炎に包まれた故郷の村 ある在日ミャンマー人女性の絶望と決意
亡き母と弟への思いを胸に募金活動を続けるミィミィさん
- 2022/10/16
日本に住む約3万人のミャンマー人の中には、故郷が戦禍に見舞われ、家族を亡くして悲しみにくれながら日本で活動を続けている人もいる。昨年2月にクーデターを起こした国軍と、武装した市民らがつくる国民防衛隊(PDF)の衝突が特に激しい北西部のザガイン管区の出身で、現在は愛知県豊田市で働いているミィミィさん(仮名、26)は、今年8月に故郷の村が国軍に襲われ、母親と弟を亡くした。筆者は9月中旬、悲しみの中で祖国への支援を求めて声を上げ続ける彼女に取材した。
地獄の午後
アパートを訪ねると、部屋の奥に50代ぐらいのふくよかな女性の写真が飾られていた。ミィミィさんの母親だ。黄色い花が生けられた花瓶も置かれている。「お母さんはなぜ死ななければならなかったのでしょうか」「弟がお母さんを助けて一緒に逃げることができていたら良かったのに」。あふれている涙を拭いながら、ミィミィさんはつぶやいた。
悲劇が起きたのは、2022年8月11日のことだった。その日の午後3時頃、国軍のMi-35ヘリコプターがミィミィさんの故郷であるエィンマービン町エィンバウンダイン 村を空爆したのだ。PDFが潜伏しているという情報を得た軍による無差別攻撃によって、18人以上の住民が命を奪われたほか、この日たまたま開かれた市場に買い物に来ていた近くの村の人たちも併せて20人ほどが軍に連行されたまま、今も行方が分かっていない。
その亡くなった18人の中の1人が、ミィミィさんの母親だった。「その日、いつものように昼寝をした後、日本時間の夕方5時半頃にフェイスブックにアップされたニュースでその出来事を知り、ショックのあまり他のことは何も考えられなくなりました」と、ミィミィさんは振り返る。
かなわなかったビデオ通話
ミャンマーでは、クーデターに抗議する市民らのデモが国軍によって非道な形で排除され、多くの人々が人生を奪われた。地元の調査団体の政治犯支援団体(AAPP)によれば、犠牲者は10月6日時点で2300人を超えている。最初は非暴力で抵抗していた人々は武力によって自由を取り戻すことを決意し、各地にPDFが立ち上げられた。
戦闘の全国的な拡大に伴い、反政府武装組織として最大規模のカレン民族同盟(KNU)や、北部カチン州で活動するカチン独立軍(KIA)、シャン州のタアン民族解放軍(TNLA)のような武装勢力をこれまで有していなかったビルマ族も、PDFを立ち上げて軍と激しく闘うようになった。これを受け、軍は抵抗が特に強い地域でインターネットを遮断するようになった。ミィミィさんの故郷でもインターネットにアクセスできなくなったため、ミィミィさんは母親と話す時、フェイスブックのメッセンジャーを使ってビデオ通話をする代わりに国際電話をかけなければいけなかったという。
「ビデオ通話で私の顔を見ながら話せないことを、母はとても残念がっていました。私がどんな生活をしているのか、どんな表情をしているか見たいと繰り返し言っていました。母は亡くなってしまったので、もう私の顔を見せてあげることができないのが悲しい」と、ミィミィさんは声を絞り出すように言った。
突然過ぎた母と弟との別れ
軍は、空爆以外にも、村に火を放ったり、住民を生きたまま焼いたり、とらえた住民を「人間の盾」として使ったりするなど、残虐な方法で多くの人々の命を奪い、PDFを抑え込もうとしている。Data for Myanmarが今年8月に行った調査によれば、サガイン管区だけで2万戸以上の住宅が軍によって燃やされたという。
ミィミィさんの故郷、エィンバウンダイン村への攻撃は、8月11日から14日まで3日間にわたり続いた。村は遺体が腐るにおいで充満したと地元メディアは伝えた。
この攻撃により、ミィミィさんは、母だけでなく、たった一人の弟も亡くした。弟は空爆を逃れたが、村の中を歩き回っていた時に軍の兵士に見つかり殺されたという。
「弟が生きたまま燃やされたことをニュースで知りました。悲しくて言葉が出ないぐらいつらかったです」
一人だけの家族
ミィミィさんの家族の中で唯一、生き残ったのは父親だ。今は安全なところに身を隠しているが、インターネットが遮断されているためにビデオ通話は今もできないという。時々、国際電話をかけて話をするが、最初はたわいのない話をしていても、必ずあの8月11日の話題になるという。
筆者が訪ねたこの日も、ミィミィさんは父親に国際電話をかけ、途中から涙を流し始めた。「泣かないで」と電話の向こうから聞こえてくる父親の声もかすれている。ミィミィさんが「お母さんのことを思うと涙が止まりません」と言うと、父親は慰めの言葉を何度も繰り返した。そして二人は「いつか、ミャンマーが平和になったら一緒に住もうね」と、希望を込めて語り合っていた。
途絶えなかった活動
母と弟を続けて亡くしたことで、ミィミィさんは食欲がなくなっただけでなく、眠れない日々が続いた。「母と弟に生き返ってほしいと願うあまりに、そう錯覚しそうになっては、2人がもういないことを痛感して絶望し、眠れませんでした」
それでもミィミィさんは、悲しみをこらえ、今も毎週、仲間と一緒に名古屋駅の近くに立ち、「皆様の力でミャンマーを助けてください」と繰り返し呼びかけては、避難民の救済と祖国の支援のために募金活動を続けているという。
さらに、自分の給料の一部をミャンマーに送り、PDFの支援も続けているというミィミィさん。家族の話の時は涙にくれていた彼女だが、募金活動について尋ねると、涙を拭き、凛とした表情で「自分で稼いだお金で祖国を支援できることを光栄に思います」と、きっぱりと語った。