タイのスラムが生んだ「奇跡のオーケストラ」の物語(前編)
10代の子どもたちは、なぜ感動の日本公演を実現できたのか

  • 2023/12/6

 最後の音が鳴り響いて消えると、わずかな間を置いて、客席から熱い拍手が湧き起こった。ステージ上では、シックな黒い服をまとったオーケストラの若者たちが、笑顔を心持ち上気させながら起立して小さく会釈し、オーディエンスへの感謝を示す。

 拍手は止むどころかますます大きくなり、「最高です!」と男性客から感激の声が上がる。やがて聴衆は次々と立ち上がり、満場のスタンディングオベーションで大きな称賛を送った。10月19日夜、東京・新大久保の日本福音ルーテル東京教会でのことである。

 スラムの奇跡──。コンサートのサブタイトルに冠された言葉がまさに実現した、と思えた瞬間だった。

来日したイマヌエルオーケストラのメンバーたち (c) シャイン・フォー・ユー

一粒の種が播かれた日            

 この日、演奏していたのは、タイの「イマヌエルオーケストラ」だ。10代のメンバーが主体の、一見、世界各地に多くある青少年オーケストラのひとつのように思えるが、他の楽団とは異なる大きな特徴がある。それは、スラム街で生まれ、スラム街をベースに活動を続けてきたオーケストラだということだ。

 タイには2000近くのスラムがあり、多くは貧困や差別、犯罪、違法薬物の蔓延など深刻な問題を抱えている。スラム出身であることを隠さなければ就職もままならないなど、歴然とした差別も根強く残る。中でも最大規模のスラムは、首都バンコクのクロントイ地区にある。約10万人が暮らすその「クロントイ・スラム」こそ、イマヌエルオーケストラを生み、育んだ地域なのだ。

 一粒の種が播かれたのは、2000年のことだった。クロントイの「イマヌエル教会」に赴任していたノルウェー人女性宣教師が、通りで遊んでいた地域の子どもたちにバイオリンを教え始めたのだ。まもなく音楽教室に発展し、2015年、その生徒と卒業生で構成されるイマヌエルオーケストラが設立された。今や70〜80人のメンバーが所属している音楽教室とオーケストラでは、スラムの子どもたちの自立と将来への希望をサポートするために、一貫して無償で音楽教育が行われている。

震えるような感動を覚えた

 そうやって芽を出し、少しずつ育っていったオーケストラは、2017年、ある日本人と運命的な出会いを果たす。タイに在住する音楽家の加古川成子さん(現・NPO法人シャイン・フォー・ユー理事長)が、彼らの演奏を聴いて深く心を動かされたのだ。

 加古川さんは1994年、結婚を機にタイに住み始め、2013年にはバンコクの自宅マンションで任意団体「サロン・オ・デュ・タン」をスタート。コンサートやワークショップ、講演会などのイベントを主催すると同時に、タイの音楽教育への支援や、教育団体への寄付活動などを行ってきた。加古川さんは当時をこう振り返る。

 「私が企画したコンサートにいらっしゃったフランス人の方が、ここを支援しているんだと言って、イマヌエルオーケストラのことを教えてくれたんです。それで演奏を聴きに行ったんですけど、本当に素晴らしくて……。曲はベートーヴェンの交響曲第5番『運命』で、冒頭の『ジャジャジャジャーン』というところを聴いた瞬間、震えるような感動を覚えたんですね。

 同時に、もしスラム出身のこの子たちが音楽に出会っていなかったら、どういう人生を歩んでいたんだろう、と思いました。ごみを拾って家計を助ける毎日だったかもしれない。ドラッグに染まっていたかもしれない。そんな子たちが名曲を演奏しているなんて………と。2017年のあの日のことは、決して忘れられません」

 ちなみに、その演奏会場には、かつて2000年にクロントイ・スラムで音楽教室を始めたノルウェー人宣教師も来ていた。加古川さんによると、自分からはあまり多くを語らず、質問されると頷きながら答えるような、物静かな印象の女性だったという。

