小原浩靖監督作品「日本人の忘れもの フィリピンと中国の残留邦人」 
国の義務と責任を問う実録映画 7月25日より東京・ポレポレ東中野ほか全国で順次公開

  • 2020/6/20

 太平洋戦争が終結して今年で75年。敗戦によって父親と行き別れになり、反日感情が強かったフィリピン各地で隠れるように生きてきた残留邦人2世たちや、日本が傀儡国家として中国東北部に建国した旧満州の地に置き去りにされ、中国人養父母に育てられた残留孤児らの証言を記録したドキュメンタリー映画「日本人の忘れもの フィリピンと中国の残留邦人」が、今夏、東京を皮切りに、全国で順次公開される。小原浩靖監督は「75年前に生まれた戦争被害と今の日本のあり方を合わせ鏡のように描いた。若い世代こそ自分自身にも起こり得る問題として危機感を持って理解し、行動してほしい」と話している。

映画に込めた思いを話す小原浩靖監督

老人たちの証言

 「自国民の保護は、国家の根本的な義務である」――。映画は、黒地に白抜きのテロップに始まり、老人たちの姿を次々と映し出していく。ミンダナオ島ダバオ郊外のジャングルに住む小柄な赤星ハツエさんをはじめ、登場する人々は、苦労に満ちていただろう半生を誰も詳しく語ろうとしない。ある者は色褪せた写真をじっと見つめ、またある者は長年来の友人に助けられながら、父親の名前や職業をぽつりぽつりと口にするだけだ。「大使館に手紙と写真を送り父の身元を尋ねたが、分からないと言われた」と、寂しそうに話す女性もいる。

戦前、熊本からフィリピンに来た日本人の父と、フィリピン人女性の母との間に生まれた赤星ハツエさん。戦争が始まると父は徴兵され、ハツエさんは母や妹と山に逃げて暮らした。フィリピン日系人リーガルサポートセンターの調査により、父が終戦後、日本に強制送還され、亡くなっていたことが分かった。父と話した日本語を今も覚えている (c) Kプロジェクト

 彼らは、フィリピンに渡った日本人移民の子どもたちだ。19世紀末に始まったフィリピンへの入植は、最盛期には3万人を超え、フィリピン人女性と結婚して家族をもった者も多かった。しかし、太平洋戦争が勃発し、日本軍が侵攻してくると状況は一変。男たちは戦線に駆り出され、昨日まで隣人や親戚として仲良くしていたフィリピン人と闘うことを強いられた。多くはそのまま戦地で命を落とし、生き残った者も、家族のもとに帰れないまま日本に強制送還された。一方、母親と共にフィリピンに残された当時の子どもたちが、冒頭の老人たちだ。反日感情が高まる中で、皆、日本人であることを隠してひっそり生きてきた。

父親の名前を「ヤマモト」とだけ記憶している山本アンヘリータさん。父が戦時中に銃殺されてから、反日感情の厳しい中を身を隠して生きてきた。父の身元を尋ねる手紙を大使館に送ったこともあるという  (c) Kプロジェクト

 続いてスクリーンに映し出されるのは、中国残留孤児たちだ。国策に従い旧満州に渡った日本人移民の子どもたちで、終戦前後の混乱中に親や兄弟と離れ離れになり、中国人養父母に育てられた。日中の国交が回復した1972年以降、少しずつ引き揚げが進んだが、言葉や文化の壁を乗り越えられず苦労を強いられた者も多い。生活の保障を求めて2000人規模の集団訴訟を起こすほど追い詰められた彼らの言葉から、日本語の通訳がいなければ病院にも行けず、今なお日本社会に溶け込めていない現実が浮かび上がる。

生活に困窮し、国家賠償を求め2000人規模の集団訴訟に踏み切った中国残留孤児たち(撮影は原告団の一人、齊間劍佳志さん) (c) Kプロジェクト

 40分にわたって続く老人たちの証言を聞いても、それが一人一人の物語に分解されず、ひとかたまりの「問題」として伝わってくるのは、小原監督がそれぞれの生い立ちや個別の苦労話だけにフォーカスを置かず、群像として捉え、描こうとしているからだろう。

裏切られた国への信頼

 「 “日本人の忘れもの”という映画をつくってもらえないか」。そんな相談が小原監督のもとに持ち込まれたのは、2017年11月のことだった。依頼の主は、「逆襲弁護士」の異名を持ち、スルガ銀行の不正融資事件で被害者側弁護団長として借金全額棒引きの成果を勝ち取ったり、脱原発訴訟に共同代表として関わったりしてきた河合弘之弁護士。自身も旧満州に生まれ、数日違いで難を逃れて帰国したという経歴から、残留者の就籍や生活支援にも使命感を燃やし精力的に取り組んできた人物だ。「当事者の高齢化が進み、問題が表面化する前に消滅しつつある。解決に向けて一気に前進させたい」。河合弁護士の言葉は、切実だった。

フィリピンの残留邦人2世たちに面接調査を行う河合弘之弁護士(左)。残留者の就籍や生活支援に精力的に取り組む (c) Kプロジェクト

 熱意におされ制作を引き受けたものの、小原監督には戸惑いもあった。CMディレクターという職業柄、はじめからムーブメントを起こすことを意図した映像をつくること自体に違和感はなかったが、1本の映画にはテーマが大き過ぎると感じたのだ。フィリピンと中国の両方を描くなら、テレビのドキュメンタリー番組でシリーズ化した方が良いのでは―。そんな思いがぬぐえずにいた。

埼玉県に生まれ、6歳の時、家族で旧満州に移住した高野宮子さん。残留後、現地の養父母に売られ苦労を重ねる。92年に日本へ定住帰国したが、日本語は話せない (c) Kプロジェクト

 迷いが消えたのは、ミンダナオ島にある日本フィリピン歴史資料館を訪れ、出征前夜の男性が妻と幼い娘に残した遺書を読んだ時だった。「困った時は日本国に頼りなさい」「父の祖国は、決してお前たちを見捨てない」。男性の言葉に、旧満州で自分の命が尽きる直前に我が子を中国人に託した母親たちの姿が重なった。移民たちは皆、国が家族を守ってくれることを微塵も疑っていなかった。しかし、日本政府は1945年8月、「海外居留者はできる限り現地に定着させる」と発表し、彼らを切り捨てる。「残留問題は、国が人々を隷属物のように考えていたために起きた棄民だったことを伝えよう」。決意を固めた小原監督に、いつしか「映画でこそ描くべきテーマ」だという確信が芽生えていた。

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