タイのスラムが生んだ「奇跡のオーケストラ」の物語(後編)
日本のステージで輝く音を出した子どもたちの、大きな夢

  • 2023/12/9

フィナーレのスタンディングオベーション

 10月19日の東京公演は、そんな彼らのひたむきな思いが会場を満たした一夜となった。教会のステージに大きな十字架が掛かり、その前で、バイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスから成るイマヌエルオーケストラは、トンさんの指揮のもと、約1時間半にわたって力強く演奏を聴かせたのである。

 グリーグの組曲『ホルベアの時代から』に始まり、ヴィヴァルディ『四季』の「春」第1楽章では、前出のプロ志望のカオタンさんがバイオリンのソロで鳥の歌を奏でた。さらにタイの歌曲や『あんたがたどこさ』『ふるさと』など日本歌曲のメドレー、『リベルタンゴ』などが演奏されるにつれて、オーケストラの熱気が会場を覆っていく。満席の聴衆が静かに思いを高揚させ、微細な音の一つ一つも聴き漏らすまいと、食い入るように耳を傾けているのがわかる。

皆、真摯な表情で演奏する本番前のリハーサル (c) シャイン・フォー・ユー

 最後は、タンブンプロジェクトのピアニストである宮野寛子さんと新妻由佳子さんもステージに上り、同プロジェクトのテーマソング『ガーデン』で締めくくった。そして加古川さんが登壇し、感極まった笑顔で来場のお礼を述べ、「今、私の中にたくさんの花が咲いています。皆様の中にも希望の花が咲いているでしょうか」と挨拶。鳴りやまない拍手の中、オーケストラはアンコール曲『ユー・レイズ・ミー・アップ』の演奏を始めた。途中、子どもたち全員が日本語で「ありがとうございました!」と唱和すると、聴衆の何人かは、胸にこみ上げてくるものがあったのか、指やハンカチで目元を押さえていた。

 そして曲が終わると、冒頭で紹介したように、この日いちばんの拍手喝采とスタンディングオベーションがオーケストラに贈られたのである。ステージの中央から何度もお辞儀をするトンさんの目には光るものがあった。

実はこのコンサート中、演奏の合間に、トンさんが壇上で質問に答える形で、今回の日本公演について話すひとときがあった。その中でも強く印象に残ったのは次の発言だった。

 「僕は何度か日本に来ていますが、オーケストラの子どもたちはタイから出るのが初めてでした。彼らは今回、初めてパスポートを取ったんです。70人以上いるメンバーは皆、日本に来たがっていましたが、残念ながら来られない子もいました。その子たちにも、今回の日本での経験をシェアしたいんです」

 この場にいられない仲間たちにも最大限のケアをしたい、喜びを分かち合いたいという優しさが胸を打つ。

東京公演の終演時に起こったスタンディングオベーション (c) シャイン・フォー・ユー

きっと子どもたちは夢をつかむ

 こうして盛り上がったフィナーレと共に東京公演も終わったが、加古川さんにはその間、日本でまた一つオーケストラの子どもたちの成長を実感した出来事があったという。それは北海道に到着して最初の夜、温泉に宿泊したときのことだった。宿の女将さんのアイディアで「夢を語る会」が開かれ、メンバー一人一人が、自分が将来やりたいことを順番に話していくことになった。

 「あのとき、全員がちゃんと夢を語れたんですよ。それも、単に『これがやりたい』だけではなくて、『イマヌエルオーケストラを世の中に知らせるためにこういう工夫をして頑張る』とか『役者になって音楽の素晴らしさを伝えたい』といった、具体的な話ですね。志を持った子どもたちに育っているんだなと嬉しくなって……。トンさんも『皆があんな夢を持っているなんて全然知らなかった』と感動していました。

 私が最初に会った2017年に比べると、今のイマヌエルオーケストラの演奏は凄くうまくなっていますが、心も成長したのだと思います。お金がなく、バイオリンも持てなかったのに、いろいろな方からの助けを受け、そのおかげで音楽をやらせていただいていることを、皆しっかり自覚しているんだな、と感じましたね」

 そう語る加古川さん自身は、今後の人生で、音楽を通じたタイの青少年の育成や日タイ友好、スラムや貧困地区の支援などに取り組んでいきたいと考えている。イマヌエルオーケストラ自体のさらなる育成はトンさんに任せるという。そのトンさんの夢は大きい。貧困問題を抱えるタイの東北部でも音楽活動を興したいというのだ。

 「クロントイ・スラムでイマヌエルオーケストラの活動を続けながら、(東北部の)イサーン地方にもオーケストラを作りたいんです。タイ国内では、バンコクと南部にはオーケストラがありますが、イサーンなど北にはありませんから。

 僕はどのオーケストラでも、自分が楽しむために音楽を演奏したいのではなく、なるべくクオリティの高い音楽を生み出して、人々の心を感動させたいんです。そうすれば新しいチャンスが生まれる。イマヌエルオーケストラの子どもたちにもそのことを伝えたいし、彼らは将来、きっとチャンスをつかめると信じています」

 23年前、スラムの地に芽吹いた一粒の種は、多くの人から陽光のように愛を注がれて枝葉を繁らせ、日本でも大輪の花を咲かせるオーケストラに成長した。これからもメンバーたちの不屈の思いはさらに天に向かって伸び続けるだろう。きっと将来、奇跡の第二幕、第三幕を見せてくれるに違いない。

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