約10万人が生活するクロントイ・スラムの風景 (c) シャイン・フォー・ユー

 加古川さんはイマヌエルオーケストラへの支援を決意する。さっそく翌年から実行に移し、まずはバイオリンなど弦楽器が足りないという声に応えて、娘さんや友人、知人、日本からの来訪者からそれらを譲り受け、オーケストラへ寄贈。やがてチャリティコンサートや、日本人演奏家を招いての共演コンサートも開催するようになった。あわせてスラム地区や、貧困問題を抱える地方への支援もスタートする。加古川さんは言う。

 「タイに長く住んでいるうちに、何か私たちはタイに住まわせてもらっている存在だと感じるようになったんですね。だから恩返しがしたいと思うようになって……。イマヌエルオーケストラと出会う前も、サロン・オ・デュ・タンの収益の中から教育活動への寄付などを続けていました。

 自分の子どもたちを学校に入れてみてわかったのですが、タイの学校では音楽教育がほとんど行われていないんです。大学の付属校や富裕層向けの学校などごく一部を除けば、音楽の授業も教科書もなく、学校にピアノもない。地方では、ほとんどの子どもがピアノやバイオリンなど見たこともありません。でも、そういう子たちにも音楽教育の機会が与えられるべきだと思い、地方の学校にピアノの寄付などをしていました」

本気でスラムを変えようとしている

 加古川さんは、イマヌエルオーケストラでもとりわけ指導者の姿勢に感銘を受けた。子どもたちに音楽を教えつつ、指揮者とコンサートマスターを務めていたヴァリン・アートヴィライさん(通称トンさん、31歳)である。

 トンさんは、自分でも9歳のときに、前述のノルウェー人宣教師からバイオリンを習ったことで音楽と出会い、やがてタイの音楽教育機関の最高峰とされる国立マヒドン大学音楽学部に進む。いわばイマヌエル音楽教室の最も初期の卒業生だ。現在まで、タイ・フィルハーモニック管弦楽団での活動などを含め国内外で演奏の実績を重ねつつ、精力的にイマヌエルオーケストラの指導を続けている。加古川さんは言う。

 「トンさんは、自分がスラム出身だということをまったく恥じていないんです。人を(スラムにある)自宅に案内することも全然厭わない。私など『自分がスラム出身だったら、外部の人を自宅に招待できるだろうか』と考えてしまうんですが……。

 彼はよく言うんです、『裕福に生まれるか貧しく生まれるかは選べないけれど、人生を切り開くことは自分で選べるし、そうすれば前に進んでいけるんだ』と。最近では『音楽でクロントイのスラムを変えたい』『クロントイを音楽家が生まれる街にしたい』といったことも語っています。そういう姿に、凄く心打たれるんですね。この人は本気でスラムを変えようとしているんだ、と」

 加古川さんの中で、支援するつもりで関わり始めたオーケストラとトンさんから、いつのまにか教えられているような感覚が生じていたという。

初めてクロントイ・スラムでバイオリンを教えたノルウェー人宣教師(右)と子ども時代のトンさん (c) シャイン・フォー・ユー

 そのトンさんは、宣教師に初めて会った子ども時代のことを、「最初は外国人が声をかけてきたので、ひょっとしてお小遣いかお菓子をくれるんじゃないかと思って付いて行ったんです」と笑いながら回想する。当初は、教えられたバイオリンもあまり真面目に練習していなかったというが、15歳のときに見た映画で、世の中にクラシック音楽の世界や演奏家が存在すること、音楽を専門的に学べる高校や大学があることを知り、その方向に進むことを決意する。志望の高校に不合格になるなど挫折も経験したものの、フィンランド人の先生の指導を受けて音楽の理論と実技で猛勉強を重ね、国立大学の名門音楽学部に合格したのだ。
 「音楽家になればいろいろな会場で演奏できる。いろいろな街や国に行ける。そう思う気持ちが勉強するモチベーションになりました。チャンスがあっても、一生懸命頑張らなければそれを掴めないということを学んだんです。音楽で僕の人生は変わりました」
 そう語るトンさんに「もし音楽と出会っていなかったら、今は何をしていたと思いますか?」と問うと、「わからないけど……バイクタクシーの運転手をしていたかもしれません」と答えてから続けた。
 「僕と同じように、オーケストラの子どもたちにも、人生が変わるということを経験してほしいんです。彼らが音楽を学んで良い方向に進めるようにリードしていきたい。そうすることで、スラムのコミュニティも良くなっていくと思うんです」

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