ミャンマーで国軍が与党・国民民主同盟(NLD)を率いるアウンサンスーチー氏らを拘束し、「軍が国家の全権を掌握した」と宣言してから3年以上が経過しました。この間、クーデターの動きを予測できなかった反省から、30年にわたり撮りためてきた約17万枚の写真と向き合い、「見えていなかったもの」や外国人取材者としての役割を自問し続けたフォトジャーナリストの宇田有三さんが、記録された人々の営みや街の姿からミャンマーの社会を思考する新たな挑戦を始めました。時空間を超えて歴史をひも解く連載の第16話です。
⑯<葬儀・お墓>
ビルマ(ミャンマー)に関わるようになって驚いたことの一つは、9割を占める上座部仏教を信仰するミャンマー人には、基本的にお墓がないことである。
大乗仏教の日本と上座部仏教のミャンマーでは、根本的に信仰のあり方が異なり、死者に対する慰霊の感情も相通じない。現代ミャンマーの一般的な葬儀は、人は死ぬと火葬され、遺灰はそのまま火葬場にて処理(水に流)される。遺族が遺骨を持ち帰るということもない。亡くなった人の位牌も仏壇もない。極端な話、死ねば終わりである。もちろん肉親や親しい知人を亡くしたという喪失感の悲しみはある。だがその死は、祈りや信仰とはならない。もっとも、偉人や著名人などを祀ったお墓や廟はあるが、それは例外である。
「善いお爺さんお婆さんが亡くなると、一族の者は悲しむが、また悦びもする。彼等は昔馴染みの友達を失つたことで悲しみはするが、又かうも云うのである。『お爺さんは御生前澤山善い事をなさつたし、正しい立派な方だつたから、きつと來世ではお仕合わせに違ひない。』・・・・・・これに反し、小さい子供が死んだ時は、もつとずつと悲しむ。・・・・・・。
夫婦や兄弟姉妹などに死別した時は、本當に悲しむし、友達の亡くなつた時も、その死を悲しむが、死別當初の悲しみを通り越すと、多くは、その死亡を哲学的な心で受け入れていく。」(牧野巽/佐藤利子編『シャン民俗誌』、生活社、1944年、pp.114-115)

町外れの幹線道路をバイクで走っていると、大きな煙突が目に入った。ビルマ(ミャンマー)語が読めない私でも、ここは火葬場なんだと簡単に気付いた。(モン州・モーラミャイン~タンビュザヤ間、2019年)(c) 筆者撮影

バゴー地域ピィの下町をぶらついていたら、偶然、大音量で経文(だろうか?)を流す葬儀の列に遭遇した。亡くなったのは、僧侶か、あるいは一般の人か。現地で人の死に出会うたびに、ビルマ(ミャンマー)社会における死生観を考える際は上座部仏教の輪廻転生に関する議論を今一度考える必要があるのだなと感じる。(c) 筆者撮影

中国系の故人の葬儀に遭遇した。(マンダレー市内、2011年)(c) 筆者撮影

立派な霊柩車を先頭に葬儀の車列が続く。(ザガイン市内、2018年)(c) 筆者撮影

亡骸をモスクに運ぶロヒンギャ・ムスリムたち。(バングラデシュ・コックスバザール郊外、クトゥパロン非公式難民キャンプ、2010年)(c) 筆者撮影

ビルマ(ミャンマー)軍に対して武装抵抗闘争を続けていたカレン民族同盟(KNU)の伝説的なボーミャ議長の葬儀が、軍政側からの参列者も含めて大々的に営まれた。先頭で十字架を担いでいるのは、息子のナダミャ氏。(カレン州、2016年)(c) 筆者撮影

ラカイン州シットウェー市内を散策しながら、何気なしに写真を撮っていたら、ある一軒家の前で声をかけられた。
「どうぞ、食事をして行ってください」
全く見知らぬ人に葬儀に参加してくださいということか。
「いえ、私は単なる観光客なので、このようなところにおじゃまはできません」
「いえいえ、大丈夫です。ぜひ、食べていってください」
「それじゃあ、おじゃまします。ところで、写真を撮ってもいいのですか」
「はい、大丈夫ですよ」(c) 筆者撮影

