監獄でも民主主義求めるミャンマーの政治犯【クーデタールポ 6】
収監された日本人記者が語る
- 2021/7/16
インセイン刑務所の中では、数百人はいようかという政治犯が、サッカーをしたり、木陰で休んだりしていた。私は、看守に案内されてその区画を通った。すると、何人かの政治犯がすっと近づいてきて、「ウィー・ウォント・デモクラシー」と耳元でささやいた。私がミャンマー最大都市ヤンゴンのインセイン刑務所に収監されていた間、監獄でもなおクーデターに反対する意思を示す人たちに多く出会った。
助け合う政治犯
2月1日のクーデター以降、私はヤンゴンから情報発信してきた。そして4月18日の夜に自宅にいたところ、軍と警察の混成部隊の家宅捜索に遭い、そして逮捕された。それから約一カ月の間、インセイン刑務所に収監されたのだった。
私が収容されていた中央監獄一号棟の独房には、11人の政治犯が捕らわれの身となっていた。なんでも戦前の英国植民地時代に建てられたレンガ造りではあるのだが、壁は白い塗料で不格好に塗られていたため、その往年の姿は想像できない。4月の灼熱の太陽があたりを照し、少し日光を浴びただけでも気が遠くなる私の2つ隣の独房に住んでいた米国籍のミャンマー人ジャーナリスト、ネイサン・マウンさんは、一日に何度もたらいで水を撒いていた。私も手伝ったが、水の量が足りないらしい。「こうやって土がびしょびしょになるくらい撒かないと涼しくならない」と言って、もっとたくさん撒くように促した。
彼らは獄中で助け合って生きていた。独房ではあるが、自由に外出できる時間があって、その間は周囲と話ができるのだ。私が着の身着のままで連行されたことに気づいた政治犯の一人が、看守を経由してTシャツを届けてくれた。また、インスタントコーヒーや、ビスケット、ドーナツなどが次々と届いた。家族らからの差し入れがくると、同じ獄舎の仲間同士で分け合っていたのだ。私も、差し入れが届くようになってからは、届いたボンカレーをお湯で温め、周囲に配った。
ジャーナリストで作家でもあるマウンターチョーさんは、歌手の物まねをして周囲を笑わせていた。私が民族衣装のロンジーをうまく着こなせていない様子の物まねも、とても大きな笑いをとっていた。
目隠しされ殴打
政治犯らの多くは、拷問を受けていた。私は日本国籍を持っているため、ひどい拷問はなかった。しかし、ネイサン・マウンさんの同僚のハンターネイン記者は、目隠しをされたまま手錠を後ろ手にかけられ、正座させられたまま棒で殴られ続けたという。ネイサン・マウンさんも同様の拷問を受けていた。ある日、ネイサン・マウンさんが手を開いたり閉めたりしているのに気づいた。何をしているのかと尋ねると、手錠を強く押し付けられる拷問を受けた傷がまだ痛むのだという。
そんな中でも、政治犯らは国の将来について案じ、議論を交わしていた。「クーデター体制から民主体制に向かう臨時政府が必要だ」「日本の動きはどうなのか」「少数民族地域の戦闘が激化しているらしい」。少しでも外の世界の動きを知ろうと、看守や弁護士から情報を取っては意見交換していた。
そんな中で、私は日本国籍があるということで、早く釈放になるのではないかとうわさされていた。私が複雑な思いを告げると、ある政治犯が言った。「君はここにいては何もできない。逃げたほうがいいときは逃げていいんだ。表現の自由がある日本で、ここで起きたことを伝えてほしい。ミャンマーにいる私たちにはできないことだから」。そして彼らの予想通り、5月14日、事実上の強制送還となる形で私は帰国した。
まだ数千人の政治犯が、インセイン刑務所をはじめ、各地の監獄に捕らえられているとされる。そうした人がすべて解放される日まで、情報発信を続けたい。