タイのシーフード産業で横行する搾取の実態
監禁、暴力、そして賃金未払いに苦しむ「海の奴隷」たち

  • 2024/2/8

 世界有数の水産大国として知られるタイ。しかし、そんなタイの漁船に労働を強いられている、「海の奴隷」と呼ばれる漁船労働者たちの存在が2015年頃、明るみになりました。その実態を伝えるドキュメンタリー映画『ゴースト・フリート 知られざるシーフード産業の闇』を2022年に日本で配給したユナイテッドピープルの関根健次さんが、タイのNGO「労働権利推進ネットワーク」(以下、LPN)代表のパティマ・タンプチャヤクルさん(48歳)とともに2024年1月、元漁船労働者たちを訪ねました。

タイ各地から運ばれてきた魚介類がところせましと並ぶ(2024年1月14日早朝、タラートタレータイ魚市場で筆者撮影)

救出した労働者は5000人以上

 バンコク市南西に位置するタラートタレータイ魚市場は、タイ最大級の魚市場だ。午前5時半ぐらいに行くと、誰もがその活気に圧倒されるだろう。通路の両側には各地から運ばれてきた魚介類がところせましと並べられ、歩く時は、魚をバケツいっぱいに詰め込んで足早にカートで運ぶ人とぶつからないように気を付けなければならない。この中に、「海の奴隷」たちが獲った魚介類はどれぐらいあるのだろう。市場の熱気に圧倒されながら、そんなことを考えた。

通路はカートに入れた魚を運ぶ人が行き交う(2024年1月14日早朝、タラートタレータイ魚市場で筆者撮影)

 映画『ゴースト・フリート 知られざるシーフード産業の闇』には、5年から7年、中には12年もの長きにわたり奴隷労働を強いられた元「海の奴隷」たちが登場する。主人公は、2004年にLPNを設立し、これまでに5000人以上の奴隷たちを救出した前出のパティマさんだ。

 筆者は今年1月、パティマさんと共に元漁船労働者を訪問する機会を得た。WWFジャパン海洋水産グループの滝本麻耶さんの誘いで実現した。タイに到着してまず訪れたのが、冒頭のタラートタレータイ魚市場だった。

市場は早朝から熱気にあふれていた(2024年1月14日早朝、タラートタレータイ魚市場で筆者撮影)

「生まれ変わって全てを忘れたい」

 魚市場を視察した後は、そのままバンコクから約300km南下したプラチワップ村という漁村に暮らすエイさん(39歳)を訪ねた。23歳の時に漁船労働者として働き始めて以来、いろいろな船に乗ったが、最後の5年間働いていた漁船で暴力を振るわれ、2023年10月に村に逃げ帰ってきた。逃亡する2年前、荷物を取りに船底に降りたエイさんは、硫黄のにおいがするガスを吸い込み昏睡状態に陥って以来、障害が残り、以前のように働けなくなった。そんなエイさんに船長は毎日、暴力を振るい、殴る蹴るにとどまらず、ナタや包丁で頭や顎、腕、そして背中を切り付けたという。

船長に暴力をふるわれ続けたエイさんの身体には、今も傷跡が残る (2024年1月14日、プラチワップ村で筆者撮影)

 当時は、20日間漁に出て、1日休むという生活だったが、エイさんは「仕事が遅い」と叱られては、罰として3日に1度しか食事を与えられなかったという。給料は、月に150バーツ(約600円)。たまに「菓子でも買ってこい」と小銭を渡されることもあったが、もちろん貯まるほどではなかった。過酷な仕打ちを受けていたエイさんを救ったのは、彼が「叔父さん」と呼んで慕っていた近所の男性だった。100kmもの道のりを歩いて姉の家にたどり着いたエイさんは、所持金をまったく持っていなかったという。

 「本人は記憶喪失だから」とう理由で、インタビューには、エイさんの世話をしている姉が答えてくれたが、一度だけ、エイさん自身が言葉を発した。「生まれ変わって全てを忘れたい」——。それを聞いた時、私は、エイさんが記憶喪失なのではなく、記憶を消したくてあえて口に出していないのではないかと感じた。想像を絶するトラウマを、彼は抱えているに違いない。

エイさん(右端)に聞き取りをするパティマさん(左端) (2024年1月14日、プラチワップ村で筆者撮影)

 そんなエイさんの経験を知ったパティマさんが考えたのは、海外メディアに報じてもらうことだった。地元のテレビ局が報じると、近所に住むブローカーに騒がれることは明らかだったため、海外に実態を伝え、外から変化を起こそうとしたのだ。

 エイさんには微々たる賃金が支払われていたとはいえ、実態は、ほぼ無償に等しい。パティマさんによれば、あくどいケースの場合、実際には賃金が支払われていないにも関わらず、漁船の所有者が当局に偽造した振込証明書を提出することも珍しくないという。「海の奴隷」たちは以前に比べれば減りつつあるものの、表面化していない問題が今も確かに存在する。

カンボジアから移住しても楽にならない生活

 翌日、バンコクから南東に車で3時間ほどのラヨーン県を訪ねた。カンボジア国境に近く、カンボジアからの移民35人が漁業をしながら暮らしている。この日、訪ねたお宅では、夫が漁に出ていて不在だったが、妻が代わりに話を聞かせてくれた。

