「平和は誰が作るのか」
- 2021/8/2
【編集部注:】
クーデターの発生から半年が経過したミャンマー。日本から思いを寄せつつ、無力感を募らせている人も少なくありませんが、ジャーナリストの北角裕樹さんは「僕たちはそんなに無力じゃない」との思いをFacebookに綴りました。
~ 以下、Facebook投稿より ~
インセイン刑務所から釈放されて日本に帰国してから、ヤンゴンでビジネスをしていた日本人ビジネスマンやスポーツ関係者など、ゆかりのある人たちと話した。よく出てくるのが「平和になったらまたミャンマーのために仕事がしたい」「平和になったらヤンゴンに戻りたい」という言葉だ。それは心底そう思っているのはわかるし、僕自身も強くそう思っている。
しかし、欠けている視点があると思う。このままただ待っても、きっとミャンマーに平和は来ず、その人たちが再びヤンゴンでビジネスができる環境にはならないだろうということだ。
そしてすでにクーデターによってほとんどの業種で仕事ができなくなり、当初の収支の見通しは崩壊し、投資そのものが市民の怒りを買って市民団体の攻撃の対象となり、崩壊した医療体制のもとで日本人3人を含む多くの人が新型コロナの疑いで亡くなっている。しばらく待ったとしても、クーデター体制下では、まともにビジネスができないことは明確だろう。
誰かが平和を作らないといけないのだ。そして、それを試みた人たちが、マシンガン掃射で撃たれたり、片っ端から家宅捜索をかけられて拘束されていっているのだ。
生まれた時から平和だった日本にいると、実感がわかないのは仕方がない。しかし「安全を気にすることなく普通にビジネスができる」「もう何を言っても殺されたり捕まったりしない」「病気になったら医者に診てもらえる」という普通のことを取り戻すのに、命を懸けなくてはいけないのがミャンマーの現実なのだ。その平和の重さを知りながら、ただ待つというのは、本当にそれが自分にとって正しい結論なのだろうか。
「ミャンマーが好きだ」と言いながら「できることは何もない」と思い込んでしまっているひと。個々の事情はあるし、簡単なことでもないと思う。しかし、本当にそれがあなたたちの精一杯なのだろうか。
ある友人はクーデター以降、無力感に打ちひしがれながら、「微力と無力は違う」という言葉にたどり着き、今はできることをしてくれているという。どんな形でもよいのだ。悩んでいる友人たちに、この言葉をぶつけるのは厳しすぎると思わなくもない。それでも僕は言いたい。僕たちはそんなに無力じゃない。
(そんなことを考えながら、8月1日の丸の内の集会で少しお話しさせていただきました。撮影してくれていた人がいるのでリンクします)