クーデター直後の日々を記録した映画『ミャンマー・ダイアリーズ』が劇場公開
厳しい状況下で創作を続ける人々の意思と声を私たちはどう受け止めるのか
- 2023/8/4
2021年2月1日にクーデターが起きた直後のミャンマーの人々を描いた映画『ミャンマー・ダイアリーズ』が、8月5日より劇場公開される。10人の映像作家たちが軍に隠れながら命を懸けて撮影したショートフィルムと、市民が自宅の窓などから弾圧の様子をスマホに記録し、インターネットの遮断をかいくぐってSNSに投稿した断片映像から成るオムニバス形式の本作は、2022年のベルリン国際映画祭でドキュメンタリー賞を受賞した。日本国内の配給を手掛けるのは、在日ミャンマー人家族の葛藤と決断を描写した『僕の帰る場所』(2017年)や、ベトナム人技能実習生の女性が直面する現実を描いた『海辺の彼女たち』(2021年)、第二次世界大戦中にインパール作戦で亡くなった日本兵の遺骨を収集する少数民族ゾミの人々を撮影した『白骨街道 ACT1』(2022年)を制作してきた映画監督の藤元明緒さんと、プロデューサーの渡邉一孝さんのコンビだ。圧倒的な力を有する社会の中で生きづらさを抱えながらささやかに生きる人々に光を当て続けてきた二人は、2021年をピン止めしたとも言える本作品を通じて何を届けようとしているのか。
理解が追い付かないまま閉じ込められた記憶
「ディスコミュニケーションがキーワードだと思うんですよね」。
インタビューの終盤、藤元さんがぽつりとつぶやいた。非常事態宣言が繰り返し流れても、部屋の中で耳をそばだてているだろう人々の姿は映らない。女性がピアノを弾く部屋には音色に耳を傾ける人はおらず、窓の外では人々が抗議の声を上げている。身ごもったことをなかなか打ち明けられずにいる女性の逡巡に気付かないまま、男性は武器をとるために街を離れることを決める。街でにらみを利かせる軍の前に仁王立ちになり猛然と抗議する年配の女性の声はまったく取り合われず、ビニール袋を被って自らの首を絞めながらうめく男性の声も外には届かない。緑深い山の中に響く拡声器の声は、誰にキャッチされるわけでもないまま空しく空にこだまする。視線も被写体も一見、バラバラに思われるこの作品は、ワンカット目から終盤まで、発信者と受信者が同時に一つの空間に映されることがない「断絶」によって貫かれ、ディスコミュニケーションが象徴的に表現されている、と藤元さんは見る。
10本のショートフィルムは作風がまったく異なるが、それぞれどんな場面で、何を映し、あるいは何を象徴しているかを説明するナレーションは、一切、入らない。また、間に挿入されているSNSの映像は、軍による弾圧の様子を市民が必死に撮影し、投稿したもので、日本をはじめ、各国の報道番組でキャスターによる解説が加えられて繰り返し流された。「まだ市民が集まり大々的に抗議デモを行うことができていた時期だ」「あと1カ月もしないうちに軍が発砲を厭わなくなり、こんな光景すら見られなくなる」「これは首都ネピドーで抗議デモに参加していた女性が頭部を撃たれるシーンで、この女性がクーデター後の初の犠牲者になる」…それぞれの映像を知っている者にとっては、当時の衝撃と悼みが改めて呼び起こされ、息苦しくなる映像が続くが、本作品ではやはり解説が入らない。
藤元さんは、「クーデター直後の人々の感覚を、観客に合わせて伝えようとしてくれているように思います」としたうえで、こう続ける。
「当時、あの場にいたミャンマーの人々にとって、目の前で起きていることは理解不能なことばかりでした。なぜあの人は有無を言わさず連れて行かれるのか、なぜあの救急隊員たちはあんなに殴られているのか。日一日と変わっていく状況もその理由も分からないまま、記憶をばらばらに閉じ込めざるを得なかったという意味で “ダイアリーズ”というタイトルは非常に適切だと感じます。説明が入ると、途端に客観的にならざるを得ませんが、それがない。観客が自由に解釈できる分、当時の現地の人々と同じ目線でつながることができる、不思議な作品です」
「穴ぼこ」がもたらす「自分ごと」の感覚
本作品のもう一つの特徴は、言うまでもなく匿名性だ。10人の映像作家や協力者たちは、全員、名前も顔も伏せられ、藤元さんと渡邉さんにも明かされていない。作品中、撮影場所が特定されそうな背景は一部、CGで消されている徹底ぶりだ。現地では軍の弾圧が今なお続いており、2021年2月1日以降、これまでに拘束された人は累計2万4154人、亡くなったのは3876人に上っている(2023年8月3日時点)。特に、アーティストや俳優、ジャーナリスト、映画監督ら表現者が再び次々と拘束されて自由を奪われ、沈黙を強いられている状況を鑑みれば、無理もない。
