【ミャンマー総選挙2020】収監された映画監督はなぜスーチー氏を支持するのか
ミャンマーの人権派映画監督ミンティンココジー氏
- 2020/9/3
2015年の総選挙で地滑り的勝利で政権交代を果たしたアウンサンスーチー氏率いるミャンマーの国民民主連盟(NLD)政権。しかし、民主化を標榜するNLDが政権に就いた後も、多くの人が表現に関する罪で訴追されている。その一人が、人権派映画監督のミンティンココジー氏だ。有罪判決を受け、10カ月もの間収監されたミンティンココジー氏はいま、11月の次期総選挙に向け、フェイスブックで盛んにNLDへの投票を呼び掛けている。どうして、NLD政権下で政治犯として逮捕される経験をしながらも、現政権を支持するのだろうか。筆者は8月、同氏にインタビューする機会を得た。事件の経緯とともに、彼の思いを紹介したい。
国軍の大きな影響力
まず、ミンティンココジー氏と彼が逮捕されるきっかけとなった事件について説明したい。同氏は、シャン州の少数民族を追ったドキュメンタリー「フローティングトマトズ」、不倫の中で精神を蝕まれていく男を描いた「ビヨンド・ザ・ドリーム」などの作品を制作したベテラン映画監督だ。「人権と尊厳の国際映画祭」を主宰し、若手映画監督を育成したことでも有名だ。アウンサンスーチー氏らとともに、ビルマ独立の英雄アウンサン将軍をテーマにした歴史映画を撮ろうとしたことでも知られる。
そのミンティンココジー氏が2019年4月、士官学校を揶揄するなど国軍を批判する書き込みを行ったとして、逮捕・起訴された。肝臓がんの持病があることから、弁護側は釈放を求めたが、裁判所はこの請求を却下。同氏は無罪を主張して二審まで争ったものの、一審の懲役1年の判決は覆らず、2020年2月まで収監された。これに対して、内外の市民団体から釈放を求める声があがったほか、海外の映画監督らが署名運動を展開する事態に発展している。
どうして民主化したはずのNLD政権のミャンマーで、彼は逮捕されてしまったのか。同氏はこのことについて「現在のミャンマーは、見かけはNLD政権だが、司法機関や国会には国軍系の人物がいるのが現状」と解説する。実際に、彼の事件では国軍が告訴する形で警察当局の捜査が始まっている。国軍はこの時期、国軍批判に対する締め付けを強化していた。同氏は、同時期の2019年5月にメンバーらが逮捕された劇団「ピーコック・ジェネレーション」の事件を例に挙げ、国軍が主導した事件だと主張した。このケースでは、伝統的なラップ音楽であるタンジャを使って国軍を批判したとして、国軍の告訴によって複数のメンバーが罪に問われている。
国軍が高い独立性と広い権限を持つミャンマーでは、警察を所管する内務大臣は国軍司令官が指名するため、警察は国軍の強い影響下にあるとされる。そうした軍と警察のコネクションが、NLD率いる文民政権側の意図とは離れて事件を起こしているというのが、ミンティンココジー氏の考え方だ。
「憲法改正が解決策」
同氏の逮捕を国軍と警察が主導したものだとしても、NLDが大勝した2015年の総選挙では、有権者はこうした不当な逮捕がない民主的な政治を期待していたのではないか。そうした疑問をぶつけると、ミンティンシンココジー氏は声を大きくして「これはアウンサンスーチー氏が望んでいたことではない。彼女は決して恐怖の国を望んではいないんだ」と、強調した。
同氏は「自分は司法の専門家ではないので、具体的にどう改善したらいいのかは分からない」と前置きしたうえで、「憲法が改正されれば、こうした問題はなくなるはずだ」と述べた。同氏が解決策としたのは、国軍に広範な権限を与えている2008年憲法だ。国会議員選挙を行うことを定める一方で、議席の25%は国軍司令官の推薦とするほか、アウンサンスーチー氏の大統領就任を阻むために、家族に外国籍の人物がいる場合には大統領になれないという規定がある。また、防衛や治安に関係する国防大臣、内務大臣、国境大臣の3つの閣僚ポストは、国軍枠だ。
インセイン郡区裁判所で公判が続いている間、ミンティンココジー氏は公判終了後に詰めかけた記者らの取材に短く応じるのが通例だった。当局は同氏と記者とをなるべく接触させないよう、鉄条網を設置するなどするのだが、警察車両に乗り込むまで少しの間、記者が質問ができるのだ。筆者はできる限り彼の裁判には足を運ぶようにしていた。
その中で印象に残ったやり取りがある。公判も終盤に差し掛かったころだった。同氏は詰めかけた記者に「私のことよりも大事なことがあるだろう。憲法改正のほうが大事だろう」とぶっきらぼうに答えのだ。あたかも、自分のことはほっておいてくれ、と言っているようにも聞こえた。釈放後、同氏に真意を尋ねた。
すると、ミンティンココジー氏は「いや、本当に自分のことは大したことじゃないんだよ」と事も無げに話す。「刑務所の待遇はだいぶ改善されて、今では肉も食べられる。チンロン(ミャンマーの蹴鞠)などの運動もできる。ただ、がんの診断を受けられないことだけが心配だったが、そのほかは困ったことはない」という。収監中に映画の脚本を2本書きあげたとういう。うち1本はすでに別の監督によって撮影済で、公開を待つ状態だ。
しかし、裁判を傍聴した記者で、このコメントを額面通り受け取る人は少ないだろう。収監中の健康状態は決して良いとは言えなかったはずだ。彼が親戚に水の差し入れを受けて介抱されながら、脂汗を流し証言台に立っていたのを記者らは見ているのだ。体調を崩し、審理が中断されたこともあった。彼は「1988年の民主化運動で捕まった人の中には、病気で死んだ人もいる」ともつぶやいた。同志の境遇を思い出しながら、脚本の執筆に打ち込み、国の行く末を考え憲法改正への思いを新たにすることで、厳しい刑務所生活を乗り切ったに違いない。