獄中の映画監督の叫び【ミャンマー・クーデター現地ルポ7】
国軍のプロパガンダ「許さない」
- 2021/7/23
一人っきりの独房から、わずか15分間の散歩が許されて外に出ると、大きな声が聞こえた。よく見ると、別の独房の小さなのぞき穴の向こうに人影が見える。「ルミンだよ。僕は大丈夫だ。何か必要なことがあったら声をかけてくれ」と、確かに聞こえた。あのルミン監督に違いない。ミャンマーを代表する大監督が自分を覚えてくれていて、気遣ってくれたことに感動した。どうやって感謝を伝えようかと思い、とっさに手を合わせるポーズをとり、「サンキュー」と叫んでいた。そして、看守とわざと大きな声を出して話して、ルミン監督らに自分のことが伝わるようにした。15分が過ぎて独房に戻った筆者は、思わずベッドに突っ伏した。
芸能人のデモを率いて逮捕
俳優としても人気の高いルミン監督は、ミャンマー映画協会の会長も務めた業界の大御所だ。2月1日のクーデターが起きると、街頭に出て不服従運動への参加を訴えるデモ行進に参加した。想いを同じくする芸能人らを率いて座り込みを行うなどして、各地で市民を鼓舞していった。当局の銃撃によってデモ隊に犠牲者が出ると、動画を配信して「怒りをコントロールしよう」と非暴力の抵抗を続けることを訴えた。そして、2月20日に逮捕されてしまったのだ。
筆者は、ルミン監督が制作していた歴史映画「アウンサン・ザ・ムービー」に出演したことがある。日本軍の将校の役で、アウンサン将軍らの前で英語でスピーチする場面だった。
この映画は、アウンサンスーチー氏らが野党時代から制作を目指していたもので、2016年の国民民主連盟(NLD)政権誕生以降にプロジェクトが本格化した。2020年の公開を目指していたものだ。しかし、新型コロナウイルスの蔓延などで制作が遅れ、クーデター発生時には撮影が終わった段階だった。ルミン監督の下で編集を進めていたところで政変が発生し、ルミン監督が捕まってしまったのだ。そして国軍側は5月、新たな制作委員会を組織して、編集を進めることを発表した。
獄中でルミン監督には、この映画に関して様々な提案がなされていたようだ。ルミン監督抜きで国軍側が制作を進めようとしていることに対して、ルミン監督は「絶対に許さない」と話していた。自分が関与できないだけでなく、軍の好きなように編集され、プロパガンダに使われてしまうことを恐れたのだ。「これはアートなんだ」と話し、作品へのこだわりを捨てなかった。
監獄でも男前のベテラン俳優
ルミン監督は刑務所で、筆者によくしてくれた。家族からの差し入れなのだろう、ドーナツの半個分が看守を通じて届いたこともあった。おそらく、同じ獄舎にいた約10人に配っていたのだろう。
ルミン監督は毎日、獄舎の前のわずかなスペースでランニングをしていた。灼熱のヤンゴンで、通路に影ができる時間に走るのだ。上半身裸で、しかしミャンマーでは珍しい本格的なランニングシューズを着用していた。筋肉質のその体は、50歳代とは思えないほど鍛えられていた。銀髪と顔一面のひげを伸ばしたその風貌は、ベテラン映画俳優独特のオーラに包まれていた。彼は同じ獄舎にいた政治犯らを「家族」と呼んだ。彼も多くの政治犯と同様に、刑務所に連行される前に軍の尋問施設に収容されていた。食事を与えずに数日間の尋問をするなどの拷問を受けていたと聞いた。
また、ルミン監督とともに、アウンサン・ザ・ムービーの制作委員会の委員長を務めていたアウンコー宗教文化大臣もクーデター以降に逮捕され、筆者らと同じ監獄に収容されていた。彼はもともとミャンマー国軍の将軍だった。しかし、スーチー政権下で閣僚として働いたことで、国軍側からは「裏切者」とみなされたようだった。
このほか、インセイン刑務所には、多くの映画関係者が収容されていた。健康に問題があるとされる若手俳優のパインタコンさんも、インセイン刑務所で筆者と簡単に会話を交わした。彼は筆者のようにVIP扱いはされておらず、一般の政治犯と同じ大部屋に収容されていた。体の具合を尋ねると「大丈夫だ」と答えた。在日ミャンマー人の映像作家にも会っている。また、筆者は出会っていないものの、友人の人権派映画監督のミンティンココジーさんも同時期に収監されていたはずだ。ミャンマーアカデミー賞を2度受賞しているエインドラ・チョージンさんも逮捕されているし、女性プロデューサーのマエインさんも、軍の尋問施設で拷問を受けたのちに同刑務所に収監されたと聞いた。
ミャンマーの映画界は、軍政時代の厳しい検閲から徐々に解放されて、自由に作品が作れるという情熱に包まれていた。その矢先のクーデターが起こり弾圧にさらされたため、その怒りは激しい。一刻も早く、民主主義に戻り、映画人たちが再び自由に作品をつくることのできる日が来ることを願ってやまない。