米大統領選があぶり出すSNSのモデレーション問題
テック企業がユーザーを検閲する民主主義のジレンマ
- 2020/10/31
法改正で民主主義は再生できるか
こうして、テクノロジーは、米国における「言論の自由」の概念はおろか、「民主主義」そのものを変質させてしまった。言論を検閲し、統制できるテクノロジー大手の権力は、今日、自身のツイッターの投稿に警告ラベルを付けられてしまうトランプ大統領をはじめ、誰も逆らえないようにも見受けられる。
しかし、そうした権力も通信品位法第230条あってこそだ。今後、同条項が改正され、「運営企業が投稿へのアクセスを制限する際の条件を記した条文」が加えられることになれば、テック企業が言論に及ぼす権力も、ある程度は制限されことになるだろう。これは、現在、米国で論議されているIT大手の規制分割論の趣旨にも沿ったものだ。実際に、公聴会では法改正の可能性が少しばかり議論された。
これに対し、フェイスブックのザッカーバーグCEOは、「法改正の必要性は理解するが、運用は企業の自主規制に委ねられるべきだ」という従来通りの主張を繰り返した。優越的な地位からもたらされる特権を手放したくないという本音が透けて見える。
米国憲法によって政府の検閲が禁じられているがゆえに、テック企業がユーザーに行う検閲機能を政府は安易に規制できず、企業の非民主的な権力を一層強めるという民主主義のジレンマに、解決の道はあるのだろうか。
「単純な難問」の原点
ここで、今一度、民主主義の根幹である「民の判断や決断への信頼」という原点に立ち返る必要があろう。民の声は、間違うことも多々あれど、天の声とされてきた。だからこそ、人々が選挙で多数決によって決めた事項を為政者が民に代わって行う民主制度が正統性を持っているとされてきた。
事実、米国の歴史を振り返ってみると、20世紀半ばぐらいまでは国民投票によって憲法の修正条項が決められていた。例えば、女性に参政権が与えられた憲法修正第19条が1920年に批准されたのも、国民の直接的な政治参加によって方針が大きく変更されたことにより実現したものだった。もし、当時、ツイッターが存在し、「女性にも投票する権利を」と主張するツイートが「極端だ」「こうした発言で不快に思う人がいる」といった理由で削除されていれば、帰結は変わっていたかもしれない。
たとえ自分とは異なる主張だったり、事実と異なる内容だったりしても、究極的に民衆は正しい判断を下せると信頼することこそ、民主主義ではないだろうか。もし、そうでなければ、選挙で代表者を選ぶ権利を「愚民」から取り上げなければならなくなる。また、「害悪を与える情報」を取り除き、選別された「正しい情報」だけを大衆が必要としているとの考えに立つのであれば、それは民主主義ではなく、全体主義と言えよう。
通信品位法第230条やSNS企業によるモデレーションの問題は、表面上は複雑なように思われるが、実は、米国が民主主義の基本を忘れてしまったことに端を発する「単純な難問」のようでもある。民主主義は発言の自由が根幹であると同時に、信頼や協調や妥協で成り立つ側面があるという「原点」に立ち返ることこそが、SNSモデレーションの議論に必要な視点であるように思われてならない。