タイのスラムが生んだ「奇跡のオーケストラ」の物語(後編)
日本のステージで輝く音を出した子どもたちの、大きな夢
- 2023/12/9
選ばれなかった子どもたち
加古川さんたちの苦労が実ってイマヌエルオーケストラの日本公演が実現することに決まったものの、日本行きのメンバーを決めるのは簡単ではない作業だった。
特に優秀なアドバンストコースから、13歳から18歳の子を13人選び、それに3人の先生とトンさんを合わせて演奏者の合計が17人という布陣になったが、演奏がうまいにもかかわらず選ばれない子たちもいた。本当は彼らも日本に連れていきたいのだが、予算が限られているため、それはできない。
「演奏が上手な子に1人、他国から逃れてきて、タイで難民として認定された子がいました。やはりクロントイ・スラムに住んでいるのですが、タイで難民認定された人がいったん出国したら、再びタイに戻ることはできないんです。それで残念ながら、今回は連れてくることができませんでした」(加古川さん)
そのケースも含め、選抜役となったトンさんに苦労や葛藤が多かったであろうことは想像に難くない。
幼少期をタイで過ごした日本人女性音楽家たちによる「タンブンプロジェクト」が、日本公演で共演することも決まった。もともと同プロジェクトは以前から加古川さんやトンさんと交流を持ち、イマヌエルオーケストラとは2018年からクロントイ・スラムでの演奏会やイベントなどを共に行ってきた。ヴォーカルを担当するシンガーソングライターの新妻由佳子さんも「このオーケストラをいつか日本に連れて行くことが夢だった」と語っている。
音楽監督はチェリストの中川幸尚さんが務めることになった。中川さんは2003年から18年までタイの王立バンコク交響楽団に所属しており、現在は、コンサート開催地のひとつである熊本に在住。今回の熊本公演では、イマヌエルオーケストラと地元のさまざまな団体・関係者との仲介などに尽力した。ちなみに加古川さんも熊本の出身だ。
やっと日本でコンサートができた!
オーケストラの子どもたちは、当初は日本公演と聞かされても特に表立って反応は示さなかったという。皆、概ねシャイだったせいもある。
しかし、“その日”が近づくにつれて心が高揚していったのか、出発1週間前の壮行会で一人一人が挨拶した際には、「日本に行くのが凄く楽しみ」「もう興奮しまくっている」「日本の子どもたちとの交流会が面白そう」などと興奮気味の声が次々と上がった。実際、日本では地元の子どもたちとの合同演奏や交流会、中学や高校の訪問、東京藝術大学訪問、ホームステイなどの予定が組まれ、コンサート以外にも親睦のためのさまざまな時間が設けられることになっていた。
こうして期待に胸を躍らせた子どもたちは、加古川さんとトンさんに率いられて10月12日、北海道の新千歳空港に到着し、日本の土を踏んだ。加古川さんはこう話す。
「10月15日が音更町での公演だったんですけど、この日の子どもたちの演奏を聴いたときは、涙なしでは語れないほど凄く感動しましたね。皆、本当に頑張ってくれて、『やっと日本でコンサートができる日が来たんだ』という思いで……。
実は最初、『大丈夫かな』とちょっと心配していたんです。北海道に着いてからあまり練習時間が取れなくて、当日も30分くらいしか音合わせができなかったもので。でも、子どもたちがステージに上がって最初の一音を出した瞬間、『大丈夫だ!』と確信しましたね。会場に来られた方々も『凄いね』と囁き合って、感動しているのが伝わってきました。良い音、柔らかい音、本当に輝いているサウンドを出してくれました」
皆が楽しみにしていた地元の子どもたちとの交流会も盛り上がった。一緒に輪になってトンさんが考えてきたゲームに興じたり、写真を撮ったり、LINEを交換したりしてすっかり仲良くなり、「ここから離れたくない」と言い出す子も現れた。最後には、オーケストラのメンバーを乗せて去るバスを、音更町の子どもたちが大通りまで走って追いかけ、互いに手を振って別れを惜しんだという。
自分の言葉で思いを語れる子どもたち
そんな風に年齢相応のあどけなさを残す一方で、オーケストラの子どもたちには、落ち着いて大人びた一面があるのが感じられる。実際に話しても、おそらく同年齢の平均的な少年少女と比べて、おしなべて成熟しているように思われた。
たとえば、バイオリン担当の15歳、高校1年の女性・ジェンさんに「音楽の魅力は何だと思いますか?」と尋ねると、
「一つ一つの音はシンプルだけど、数多くの組み合わせ方があり、その組み合わせ次第でまったく違う美しさが生まれるところが、音楽の素晴らしさだと思います。オーケストラの活動で、友達との連帯感が生まれることや、自分にとっても達成感があることも嬉しいです」
としっかりした答えが返ってきた。将来の進路についてはこう語った。
「大学では理系の学部に進みたいです。就きたい仕事の具体的なイメージはまだありませんが、勉強した理系の分野の専門性を生かして働きたい。音楽は良い趣味として続けるつもりです」
一方、13歳で中学2年の男性・カオタンさんは「将来はプロのバイオリニストになりたい。いろいろな凄い音楽家たちと共演したいです」と夢を膨らませる。
「今までイマヌエルで演奏してきたおかげで、多くの良い音楽を知ることができて満足しています。音楽の大きな魅力は、自分の気持ちを、音を通じて聴いている人に伝えられるところだと思います。日本に来て、ずっと興味があった日本の文化や料理に接することができてよかった。日本料理がおいしいことがよくわかりました」
子どもたちがこのように、借り物でない言葉で意見や思いをきちんと語れるのは、スラムの厳しい環境の中、自ら進んで意欲的に音楽を学んでいることと無縁ではないだろう。トンさんによると、自分がかつて教えた富裕層の子弟は概ね音楽を“親に習わされて”おり、教えたことを次回のレッスンまでにきちんと練習してくる子は決して多くない。しかし、イマヌエルオーケストラの子どもたちは、学校の授業が終わった後、音楽をやりたいという自分の意志で学びに来ているので、積極的にトンさんの教えを聞き、練習熱心で進歩が早い。