ミャンマーで国軍が与党・国民民主同盟(NLD)を率いるアウンサンスーチー氏らを拘束し、「軍が国家の全権を掌握した」と宣言してから3年以上が経過しました。この間、クーデターの動きを予測できなかった反省から、30年にわたり撮りためてきた約17万枚の写真と向き合い、「見えていなかったもの」や外国人取材者としての役割を自問し続けたフォトジャーナリストの宇田有三さんが、記録された人々の営みや街の姿からミャンマーの社会を思考する新たな挑戦を始めました。時空間を超えて歴史をひも解く連載の第19話です。
⑲<停電>
軍政下だった1990年代のビルマ(ミャンマー)は、観光ビザを取得していれば、最大4週間の滞在許可がおりた。それでも日本の約1.8倍も広い国土を見て回るには短すぎたため、2000年代に入った頃、観光ビザから長期滞在ビザへの切り替えを申請してみると、何が幸いしたのか、極めて例外的に認められたため、当時、首都だったヤンゴンに1年間、住むことになった。
滞在費用を抑えるために、格安のゲストハウスの一室を月単位で借り上げた。5階建ての4階にある8畳ほどの部屋で、窓はなく、電気が点かない時はまるで真っ暗な箱の中にいるようであった。停電になると、時代遅れのエアコンも、共同シャワー室に水をくみ上げるポンプも動かなくなり、苔むすような蒸し暑い室内で噴き出した汗を洗い流すこともできなかったが、そんな不自由な暮らしも、期限付きの滞在だったために我慢できた。
電気が来なくなるたびに、1階の受付で「パヤウンダイ(ろうそく)、ナロン(2本)、ペーバー(ください)」とお願いするのが常であった。「サー・ピビラー(こんにちは)」「ネェー・カウンラー(こんにちは)」という片言の挨拶以外に、生活者として真っ先に覚えたビルマ語が、「パヤウンダイ(ロウソク)」「ミー・マラー・ドブラー(電気はまだ来ないの?)」だった。その際、ロウソクを数える時には、ボールやスイカのように丸いものを数える時と同じ(ロン)という数詞を使うことも覚えた。
それにしても、これだけ停電が頻繁に起きると、電気が来ている間も「いつまた止まるか」という不安が拭えずツラかったし、そうした不安が日常生活に埋め込まれている社会には、どこかゆがみが生じているのではないかとも考えた。不安は、対象が明確ではない場合に生じる。停電とは本来、政治的・経済的な仕組みによって解決できるものであるにも関わらず、それをしない(できない)というのは、やはり軍事政権という為政者の能力と意思の問題なのではないだろうかと思ったりもした。
そう、そして、当然のことだが、このデジタル時代にあっても、電気がなければ社会の動きは完全に停止する。しかし、電気というものが一般生活に普及し始めてからまだ150年も経っていないというのだから、よくよく考えれば奇妙な話だ。個人的には、もっと昔から暮らしの中に電気があったような錯覚にとらわれる。現代日本に生まれたわれわれにとって、電気は生まれた時から存在しており、いまや電気がない生活など考えられない。私自身、1995年に阪神淡路大震災が発生した直後には、電気もガスも水道もない生活を数週間、経験したが、それは言うまでもなく自然災害によるものだった。
かつてミャンマーで停電が日常の一部だった頃(もっとも、2024年現在、停電はまた以前と同じぐらい頻繁に起きているのだが)の暮らしを紹介したい。
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過去31年間で訪れた場所 / Google Mapより筆者作成
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時にはバイクにまたがり各地を走り回った(c) 筆者提供