米国の最高裁で「中絶の権利」が否決
望まれない妊娠や女性の権利と保守化の波

  • 2022/7/25

 米連邦最高裁判所は6月24日、「人工妊娠中絶は憲法で保障された権利である」と認定した1973年の「ロー対ウェイド判決」を覆した。連邦レベルの「権利」は否定され、合法の是非は各州議会の立法に委ねられることになったため、すでに中絶が禁止された州もある。だが、判決の影響は米国内にとどまらない。米国は良きにつけ悪しきにつけ、世界中の社会政策のトレンドをリードする存在であるため、アジアやアフリカなどの中絶規制が、この先、強化される可能性があるのだ。少子高齢化や人口減などで悩む先進国や中進国と同じ轍を踏みたくない途上国の一部の政治勢力の意図と併せ、米国の動きが各国にどう影響するのか分析する。

米国で、憲法上の中絶の権利が否定され、世界中への社会的・政治的な影響が予想される。 写真は、権利擁護のデモをする女性たち。(c)Pexels

リベラルなベトナムで沸き起こった議論

 世界の情勢を見る前に、まず、わが国における中絶の扱いのポイントを押さえておきたい。日本では、中絶は「権利」ではないものの、容認されている。刑法に堕胎罪が存在するが、有資格医師により手術が施行される場合に限り、母体保護法の規定が違法性を阻却する。
 つまり、胎児の生命や尊厳を法律で保護する立場を貫きながらも堕胎を罰しないことで多くの女性を救済する「グレーゾーン」、あるいは「落としどころ」の知恵が設けられているのだ。手術ができる時期は、妊娠22週未満と定められている。12週を超えて中期中絶手術を行った場合には、死産の届出が必要になることもあるため、11週目までに手術を受ける女性が多い。現状に異論を唱える大きな政治勢力は見られず、日本では、社会的に中絶が広く受容されていると言えよう。
 他方、アジアの他の国に目を向けると、ベトナムでは「公衆衛生保護法」によって妊娠22週未満の中絶が容認されており、日本と似た状況にある。米ジョージタウン大学の研究者であるレ・ドン・ハイ・ヌエン氏によれば、こうしたリベラルな方針は同国の社会主義的な政策観に影響を受けているという。

米国の判決はベトナムの大手ニュースサイトでも関心を集め、130件近いコメントがついた(c) VnExpress

 しかし、そんなベトナムでも、このほど米国で「中絶の権利は存在しない」という判決が下されたことを受けてネット上で激論が巻き起こったとヌエン氏は指摘する。ベトナムでは妊娠が判明すると40%が中絶されると言われているが、同国には日本の「水子供養」に似た思想もあり、大手ニュースサイトVnExpressなどのコメント欄では米国の判決を支持して安易な中絶に反対するネット民の書き込みが相次いだというのだ。

 興味深いのは、1970年代から80年代にベトナムを脱出した難民の子や孫の世代の多くが、米国で保守的な思想を受け入れて反中絶の立場を打ち出しているうえ、そうしたベトナム系米国人が挙げる中絶反対の声が、ベトナム本国の世論にも一定の影響を及ぼしているという分析だ。

 さらに、ベトナムは、今日の高齢化をもたらしたお隣の中国の一人っ子政策の失敗をつぶさに観察してきた。同国では2019年現在の合計特殊出生率が2.09と人口置換水準を上回っており、羨ましい状況にあるが、それでも高齢化は深刻な問題だと世界銀行は指摘している。

世界人口が80億人に達する中、多くの国では少子高齢化が進み、中絶の意義が問い直されている。(c) United Nations Population Fund

 そのためベトナム政府は、公務員が3人目の子どもをもうけることを禁止していた規定を2020年に緩和するなど、多産を奨励し始めた。さらにヌエン氏は、現在は事実上野放しになっている妊娠22週以上の中絶が取り締まりの対象になると予測する。こうした文脈において、米連邦最高裁の判決は微妙な形でベトナムの中絶政策に影響してゆくことが予想されるのである。

