【歩く・見る・撮る】― 写真民俗誌/民族誌へのいざない ―
ミャンマー(ビルマ)から  ①<路上電話>

  • 2024/4/8

ミャンマーで国軍が与党・国民民主同盟(NLD)を率いるアウンサンスーチー氏らを拘束し、「軍が国家の全権を掌握した」と宣言してから3年以上が経過しました。この間、クーデターの動きを予測できなかった反省から、30年にわたり撮りためてきた約17万枚の写真と向き合い、「見えていなかったもの」や外国人取材者としての役割を自問し続けたフォトジャーナリストの宇田有三さんが、記録された人々の営みや街の姿からミャンマーの社会を思考する新たな挑戦を始めました。時空間を超えて歴史をひも解く新連載です。

 

 私が1993年5月に始めたミャンマー(ビルマ)取材は、今年2024年で31年目に入った。大都市ヤンゴンやマンダレーだけでなく、最北の村や最南端の地域など、ミャンマー全土を訪れたのは2007年のことであった。その頃になると、軍政下のミャンマーがどういう社会なのかを、ある程度、頭の中で理解してきたと思うようになっていた(もっとも後日、それは大きな勘違いだったことに気づくが)。
 それと同時に、長年の取材ゆえの気の緩みで、見るべき事柄を見なくなってしまう恐れも感じていた。そのため、次のような戒めの言葉を口にすることもあった。
 ― もちろん、自分が見聞きし経験したことが正しいと強調したいとは思いません。時間をかけたからといって、必ずしも現地を深く理解し、正確に現地の実態を日本に伝えているとも限りません。もし明日、初めてミャンマーに入る人がいたなら、その人はその人なりに新鮮な視点でミャンマーの姿を見ることができるでしょう。だからこそ、若い世代の人々ができるだけ多く、今のミャンマーを訪れて、直接現地の人に触れて欲しい。そこから始まると思います。―
 そして2021年2月、ミンアウンフライン上級大将が率いるミャンマー軍が起こした予想外のクーデターを前にして、自分はミャンマー(ビルマ)の何を見てきたのか、改めて自分のビルマ(ミャンマー)に対する見方の浅さに気づかされた。

 その憲法違反のクーデター発生を遡る10年前の2011年、ミャンマーでは軍出身のテインセイン氏が大統領に就き、形の上では文民政権となっていた。当時、ミャンマー人も含めた内外のジャーナリストや研究者の多くは、テインセイン政権は傀儡政権に過ぎない、その直前まで独裁者として権力の座にあったタンシュエ上級大将が院政を敷き、テインセイン氏は彼の操り人形に過ぎないと予想していた。実際、私もそのように考えていた。
 ところがである。
 テインセイン大統領は、政治囚の釈放・言論規制の緩和・武装抵抗少数民族との停戦/和平協議を開始・・・等々、予想を裏切る改革を立て続けに行っていった。
 一体、何が起こったのだ。
 当時、20年近くビルマ(ミャンマー)の軍事政権を取材していた私自身、どうしてそういう改革が起こったのか全く理解出来なかった。日本語や英語の文献を読み込み、現地のジャーナリストや知人と意見交換をし、ミャンマー全土を歩き回ったといっても、結局、私には見えていないモノがあった。
 そんな思いを頭の隅に、改めて取材者としての自分の立ち位置と取材過程を振り返ってみた。これまでの取材は主に、軍事政権に対する民主化勢力の動きや少数民族の武装抵抗闘争に力点を置いていた。また、取材現場で自分の見聞きしてきたことを日本の人に伝えることを自分の役割だと思っていた。
 何が見えていなかったのか ― テインセイン政権の改革に平行して、現地取材を続けながら考えていた。とりあえず、視点を変えること、発想の転換が必要なことを理解できるようになった。では、長年自分に染み付いたモノの見方をどうやって変えるのか? その答のヒントは取材現場にあった。
 2011年に始まったテインセイン政権下の改革の一つに、情報統制の緩和があった。そのおかげもあってか、都市や地方にかかわらず、全国規模で携帯電話やスマートフォンが、一気に溢れるようになった。それと同時に、誰もが新しい機器を使って写真や動画を送り合い、情報交換をするようにもなっていた。そう、軍政下の社会に潜入して取材し、知られざる現地の現状を日本で伝えるという外国人の私の役割は終わった。これからは現地の人が、外国人の眼というフィルターを通さず、自分たちの眼差しで情報発信をする時代になったのだ、と。

 作家の沢木耕太郎氏が、写真家の役割について言及している一文がある。
 「写真家の役割には明らかに2つのものがある。 ひとつは、人が『見たことのないもの』を見せることであり、他のひとつは、人に『見えないもの』を見させることである。」(沢木耕太郎「放浪と帰還 藤原新也」『像が空を』文藝春秋、1993年) 
 
 取材者としての自分はこれまで、日本人が見たことのない軍政下のビルマ(ミャンマー)の現状を伝えようとしてきた。これからの時代は、日本人にもミャンマー人も見えないもの(見たことのない)ものを見させることが、取材者には必要なのではなかろうか、と思うようになっていった。
 そこでとりあえず、これまで自分が撮影してきた約17万枚の写真を見直し、そこから何かが見えてくるのではないかと、自分の視点の再検証を試みた。すると、おぼろげに自分の頭の中に浮かんでいた考え方が鮮明になっていった。これまでの私のミャンマーへの向き合い方は、実は、ミャンマーの政治や歴史を中心にした、特に多数派ビルマ民族の社会を中心とした社会理解に偏っていたのではないか、ということであった。ビルマ王朝の変遷や歴代クーデター政権、民主化闘争や軍事政権に抵抗する少数民族の実情に重点を置いていた。取材現場で目の前に広がっていたミャンマー社会の日常や人びとの暮らしを見てこなかったのではないか。そこで、自分の写真を見直しながら、疑問に上がったことを現地のミャンマー人たちにぶつけてみることにした。
 「ミャンマー人とシャン人って、数の数え方は違うのですか?」
 「距離のキロメートルとマイルが混在しているのはどうして?」(ミャンマーは公式にキロメートル法を採用していない国の一つ〈現在、世界で3カ国のみ〉)
 「なぜ、ミャンマー数字とアラビア数字が混在しているの?」
 「ミャンマー社会って、そもそも、十進法なんですか?」
 これらの質問に対して、現地のミャンマー人やカレン人からは明確な回答はなかった。そう、分からない事柄は、現地の人か外国人であるかの区別はなかった。彼ら彼女たちも、自分たちの実生活を把握しているわけではなかった。

 これから紹介する写真は、全25回分ある。外国人にとっては、見たことないミャンマー(ビルマ)の日常であろうし、ミャンマー(ビルマ)人が見たらどこか懐かしい情景であるかもしれない。さらにこれらの写真を目にすることで、何が見えなかったのか・・・それを考えるヒントが写真の中に見出されたなら幸いである。

 ①<路上電話>

 観光旅行などの短期の旅行者ではなく、長期滞在者としてヤンゴンに暮らすようになって、まずお世話になったのは街角のいたるところで見かけた路上電話。
 そんな路上電話は、通信環境が有線電話から携帯電話やスマートフォンへと変った2011年のテインセイン政権発足前後から、激減した。

 
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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