獄中の教え子へ「われわれは君を忘れていない」
ミャンマーで有罪判決を受けた日本育ちの映像作家に恩師がエール

  • 2022/5/10

 ミャンマーでクーデターが発生して5月1日で15カ月が経過した。現地では、抗議する市民への厳しい弾圧が今なお続いており、人権団体の調べによれば、5月9日までに学生や子どもなどの民間人に加え、政治家や俳優、ジャーナリストら1800人を超える人々が殺害され、拘束者は1万3000人以上に上っている。日本で育ち、永住権を持つミャンマー人映像作家のモンティンダンさんも、昨年4月中旬に拘束されたまま収監期間は1年を超え、3月末には懲役3年の有罪判決を受けた。かつてモンティンダンさんが映像制作を学んだ日本映画大学の天願大介学長に、当時の思い出と今の心境、そしてモンティンダンさんへの想いを寄せてもらった。

モンティンダンさん(日本映画大学提供)

懲役3年の有罪判決

 世界のバランスはこんなにも不安定なものだったかと、改めて思う。今の時代に侵略戦争が始まり、国連は同じような決議を繰り返すだけだ。テーブルに銃を置いた狂った男とポーカーしているようなもので、無表情にチップを積み上げるこの男、ポーカーのルールを理解しているのかどうかさえ分からない。
 ロシアは、ウクライナからはるか離れたミャンマーとも深く関係している。ロシアは中国と並び、ミャンマー軍の後ろ盾であるためだ。日本で報道される機会は減ったものの、昨年2月1日にクーデターが起きたミャンマーでは、今もなお、ウクライナと同じように多くの市民がひどい目に遭い、避難民は増え続けている。若者たちは武装してゲリラとなった。もう内戦だ。

 今年3月31日、ヤンゴンの裁判所は長期拘留中の被告モンティンダンに懲役3年の判決を言い渡した。罪状は刑法505A条に違反したというもので、これは国家(軍政権)が認めない映像を流布したという罪らしい。

 モンティンダンは、日本映画学校(現在の日本映画大学)の私の教え子だ。彼の一家は彼が6歳のときに日本に移住してきた。以来、彼は日本で教育を受けて育った。
 日本映画学校は3年制の専門学校で、彼が入学した時、私は1年の担任だった。「ミャンマーには姓と名の区別がないので、モンティン・ダンではなく、モンティンダンです。でも、どうかダンと呼んでください」と、完璧な日本語で自己紹介した。
 翌年から私は2年生と3年生の演出コースで教えることになった。ダンは、私のクラスに進級してきたため、計3年間、教えたことになる。
 ダンは、明るく社交的で、おっちょこちょいの泣き虫、女の子とサッカーと映画が大好きな青年だった。そして、ミャンマー人であることに誇りを持っていた。日本のことが大好きで、居酒屋に連れて行くたびに、「僕はいつか日本とミャンマーを繋ぐ映画を撮りたいんです」と熱く語った。
 「先生、見ていてください」「映画監督になって、必ずミャンマーと日本の架け橋になりますから」

おっちょこちょいの一面も

 3年生になった時、彼の書いた脚本が卒業制作に選ばれた。日本で暮らすことになったミャンマーの一家を描いたもので、主人公の少年には、彼自身の経験と姿が投影されていた。タイトルの「エイン」は、ミャンマー語で「家」の意味だという。
 ミャンマー人ばかり出てくる映画であるため、ミャンマーのキャストが必要になった。しかし、当時、日本の芸能界にミャンマーの俳優はいなかった。そこで学生たちは、チラシを作り、ミャンマーゆかりの店舗や団体が集まる「リトルヤンゴン」と呼ばれる東京・高田馬場のミャンマー料理屋を回って、出演してくれるミャンマー人を探し歩いた。

 何とかクランクインして安堵したのもつかの間、夜になって学生プロデューサーから電話があった。「ダンの体調が悪く、高熱が下がらないため医者に診てもらったところ、肝硬変だと診断され、即刻入院しろと言われた」という。肝硬変とは一大事だ。映画どころではない。
 ところが、翌朝、またプロデューサーから電話があった。「あれはダンの聞き違いで、肝硬変ではなく、扁桃腺炎だった」というではないか。どういう聞き違いなのか。おっちょこちょいにもほどがある。すぐに熱も下がり、撮影は続行された。

 完成した「エイン」は初々しい青春映画になり、当時の校長だった佐藤忠男が絶賛したほか、各所でさまざまな賞を受賞した。

卒業制作「エイン」の撮影風景(日本映画大学提供)

 大学を卒業後、ダンはプロの現場で働いた。やがて日本の永住権を獲得し、ミャンマーで映像制作会社を立ち上げ、日本とミャンマーを行き来して活動していた。仲間を集めて短篇映画を監督たりして、少しずつ夢に近づいているようだった。

失われることのない自由への想い

 そして、あのクーデターが起こった。そのとき彼は映画の取材でミャンマーにいたのだ。メールが届き、クーデター後の写真とともに、ミャンマーで今起こっていることを記録していますとあった。すぐに連絡が途絶え、人づてに逮捕されたということを知った。
 指名手配されたダンはホテルに潜伏していたところを急襲され、軍の施設で手ひどい拷問を受け、刑務所に収監されたのだ。ことの詳細は、やはりミャンマーで拘束され、刑務所から解放されて帰国したジャーナリストの北角裕樹さんから聞いた。北角さんは法廷でダンと一瞬会い、話をしたという。刑務所では大部屋に百人ぐらい収容され、床に雑魚寝するような、そんな環境らしい。
 北角さんを中心にダンを支援する動きが始まり、日本映画監督協会も声明を出してくれたが、それから1年近くが経った今年3月末、モンティンダンに懲役3年が言い渡された。
 まともな裁判であったとは思えない。モンティンダンは、凶悪犯やテロリストとはまったく別種の人間だ。私の知るかぎり、ダンは政治的にはやや保守的で、必ずしもアウンサンスーチー氏を支持していたわけでもない。容赦ない軍の暴力を目の当たりにし、記録して発信せざるを得なかったのは、愛国心ゆえだと思う。
 自由に制作し、自由に上映することが出来なければ、映画は死んだのも同じだ。かつてブルース・リーが厳しい環境に生きる世界中の青年たちの抵抗のシンボルになったように、「ハンガー・ゲーム」の三本指のサインが、香港をはじめ、タイやミャンマーでも、自由を求めるサインとして使われた。芸術や芸能にとって、「自由」とはもっとも大切な価値だ。そして、権威主義者たちが最も怖れるものもまた、「自由」なのである。

 ミャンマーでは、今日も内戦が続いている。多くの映画人が逮捕されたまま、苦しい日々を過ごしている。ダンは北角さんに会った時、「ここを出たら、刑務所の映画が撮れますね」と言って、笑ったという。強がりであったとしても、それこそが私が教えてきた「映画的思考」であり、映画人の資格だ。彼を教えた人間として、誇らしく思う。
 権威主義がどれだけ破壊しようとしても、人が自由を求める気持ちは壊滅させることができない。モンティンダンの新作を見られる日が来ることを、私は信じている。ダン、それまで決して絶望することなく、タフに生き延びてほしい。われわれは君を忘れていない。

 

 

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