米大統領選があぶり出すSNSのモデレーション問題
テック企業がユーザーを検閲する民主主義のジレンマ
- 2020/10/31
11月3日に迫った米大統領選挙は、トランプ共和党大統領が逃げ切るのか、チャレンジャーのバイデン民主党大統領候補が現職を破るのか。米国民のみならず、世界が固唾をのんで見守る中、政治や選挙を巡る世論形成に破格の影響力を持つようになったソーシャルメディアがフェイスブックやツイッターなどSNS上の発言をいかに扱うべきか、注目が集まっている。候補者や支持者が「事実と異なる」と解釈される投稿をした場合、言論の場を運営するテクノロジー企業はどの程度その内容を監視し、注釈をつけたり排除したりして「モデレーション」を行うべきか。言論の自由と私企業による介入は、民主主義社会の根幹に関わる問題であり、テック企業の絶大な権力に対する警戒や規制分割の議論も相まって、「民主主義はどうあるべきか」と改めて米国社会に問いかけている。
第230条めぐり議論が紛糾
今回の大統領選で異例の存在感を放つSNS。民主党を中心とするリベラル派の論客から「トランプ大統領や共和党、極右派、白人至上主義団体などのウソや扇動的な言論を放置し、適切なモデレーションを行っていない」との批判が寄せられる一方、共和党など保守派の論客からも、「SNS大手はトランプ大統領や保守派の言論のみを狙い撃ちして規制や削除を行い、基準が偏っている」と非難の声が上がっている。
こうした中、共和党支配下にある米上院の商業科学運輸委員会が10月28日に開催した公聴会に、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ最高経営責任者(CEO)、ツイッターのジャック・ドーシーCEO、グーグルのスンダー・ピチャイCEOがオンラインで召喚され、その証言が注目を集めている。
この日の議題は、「通信品位法第230条」の改正の是非について。開会にあたり、ロジャー・ウィッカー委員長(共和党)が「(SNS運営企業が思いのままに振る舞える)フリーパスの時代は終わりだ」と発言した後、SNSの運営企業は原則としてユーザーの投稿内容の責任を問われない一方、ユーザーのプラットフォームへのアクセスを広範にわたり制限できるとした条文を改正すべきか否かが議論された。
特に問題視されたのが、今月頭に米保守系タブロイド紙のニューヨーク・ポストが報じたバイデン民主党候補の家族が絡んだ疑惑の記事の投稿にツイッターが制限をかけたことだった。事態を受け、共和党のテッド・クルーズ上院議員が「ツイッターは、メディアの報道内容や市民の知る権利を制限する立場にない」と厳しく非難したほか、一部の民主党の委員からも第230条を問題視する発言が寄せられた。
しかし、CEOたちが議会の証言に立った翌29日にも、米税関・国境警備局のマーク・モーガン局長が「(トランプ大統領の建設したメキシコとの)国境の壁は、ギャングや人殺し、強姦魔、そして麻薬がこの国に流入するのを防止する上で役立っている」と、トランプ大統領を擁護する内容をツイートしてアカウントを凍結されるなど、騒ぎは収まっていない。
実際、公聴会では個人の発信の規制に関する議論は深まらないままに終わった。しかし、憲法修正第1条で言論の自由を掲げる米国において、たとえそれが無制限の自由を保障するものではないにせよ、私企業が人々の言論の是非に審判を下す生殺与奪権を持っているという事実をどうとらえるべきかという論点が浮き彫りになり、対立は増幅されたのは確かなようだ。
テクノロジーによって変質したもの
1990年代に急速に台頭したインターネットテクノロジーによって、言論の自由という憲法的な原則はいとも簡単に変質した観がある。SNS上では、これまで権威が高いとされていた高級紙や有力雑誌、高名な論客の言論を人々が単なる「ニュースのリンク」として扱うようになり、それに論評を加えて日々、発信することによって、従来型のメディアの公器やコミュニティとしての価値を低め、相対化させ続けている。
言論の民主化によってもたらされるのは、エリートや知識層の力の弱体化だけではない。それによって築かれる「何でもあり」の世界では、メディア同士や言論コミュニティのメンバー同士がこれまで守ってきた倫理基準やルールは適用されず、誤った情報や中傷誹謗が容易に入り込みやすい。こうして、SNS登場以前から進行していた社会の分断や共通価値観の破壊がテクノロジーによって助長される。
その結果、何らかのモデレーションの役割が必要になるのだが、ここでも問題山積だ。そもそも国家権力による介入は「検閲」として憲法で禁じられているが、第三者によるモデレーション機関を設立しようとしても、どうすればその組織に法的な根拠を持たせることができるのか、また、誰がどのような方法で委員を選ぶのか、運営を民主的に行うにはどうすべきかなど、いずれも一朝一夕には答えが出ない。
こうして市民も識者も政府も手をこまぬいている間に、IT大手各社は第230条の免責やユーザーのアクセス制限権を逆手に取り、それぞれのプラットフォーム上でモデレーションを通じて絶対的な権力を行使するようになったのが、現在の姿だ。
選挙の洗礼も、市民や議会の監視も受けない利潤追求型の民間企業が「何が正しい言論で、何が規制されるべきか」決定するというディストピア、すなわち理想郷とは正反対の社会が出現した。同時に、これらIT企業は、言論の場を提供するというメディアの役割を演じながらも、第230条を盾に取り、メディアの社会的責任を巧みに回避している。
インターネットの黎明期には、「テクノロジーが民主主義の実現を促進する」と盛んに言われた。それは、ある意味で真実であった。しかし近年、そのテクノロジーによって民の主権とも言うべき個の発言力が無制限に増幅されたことにより、コミュニティ内で協調や妥協により成り立っていた民主主義の基盤が弱まり、IT大手に絶対的な権力を付与してしまったという逆説が見られる。