「環境大国」ドイツの鉄道の課題と国民の不安
気候変動とインフレの時代に「9ユーロ乗り放題チケット」が露呈した問題

  • 2022/8/31

 ロシアによるウクライナ侵攻以降、世界の食糧や燃料価格が高騰している。戦争前までロシアのガスに依存していたドイツでもその影響は大きく、急速なインフレが進行している。困窮する家計の負担緩和のために政府も施策を打ち出した。なかでも注目を集めたのが、この夏販売された、格安で公共交通機関に乗ることができる「9ユーロチケット」だ。一躍人気を集めたこのチケットは、意図せずしてドイツ社会の問題を露呈することになった。

市民生活を直撃する燃料価格の急騰

 世界中で急速なインフレが進行している。欧米では、パンデミック対策の影響で2021年から徐々に物価が高騰していたが、ロシアがウクライナに侵攻後は急速に悪化し、欧州委員会によると2022年7月のインフレ率は8.9%をとなった。

 しかし、ドイツにおける生活必需品の物価上昇は、それどころではない。一般家 庭の食事には欠かせない乳製品も、軒並み高騰している。以前は1リットル1ユーロ(約138円)だったオーガニック牛乳は50%も値上がりし、現在は1.5ユーロ(約207円)もする。他の食品の価格も、似たようなものだ。

 それ以上に値上げ幅が著しいのが、天然ガスや石油などの燃料関連だ。電気代やガス代も、軒並み上昇している。欧州33都市の電気・ガス料金ランキングを毎月公表している「ハウスホールド・エナジー・プライス・インデックス」(家庭用エネルギー価格指数)によれば、ヨーロッパでは昨年比で電力価格が平均42%、ガス価格は83%上昇したという。

インフレが急速に進むなか、もっとも高騰しているのは燃料費だ (c) Pixabay / Pexels

 7月26日にはロシアからドイツへの天然ガス供給量が、以前の20%にまで削減されたため、価格はさらに高騰した。ウクライナ侵攻前は国内で消費する天然ガスの55%をロシアから輸入していたドイツは、戦争の勃発後、輸入元の多角化を進めてきた。それでも使えるガスの量は例年に比べると依然として少なく、節約しなければこの冬にガスが不足する可能性がある。

 そんな危機的な状況のなか、2022年10月以降、ガス料金が一気に約3倍に引き上げられることが7月末に発表された。ドイツでは全世帯の約半数でガスを用いて暖を取っており、今後、冬にかけて使用量は一気に増える。平均的な4人家族の場合、1年間で1万8,000キロワットのガスを消費すると言われており、2021年冬からの1年間で1,080ユーロ(約15万円)だったその価格は、2022年冬からの1年間で3,240ユーロ(約45万円)にもなると見込まれる。これでは支払えない世帯も急増すると思われるが、背景には、価格の大幅な上昇によって人々に節約を促したい政府の意向もあるようだ。

 その一方で、自動車産業などの製造業が集中している南ドイツは、ガス発電への依存がより高いため、ガス不足によって産業が壊滅的な打撃を受ける可能性があると指摘される。ドイツ経済が失速すると、EU経済全体に大きな悪影響を及ぼすことになり、ウクライナでの戦争を支援する余裕もなくなるだろう。

 現在、政府は省エネを国民に呼びかけ、政府機関も節約のための計画を次々と発表している。冬季の暖房の設定温度を下げ、市民用屋内プールの運営を取りやめるなどの地道な取り組みだ。各地の名所の夜間ライトアップも停止され、有名なケルンの大聖堂も暗くなった。

 メディアでも、連日、インフレの状況と市民の苦しい家計状況、省エネの方法が取り上げられている。周囲との日常会話でも、インフレと寒い冬をどう乗り切るかが頻繁に話題の上るほどだ。本当に多くの人々が不安を抱えている。企業側も、従業員の給与を数%程度は引き上げているところが少なくないが、価格上昇には追い付いていない。

注目を集めた公共交通の割引プラン

 このような急速なインフレを受け、政府は、低所得世帯への現金支給など、複数の支援策を打ち出してきた。なかでも注目を浴びたのは、人々が行楽に出かける夏の間に交通費を補助する取り組みだ。

