迫害の日々からドイツへ ― 再び希望を見出したロヒンギャの写真家
人権のない暮らしから写真で道を切り拓いた若者のストーリー
- 2021/5/30
難民を寛容に受け入れてきたドイツには、様々なバックグラウンドの人々がいる。2015年には、戦況が悪化したシリアから戦火を逃れて流入してきた人々から多くの難民申請が同国に寄せられ、約50万人が難民として認定された。そんなドイツで難民として暮らす人々の中に、世界で最も迫害されている人々とも言われる少数派イスラム教徒ロヒンギャの若者がいる。迫害を逃れ、ドイツまでやってきた同氏に、これまでの暮らしや、2021年2月1日のクーデター発生後のミャンマーへの思いについて聞いた。
権利が奪われ、弾圧されていたラカインでの暮らし
ドイツ西部のノルドライン・ウェストファーレン州のジーゲンという大学街の近くで暮らすアザド・モハマド氏(25)は、ミャンマー西部ラカイン州のブディタウンで生まれ育ち、2016年10月までラカイン州にいた。
少数派イスラム教徒ロヒンギャは、長年、ミャンマー国内で差別され、市民権を否定されてきた。多くの権利が奪われ、移動や職業選択の自由もなければ、適切な医療や教育も受けられず、食料も制限されていた。正当な理由がないまま拘束され、暴力を振るわれることも少なくなかった。
父親は昔、公務員として地域の管理に従事していたが、アザド氏が生まれる前にロヒンギャが公職につくことを禁止されたので、自分で事業を営んでいた。
母親の家族は、祖父母を含め、皆、ヤンゴンに住んでいたが、ロヒンギャがヤンゴンに行くことも許されていなかったため、祖父母にも会ったことはない。
アザド氏自身は高校まで地元で過ごし、2015年に高校の卒業試験に合格したが、ロヒンギャとして大学進学を許されなかったため、ロヒンギャの子どもたち向けに地域が運営する学校で教員として働いた。2012年以降、ロヒンギャの子どもたちはラカインの子どもたちと同じ学校に通うことが禁止されていた上、公立学校の教員もムスリムの村には行きたがらず、教育を受ける権利が奪われていた。そのため、コミュニティの人々が限られた資源を工面し、自分たちで非公式の学校を運営していたのだ。
そんなアザド氏が村を出る決心をしたのは、2016年10月のことだった。数人で金曜日の礼拝をしていた際、軍人の子どもたちがやって来て一方的に侮辱してきたのだ。それが「これ以上、ここにはいられない」と感じるきっかけになった。
実は、アサド氏の父と兄も、その数年前に村を離れていた。父親は2012年にいわれのない罪で逮捕され、3カ月にわたり拘束された。いったん解放されたが、翌年も再び罪を着せられ、逮捕されそうになったことからバングラデシュに逃れたという。後を追うように兄も故郷を出て、今はマレーシアで暮らしている。
「家族と離れるのは辛いですが、ロヒンギャに強いられた暮らしというのはそういうものです。留まるのが危険だったら、少しでも機会が得られる場所に逃れてできることに挑戦するしかないんです」
マウンドーから隣国バングラデシュを目指すことにしたアザド氏だったが、道のりは険しかった。ロヒンギャが移動する時に義務付けられている許可書は当然持っておらず、ブローカーに報酬を支払って国境越えの手配を依頼した。しかし、国境まで7カ所ほどあるチェックポイントの1つ目で軍に見つかり、手錠をかけられてしまった。
その場で待たされていたところに、地元ではよく知られた友人が運よく通りかかり、大金を支払って釈放してもらうと軍側と話をつけてくれた。「賄賂を払って物事を進める。そういうものでした」と、アザド氏は振り返る。釈放後は、その友人が車で国境まで送り届けてくれた。
バングラデシュに入国後、しばらくは知り合いの家に滞在していたが、ロヒンギャを差別するバングラデシュも安全とは言えなかったため、再度、ブローカーを頼ってインドに入国。難民申請して、1年ほど仕事をしながら過ごした。
当時、インドは難民を受け入れていたため、ロヒンギャも多く滞在していたが、ミャンマーでクーデターが発生して以降、幼い子どもを含め、彼らの多くが逮捕されたという。この背景には、ヒンドゥー至上主義の政策を取るモディ政権が、近年、反ムスリム政策を強めていることがある。「ロヒンギャは、ミャンマーを離れてもなお、迫害は続くのです」と、アザド氏は苦々しく語る。
難民キャンプで家族と再会
2017年8月、ミャンマー国軍がロヒンギャの村々を一斉に襲撃し、アザドさんの家族を含め、約70万人がラカインからバングラデシュに逃れた。アザド氏はインドを離れて家族と合流。バングラデシュの難民キャンプで一緒に生活するようになった。
「キャンプでは何もすることがありません。特に問題だと感じたのは、適切な教育機関がないことです。難民の子どもたちが学校教育を受けることをバングラデシュ政府が禁じていたため、学校が開設されていなかったのです。英語やビルマ語などの語学学習センターや宗教学校、子どものための空間はありましたが、子どもたちは4年以上にわたって学ぶ機会が奪われていました」と、アザド氏は振り返る。