反軍政の急先鋒の一人でもあったターマニャ僧正の遺体が廟に祀られた。敬虔な仏教の信徒たちが廟を訪れ、手を合わしていた。遺体はその後、何者かによって盗まれた。(カレン州、2006年)(c) 筆者撮影

国民民主連盟(NLD)の共同創設者の一人で、筋金入りのジャーナリスト兼政治家であったウー・ウィンティンが亡くなった。彼の最後の姿を目に収めようと、アウンサンスーチー氏やウー・ティンウーをはじめ、ミンコーナイン氏ら民主化活動家たちが火葬場に集まった。(ヤンゴン・イェイウェイ墓地/火葬場、2014年)(c) 筆者撮影

ポンナーと呼ばれるインド人の占星術者を訪ねると、ヒンズー教形式の葬儀が執り行われていた。(マンダレー市内、2005年)(c) 筆者撮影

ミャウウーの一帯には、歴代のアラカン王朝のいくつかの廟が見られる。(ラカイン州・ミャウウー、2010年)(c) 筆者撮影

イスラーム教の「ムガール帝国」の最後の王の墓。説明には「第17代皇帝バハードゥル・シャー2世がビルマに流され、1858年に帝国は滅亡した」と記されている。(ヤンゴン、2013年)(c) 筆者撮影

「建国の父」アウンサンの妻で、アウンサンスーチー氏の母であるドー・キンチー氏が祀られている廟(ヤンゴン、2014年)(c) 筆者撮影

ビルマが英国の植民地支配から独立した1948年、初代首相に就いたのは、若干40歳のウー・ヌーであった。ウー・ヌー夫妻の墓は、何の飾り気もなかった。(ヤンゴン・イェイウェイ墓地/火葬場、2014年)(c) 筆者撮影

アジア・太平洋戦争(第2次世界大戦)で旧日本軍と戦い亡くなった6348人の連合国軍兵士が眠る共同墓地。(ヤンゴン・タウチャン、2011年)(c) 筆者撮影

「死の鉄道」として悪名高い「泰緬鉄道」のビルマ(ミャンマー)側の起点にある連合軍の共同墓地。アジア・太平洋戦争(第2次世界大戦)時に日本軍と戦い命を落とした兵士たちが眠る。
※米国や日本では戦死した兵士の亡骸を自国に持ち帰って埋葬したいという思いを抱く人が多いが、英連邦諸国では戦死した土地に埋葬する傾向が強かった。(モン州・タンビュザヤ、2019年)(c) 筆者撮影

林の中にひっそりと作られたクリスチャンの共同墓地。(ザガイン地域・タムー~カレーミョー間、2018年)(c) 筆者撮影

カチン州の山奥を歩いていると、路傍にひっそりと作られていたクリスチャンのお墓があった。(カチン州・プータオ郊外、2007年)(c) 筆者撮影

中国人の共同墓地。(シャン州・シポー、2003年)(c) 筆者撮影

町から遠く離れた場所に造られた火葬場。周囲には、遺体を焼いた後の灰や遺骨が見られる。(ザガイン地域・モンユワ~マグウェ・ガンゴー間、2018年)(c) 筆者撮影

火葬場の横に積まれた遺灰には、多くの遺骨が見られた。(ザガイン地域・モンユワ~マグウェ・ガンゴー間、2018年)(c) 筆者撮影

火葬場の近くに造られた色とりどりのお墓。(マグウェ地域・ガンゴー~ザガイン地域・カレーミョー間、2018年)(c) 筆者撮影

火葬場の近くに造られた独特の形をしたお墓。(マグウェ地域・ガンゴー~ザガイン地域・カレーミョー間、2018年)(c) 筆者撮影

2021年のクーデター後、ミャンマー軍に対して武装抵抗を始めたビルマ(ミャンマー)民族の若者が命を落とした。その若者たちが上座仏教徒か他の信仰者かは分からない。だが、その死を悼んでお墓が造られていた。(カレン州、2022年)(c) 筆者撮影
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過去31年間で訪れた場所 / Google Mapより筆者作成
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時にはバイクにまたがり各地を走り回った(c) 筆者提供