 近隣のASEAN諸国に目を転じると、フィリピンやラオスでは中絶が禁止されており、インドネシアやマレーシア、タイでは、母体の命が危険にさらされた場合に限って認められている。

 しかし、インドネシアでも、米国での判決を受けて、政府が「中絶は人権の一部として認められていない」と主張し始めるのではないかと、中絶支援団体Ipasインドネシア代表のマルシア・ソウモキル氏は懸念する。

 実際、バングラデシュでは米連邦最高裁の判決が報じられると同時に、反中絶を訴える政治グループが活発化し始めたほか、インドでも似たような動きが見られるという。

「性と生殖の権利」への資金支援も先細りか

 他方、アルゼンチンやコロンビア、メキシコなど、ラテンアメリカ諸国の多くは、近年、カトリック諸国における左傾化の波に乗って中絶が合法化されていた。これらの国々では中絶の自由化がすでに定着しており、今回の米国の判決を受けて逆戻りすることはないと見られる。

 しかし、前出の中絶支援団体Ipasの法律顧問であるベサニー・バンカンペン・サラビア氏は、「米国は世界の性や生殖に関する家族計画に対して並外れて大きい影響力を有していると同時に、これらの分野において途上国を支援している最大の資金提供国でもある」と指摘した上で、「今回の判決を受け、女性が避妊や中絶を自己決定できる『性と生殖の権利』に対する米国の資金援助が先細りになる恐れがある」と、警戒する。

 米国は、世界40カ国の家族計画プログラムに対して年間6億ドル(約827億8890万円)規模の資金援助を行っており、2720万人(あるいは組)の女性や夫婦に避妊サービスへのアクセスを確保しているが、この支援が影響を受ける恐れがあるというのだ。

 連邦最高裁の判決が下された後の6月24日、ブリンケン米国務長官は「性と生殖の権利の向上や普及に対しては、国務省として今後も世界各国で引き続き取り組んでいく」と、異例の声明を発表した。しかし、この分野の援助のあり方について、米議会の共和党勢力から今後、さらなる制約がかかる可能性は拭えない。

中絶の問題は、女性の権利や人口の問題と表裏一体だ。(c) United Nations Population Fund

 現在においても、米国が拠出した援助資金が海外の中絶のために使われることはない。なぜなら、米国では1973年以来、「ヘルムズ修正案」と呼ばれる法律によって、米国人が納めた税金が海外の中絶に資金提供されないよう定められているためだ。

 これに加え、1984年に当時のレーガン大統領(共和党)が最初に発令した「グローバル・ギャグ・ルール(口封じの世界ルール)」とも呼ばれる大統領令では、米国が資金提供した非政府組織(NGO)が家族計画や性と生殖の権利の向上のプログラムの一貫として中絶を行ったり、助言したりすることも明確に禁じた。

 これは、メキシコシティで1984年に開催された国際人口会議に因んで「メキシコシティ政策」とも呼ばれており、その後、今日にいたるまで共和と民主、どちらの政党が政権の座にあるかによって、都度、取り消されたり元に戻されたりしている。

 例えば、民主党のクリントン氏が大統領に就任するとメキシコシティ政策を廃止したが、共和党のブッシュ氏が大統領に就任するとこれを復活。その後、民主党のオバマ氏が大統領に就任すると政策を再び廃止したが、共和党のトランプ氏が大統領に就くとこれを再び導入した上、内容を強化(米国以外の援助資金であっても、中絶に関与しているあらゆる海外NGOに対する米国の資金拠出は全面禁止)したものの、民主党のバイデン現大統領が再びこれを撤廃したといった具合だ。

 つまり今回の判決は、メキシコシティ政策を廃止したバイデン政権にとって、海外への間接的な中絶支援さえ連邦レベルで実施しにくくなることを意味していると言える。今後、米国以外のドナーから資金援助を受けて中絶支援を行っている国外NGOに対する米国の支援の是非が米議会で議論されたり、裁判で争われたりすることも容易に予測される。

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