ワクチン外交と知財保護で揺れる米国
特許権の一時停止に同意したバイデン大統領の真意は
- 2021/6/16
新型コロナウイルスのワクチン外交で攻勢に出る中国およびロシアに対抗すべく、国際社会を舞台に熾烈な競争を演じる米国のバイデン政権。全成人の半分以上がワクチン接種を済ませ、米国内の需要が一巡したタイミングで知的財産権の保護に関する従来の態度を翻し、特許権の一時停止に同意した。また、すでに発表していた8000万回分の途上国へのワクチン供給に加え、5億回分を積み増すことも公表した。知財に関する米国の「心変わり」の真意はどこにあるのか。ワクチンをめぐる米世論から読み解く。
「公共財」打ち出す中国と欧米の対抗策
今回、世界的なコロナ禍でワクチンに関する知財が問題視されるようになった背景には、最貧国や中貧国の国々で新型コロナウイルスへの感染者が急増する中で、欧米や中国などワクチン生産国からの配布が遅々として進まない現状がある。
途上国が世界保健機関(WHO)などを通じてワクチンを安価で提供してもらうことができる国際枠組みのCOVAX は6月10日現在、129カ国に対して8100万回分のワクチンを供給済みだが、多くの途上国で感染が再拡大している中、その供給ペースは牛歩に等しい。全世界でおよそ22.5億回分の接種が行われたが、途上国はそのうち0.3%を占めるに過ぎない。
こうした中、供給が遅れている主な原因として目されているのが、欧米先進国の「狭量さ」だ。ワクチンを開発後、知財を盾に製法を独占しているファイザー、モデルナ、アストラゼネカなどの製薬会社や、自国民の必要量を上回る分量を買い占める政府が、途上国への供給を細らせていると批判されているのだ。
貧困と不正を根絶するための支援活動を90カ国以上で展開しているNGOのオックスファムでワクチンを担当しているアナ・マリオット氏も、「欧米の大手製薬企業は、知財と製造ノウハウを共有する時間が1年以上あったにもかかわらず、あらゆる局面で人々の健康より収益を優先してきた」と、厳しく批判する一人だ。また、世界の疫病対策に関わる組織を束ねるパンデミック・アクション・ネットワークの共同創始者、キャロリン・レイノルズ氏も、「米国や他の先進国が危機を脱しつつある中で、今後、ワクチンの公平な分配にまつわる政治的関心が薄れかねず、感染の再拡大によるパニックとネグレクトのサイクルが繰り返される危険がある」と、警鐘を鳴らす。
こうした欧米諸国内で高まっているワクチンナショナリズムへの批判を最大限に活用して自国の優位性確保に動いているのが、ワクチンの開発と大量生産に成功した中国だ。たとえば、中国外交部の趙立堅報道官は、「多くの途上国が新型コロナウイルスのワクチンについて知財保護の義務を免除するよう訴えたことについて、中国はそれを完全に理解し、支持する」と表明し、「途上国の味方である中国」をアピールした。また、中国国家衛生健康委員会の米鋒報道官も、「中国はワクチンを公共財にする約束を履行している。すでに累計3億回分のワクチンを世界に供給している上、今後もできる限り提供を続け、途上国におけるワクチンのアクセシビリティとアフォーダビリティの促進に貢献する」と述べた。
これを受け、米国も行動を示す必要に迫られた。民主党のクリストファー・クーンズ上院議員は、「中国は、米国の“裏庭”にあたるラテンアメリカに対しても中国製ワクチン供給し、経済面・公衆衛生面・外交面において良いパートナーであることを示そうとしている。われわれも明確な計画と行動を示してこれに対抗しなければならない」と述べた。
バイデン大統領によるワクチン知財特許権の一時停止への同意は、この中国と米国とのワクチン外交における競争の文脈で出てきたものであり、国際社会に3億回分のワクチン供給を約束した中国に対して、8000万回分にとどまっている米国の劣勢挽回を狙ったものであることは間違いない。6月9日に5億回分の積み増しを発表し、一気に中国を追い抜こうという意図は明らかだ。
「予定調和の場外乱闘ショー」のカラクリ
こうしたバイデン大統領の方針変更は、表面的に見れば、知財保護の一時停止に頑なに抵抗してきた歴代米政権の方針からコペルニクス的な大転換を行ったように見える。事実、発表後も知財保護を訴える声は依然として根強い。
たとえば、ブルームバーグは社説で、欧米製薬企業の主張について、「もし知財保護の一時停止に向け最初の一歩を踏み出してしまったら、ゆくゆくはワクチンの製法のみならず、技術や企業秘密まで途上国政府に開示せざるを得なくなり、悪しき結果に落ち込んでいくだろう」という“すべり坂論法”であると指摘した。さらに、開示先の途上国から中国に最先端のメッセンジャーRNA(mRNA)ワクチンの技術が流出することを警戒する声もあるという。
また、ブルームバーグ編集者のクライブ・クルック氏らは、社説で「活動家は“知財によってワクチンのグローバルな生産拡大が妨げられている”という主張をやめるべきだ。製薬企業いじめをしても、彼らはより強固に製法の秘密を守り抜こうとするだけだ」と指摘。さらに、英ベンチャーキャピタリストのピオトール・ブレジンスキー氏は「私は、途上国の権力者らが、知財保護の一時停止を利用して他人の出費と苦労にただ乗りし、安上がりに問題を解決しようとしていることに怒っている」とツイートし、話題を集めた。
このように、米国内の知財保護派と特許権一時停止派は鋭く対立しているが、実際には「予定調和の場外乱闘ショー」的な側面がありそうだ。バイオテックアナリストのキース・スペイツ氏は、投資家向けウェブサイト「モトリーフール」に寄稿し、その構図を明快に解説している。同氏によれば、カラクリはこうだ。
「バイデン大統領が知財保護を一時停止すると方針変更したことを受け、製薬会社の株価が下落するのではないかと世間が騒いでいるが、実際にはそこまで大事(おおごと)ではない。実際、主要なコロナワクチンメーカーの1つ、モデルナの最高経営責任者(CEO)は、“方針変更は、心配で眠れなくなるほど大きなニュースではない”と明言している。現実的には、自社のmRNAワクチン技術の開示を迫られることがないと知っているためだ。グローバルな知財の保護を司る世界貿易機関(WTO)の決まりによれば、一国でも反対があれば一時停止は実現しないことになっており、現在はドイツが反対を表明している。つまり、バイデン政権がいくら一時停止に賛成しても、実際に実現する可能性はない」
つまり、いくら知財保護が根源的な問題であり、議論を尽くしたところで、現制度の下では途上国へのワクチン供給が知財保護の一時停止で増えることはあり得ない。知財の保護派も、一時停止派も、それは十分に理解している。スペイツ氏の言う通り、「知財論争は時間のムダ」なのだ。