばれる各地の王宮は、一部を除いて放置・解体され、北部シャン州のシポーや、南部シャン州のニャウンシュエなどにわずかに残っているだけだ。
なかでもシポーは、歴史を感じさせる風景と佇まいが外国人観光客に人気だ。街の象徴はなんといってもホー王宮だが、王宮と幹線道路を挟んで反対側には、マンダレーのマハムニパゴダをモデルにした仏陀像があり、王朝時代のビルマ王とシポー・ツァオパーとの関係を彷彿とさせる。この仏陀像の堂内には、「1895年」(ビルマ暦1257年)と寄進年が刻まれており、ツァオパーの存命中から今にいたるまで、パゴダのための喜捨の行列が編成されていることを示している。
なお、国営紙によれば、現在の軍事政権が2023から2024年にかけて、センウィやケントゥンにあるホー王宮を再建し、ミンアウンフライン総司令官が出席して記念式典を行ったという。「ホー王宮はユニオン=連邦の象徴であり、観光資源にしたい」と総司令官が発言したと記事は伝えているが、真相はどうか。
このように、「シャン文芸功労者の日」は、シャン族による〈シャンのシャン化〉のソフト面での営みである。他方、現軍事政権によるホー王宮の再建は、一見、〈シャンのシャン化〉をハード面で支援しているように見えるものの、あくまでビルマ族中心の歴史を伝える博物館という意味が込められている。これはすなわち、ホー王宮を介した〈シャンのビルマ化〉であり、〈ビルマ化〉に翻弄されたシャン文化の表象だと言えよう。
[参考文献]
髙谷紀夫 1998 「シャンの行方」『東南アジア研究』35巻4号、38-56頁.
*拙論は、京都大学のリポジトリでダウンロードすることが可能。
Takatani Michio 2007“Who are the Shan? An Ethnological Perspective”, Mikael Gravers (ed.) Exploring Ethnic Diversity in Burma, NIAS Press, pp.178-199.