カンボジアを出て、現在はタイのラヨーン県に暮らすカオさん(中央)にインタビューするパティマさん(左)(2024年1月15日、ラヨーン県で筆者撮影)

 18歳の時にカンボジアから移住してきたカオ・トンさんは、同じカンボジア移民のロエウン・リスさんと結婚し、4人の子どもに恵まれた。カンボジアを出たのは、生活が貧しかったからだと話す。父は米農家で、今も健在だが、母はすでに他界しているという。子どもは自分を入れて12人。

 父に会いに帰りたいが、生活は楽ではなく、余裕がないという。夫の月給は、漁獲高にもよるが、約1万バーツ(約4万円)。ここから家賃と光熱費として1,000バーツ(約4000円)が引かれる。2年前に夫が仕事中に足に怪我を負って入院した時、保険が切れており、全額自己負担となったため、借金して治療代に充てた。その返済が今も残っているという。 カオさんによれば、「船長との関係は良好」だというものの、パティマさんは、長年働いているにもかかわらず、月収がタイの最低賃金と変わらない水準であることに首を傾げ、値上げを交渉するようにアドバイスした。

カオさん夫婦が暮らす家。ブロック塀を積み上げた倉庫のような場所で、穴はコンクリートで補修されている箇所もあれば、紙か何かを詰め込んでふさいでいるところもある。大型の扇風機1台で暑さをしのいでいる(2024年1月15日、ラヨーン県で筆者撮影)

 最近、長男が父と同じ船で新米漁師として働き始めたが、船員手帳を取得するために、父の月給の3倍に相当する3万バーツ(約12万円)を借金したそうで、息子もいきなり負債を抱えての船出となったようだ。なお、後で聞いた話だが、こうした書類の作成にあたり、手続きを代行するブローカーが手数料として中抜きしているケースも多いという。

8歳の末娘、ジャリアちゃんと和やかに談笑するカオさん(2024年1月15日、ラヨーン県で筆者撮影)

 聞き取りの最中、カオさんの表情が、一瞬、明るくなった。末娘のジャリアちゃん(8歳)がどんな大人になってほしいかと尋ねた時のことだ。ジャリアちゃん本人に、「将来は何になりたいの?」と尋ねたカオさんは、「お医者さんになって両親を助けたいの」とジャリアちゃんが答えるのを聞いて、嬉しそうにパッと顔をほころばせた。

風通しの良いコミュニティー設計が貧困脱出のカギ

 その後、チョンブリー県チョン・サマエサン村にあるカンボジア移民コミュニティーも訪問した。ラヨーン県のコミュニティーより規模が大きい。100人ほどが軒を連ねて住む長屋の前は広場になっており、木陰には集会場もあって風通しが良い印象を受けた。

 ここでも、一人の女性に話を聞いた。オムさん(44歳)は、カンボジア北部のバッタンバン州の出身で、両親の暮らしを支えるために20年以上前にタイに移り住み、カンボジア人の漁師と結婚。3人の子どもに恵まれた。給料は、月に1万3000バーツ(約5万2000円)程度で、家賃は光熱費込みで2,000バーツ(約8000円)。長男はバンコクの高校を卒業して電気関係の仕事をしており、月に3000バーツ(約1万2000円)を仕送りしてくれるという。夫は20年間、同じ船で働いているが、船主は誠実で優しく、約束通りに給料も支払ってくれるため、何の問題も感じていないという。

生活に余裕があることがうかがえるオムさん(2024年1月16日、チョンブリー県で筆者撮影)

 実家は米農家で、オムさんは10人兄弟の8番目だ。最近、仲が良かったすぐ上の姉が亡くなり、2カ月ほどカンボジアに帰っていたという。タイに出てきたのは、オムさんを含め3人だが、2人はすぐにカンボジアに戻った。オムさんも「お金が貯まったらいつかカンボジアに帰りたい」と話すが、表情は明るく、生活が苦しい様子もない。通訳として同行してくれたLPNスタッフのメイさんが、「日本からの訪問者に質問はありませんか」と尋ねても、「ありません。話を聞いてくれて感謝します」と、答えた。その表情は自信に満ち、余裕すら感じられる。

チョン・サマエサン村のカンボジア人たちは、長屋の下で助け合いながら暮らしている (2024年1月16日、チョンブリー県で筆者撮影)

 生活が苦しそうなカオさんと、表情が明るいメイさんの違いはどこからくるのか。給料を見ると、金額は3割ほどしか違わないにも関わらず、2人の幸福感にはそれ以上の差があるようだ。一因として、コミュニティーにおけるコミュニケーションの違いが挙げられるのではないか。実際、オムさんに話を聞いている最中にも、一人の老婆が自然に話の輪に入ってきたため、祖母なのかと思ったが、近所のタイ人ということだった。カンボジア移民たちが共に長屋に暮らし、近所のタイ人とも交流があることで、「支え合って生きている」という安心感が生まれているのかもしれない。だとすれば、貧困脱出のカギを握るのは、お金や物資以上に、居住コミュニティーの在り方だと言えよう。

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