国際機関が子どもたちの教育環境を改善しようとしても、受け入れるバングラデシュ政府が否定する以上、支援は難しい。
「子どもたちは学ぶ喜びを知らないまま大きくなっています。タイミングを逃せば、学ぶことに興味を示さなくなるうえ、後からも学べません。教養を身に付けられず、将来に希望も見出せなければ、ギャングになるしかありません。僕は夜間にこっそり教えていましたが、この問題はあまり省みられていませんでした」と、アザド氏は話す。
難民キャンプにいる間にロヒンギャの女性と結婚し、息子も生まれたが、ドイツには一人でしか来られず、家族はバングラデシュに残したままだ。
「キャンプを離れた時に生後5カ月だった息子は、今、1歳半になりました。離れているのは寂しいですが、無料通話アプリのWhatsAppなどを使って連絡を取り合っているので、絆は強いですよ」
キャンプ内には弱いながらもWiFiが飛んでおり、皆、安いスマホを入手し接続しているため連絡が取れるという。最近、いくつかのキャンプで大規模な火災が発生したが、幸いアザド氏の家族は別のキャンプに住んでおり、無事だという。
撮影で手にした無限の可能性
以前から興味のあった写真を撮り始めたのは、難民キャンプにいた時のことだ。
「YouTubeや有名な写真家のサイトを見て撮り方を覚え、写真を発表してみたところ、周囲から写真家として認知されるようになり、さまざまなチャンスに恵まれるようになりました。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)や国際移住機関(IOM)など国際機関とも関わるようになったのです」とアザド氏は語る。
さらに、難民キャンプを訪れる外国人写真家からもさまざまな技術を教えてもらった。まるでメンターのようにいろいろなことを教えてくれたポルトガル人写真家の勧めで写真集も作っていた。結局、その写真集は完成にはいたらなかったものの、アザド氏は広大なキャンプ内を撮影して回りながらキャンプ内の見聞やネットワークを広げ、ロヒンギャの暮らしを撮るイニシアチブ「Rohingyatography」を立ち上げるなど、活動の幅を広げていった。撮りためた作品は、香港を拠点にしたオンラインメディア「Asia Times」などでも発表したという。
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2020年2月、転機が訪れた。UNHCRから、スイス・ジュネーブで3月初頭に開催されるカンファレンスへの参加を打診されたのだ。難民キャンプで芸術活動に取り組んでいる若者を招待するという話で、これまで撮影した写真も展示してくれるということだった。願ってもいないオファーだった。この機会にスイスで難民申請をしたいとヨーロッパ出身の知人たちに相談し、手順を聞いて出発した。
3月3日、ジュネーブにある国連欧州本部のパレ・デ・ナシオンにアザド氏が撮影したロヒンギャの写真が展示された。また、アザド氏自身、ロヒンギャとして思いを語ることもできた。「ちょうど新型コロナウイルスの感染が拡大し始めた頃で、出発地のダッカ空港ではフライトがいくつもキャンセルされていました。予定通りジュネーブに飛び、このような機会が得られたのは、今から思えば本当にラッキーでした」
しかし、肝心の難民申請はスイスでは難しいことが分かったため、隣国ドイツに移動して申請することにした。コロナの影響で審査手続きに時間がかかり、あちこちの難民受け入れ施設を転々としつつ、ソマリアやウガンダ、中東などから来た難民申請者たちと共同生活しながら9カ月ほど過ごした。ようやく難民申請が受理されたのは同年12月のことだった。
「待っている間は、認定が認められなければ人生が終わるという不安でいっぱいでした。認定されて本当に良かった。ここでは自由に発言できるし、何より、将来がある。今は希望でいっぱいです」と、アザド氏は嬉しそうだ。現在は、ドイツ政府の支援を受けつつ一人暮らしをしている。昼間はドイツ語を学び、夕方は近くのアジア料理屋で働く忙しい毎日だが、充実している。
「ドイツ語の勉強が終わったら写真を勉強し直して、写真の仕事に就きたいです。5年ほど経てば妻と息子を呼び寄せられるので、それまでに自立して生活を確立しなければなりません。やることはたくさんあります」
難民キャンプで撮った写真も、ドイツに来て以来、貧困と不正の根絶に取り組むオックスファム・インターナショナル(Oxfam)が主催するロヒンギャアートのコンテストに選ばれたり、写真集に採用されたりするなど、着実にチャンスをつかんでいる。
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