 一時期は倍程度にまで高騰したガソリンについては、6月から3カ月間、税率が下げられて価格が抑えられた。そうした対策がとられなかった隣国オランダのガソリン代は、ドイツのそれより50%程度高くなり、国境沿いではオランダから給油しに来る人たちが長蛇の列をつくったと聞く。

 また、さらに斬新な取り組みとして話題になったのが、6月から3カ月間限定で発行された「9ユーロチケット」だ。これは、9ユーロ(約1,240円)のカードを購入すれば、1カ月間、長距離高速鉄道を除くドイツ国内のすべての公共交通機関が乗り放題になるというものだ。同様の機能がある1日券は通常42ユーロ(約5,815円)、各都市内公共交通の1カ月乗り放題定期券なども通常50ユーロ(約6,922円)近くするので、かなりの割安感があった。この施策は気候変動対策にもつながると期待され、連邦政府は25億ユーロ(約3,450億円)を費やした。

ケルン中央駅付近を通る、中心部とその近郊をつなぐ中距離列車S Bahn Photo: Andrew Bonne/ Wikimedia Commons

 6月の1カ月間だけで約2100万枚のチケットが販売された。ドイツの総人口は約9000万人であるため、4人に1人が購入したことになる。しかし、皮肉なことに、この人気がかえってドイツの鉄道が抱える問題を露呈することになった。鉄道利用者が増えたことで、都市間をつなぐ鉄道が混雑し、各地で大幅な遅延が頻発したのだ。筆者もこのチケットを活用して外出したが、特に人々の移動が多い週末には、頻繁に1〜2時間の遅れを強いられた。途中で乗り換えが必要な場合、先の電車が遅れれば、後続の公共交通機関に乗れなくなる。予定より1時間遅れの電車が来るのを待たされると、予定も大きく狂った。

立ち遅れた近代化

 鉄道運営会社のドイチェ・バンによると、2022年6月に「遅延5分以内」で目的地に到着した電車の割合は、全国で87.7%、長距離電車だけ見るとわずか58%にとどまるという。どこで電車が遅れるのか予測しにくいため、時間に余裕がない場合、長距離移動に電車を使うのはリスクが高く、自家用車を使わざるを得ない人も少なくない。欧州には複数国を走行する鉄道も多いが、ドイツ国内の遅延によって近隣国の運行に遅れが出るというのも、よく聞く話だ。

 1995年頃、ドイツの電車は定刻通りに動いていたそうだ。その時代から比べると、現在は交通量が大きく増加した。貨物列車は当時の80%以上、旅客列車の通行も40%増えた。それでも、鉄道網への投資は限られ、交通量の増加に見合うようにインフラが充分にアップグレードされなかったようだ。

 例えば、ドイツの高速鉄道は専用線路を持たず、一般列車と同じレールを走行する。それゆえ、本来は300kmの速度で走行できるにも関わらず、最大200km程度でしか走れていない。さらに、速度が大きく異なる列車を同じ線路で走らせるために、非常に複雑な時間調整が求められ、わずかな遅延によって、前後の電車にも影響を及ぼしかねない。

ドイツの高速鉄道ICE Photo: Johannes Maximilian/ Wikimedia Commons

 フォルカー・ヴィシッヒ連邦運輸大臣は、独誌「シュピーゲル」の取材に対し、鉄道の遅延が多い一因として、線路の信号の不備を指摘する。現在、さまざまな路線で部分的な改良工事が行われているが、その現場付近を通過する際、反対方向の線路に信号が備わっていないために、列車は大きく減速し、対向列車に配慮しなければならない。その一方で、隣国オーストリアでは、こうした問題は2008年にはすでに解消されていたという。

 近年、鉄道整備のための予算がドイツでも増額され、鉄道推進団体の「アリアンス・プロ・シーネ」によれば、数年前までは2桁台だった人口一人あたりの年間鉄道整備費が、2021年に124ユーロ(約1万7,100円)となった。とはいえ、隣国オーストリアは2021年に271ユーロ(約3万7,400円)、スイスでは413ユーロ(約5万7,000円)であり、ドイツは、鉄道インフラの整備が遅れている上、まだまだ投資額も足りていないことが分かる。

 ドイツでは、2024年には大規模な改良工事が行われる予定だが、完工までには長い時間と費用を要する。労働者も不足している中、この遅れがいつになれば取り戻せるのか、定かではない。

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