この点について、渡邉さんは「撮る人も、撮られる人も、協力者も、全員が匿名という意味で “穴ぼこ”だらけのような作品」だと表現する。「どの“穴”からスクリーンをのぞいても、自分ごととして関わることができる」という意味だ。確かに、見ているうちに、窓からこっそりとスマホで撮っているのが自分かもしれないし、家族を連行しようとする警察に「逮捕状があるのか」と食ってかかっているのが自分かもしれないし、目の前で人が撃たれ悲鳴をあげているのが自分かもしれないという差し迫った感覚に襲われるため、「撮るのを止めろ!」という警官の声には、心底、ドキッとさせられる。これも、説明が一切入らない分、映像と自分との間に距離が生まれないためだと言えよう。
© The Myanmar Film Collective
育ちつつあった作家たちが「匿名」という形で力を発揮
実際、クーデターの発生以来、アーティストや俳優、ジャーナリスト、映画監督ら表現者が次々と拘束されて自由を奪われ、沈黙を強いられるようになったミャンマーでは、弾圧に屈することなく自身の思いを伝えるために、「匿名アート」とでも呼ぶべき手法がしばしば取られている。
例えば2022年6月には、クーデター後に国外に拠点を移して発信を続けるキュレーターとアーティストのほか、収監にこそいたらなかったものの、一時、拘束されたことがあったり、往復の道で襲撃されるリスクを恐れ、外出すらままならない生活を送ったりしている女性アーティストら9人が、福岡と東京で開かれた共同作品展「匿名の女性たち―私は当事者ではない」に参加。来日したパフォーマーがマスクを被り、無言で抗議のパフォーマンスを披露したほか、オブジェや絵画などの作品を出展することで抗議の意思を示した。ほとばしる自身の思いと主張を伝えるために表現や創作を続けるアーティストたちが、自分が作者だと名乗れない無念さは察するにあまりある。それでもアートを武器に正義を訴えずにはいられないほどに、彼女たちの想いは強かった。
映画界の中にも、逮捕や拷問、殺害を恐れ、名を伏せながら活動を続ける制作者は少なくない。前述の匿名アーティストたちの共同作品展でも、匿名の映像制作者による作品が出展されていた。渡邉さんの知人にも、匿名で細々と映画制作を続けるミャンマー人たちが「撮り続けたい」という思いを実現できるようにとサポートをしているフランス人の女性プロデューサーがいるという。必ずしも政治的なメッセージのある作品をつくる人たちばかりではないというが、これまでに15人ほどの制作者を支援しているという。
藤元さんは、『僕の帰る場所』の撮影や編集を行っていた2013年頃から比べると、2016年頃には若手の映像作家やドキュメンタリストの活躍が目覚ましく、作品制作が活発に行われるようになっていたと振り返る。
「海外で教育を受けていた人たちが、民主化の機運の高まりを受けて続々と帰国し、社会で起きていることに感じていることや自分が生きている社会を向けたテーマに据えた作品を次々に作り出し、従来のトラディショナルな映画界に旋風を巻き起こし始めていました。彼らのような若手作家が意欲的に制作に取り組むことで、ミャンマー映画界が今後、豊かになっていくのだろうなと感じていました」
そうしたムーブメントが盛り上がりつつあったタイミングで、クーデターが起きた。彼らの表現は、社会風刺や軍に不都合な内容も多かったため、声を上げ続け、生き延びるために多くが逃亡したり、名前や顔を隠したりすることを余儀なくされた。急速に育ちつつあった作家やアーティストたちの力が、今、匿名という形で発揮されていると見ることができる。
つくる覚悟、つなぐ覚悟、そして受け取る覚悟
長い独裁体制下で人々が民主化を求め続けてきたミャンマーでは、民主化運動が全国に広がっては弾圧されるという歴史が幾度も繰り返されてきた。しかし藤元さんは、「今回の抵抗は、これまでとまったく同じではない」と指摘する。「8888民主化運動」が起きた1988年や、仏教僧らの呼びかけに応える形で広がった2007年の「サフラン革命」では、『ミャンマー・ダイアリーズ』のように、現地の人々が自ら撮影した映像が国際社会の目に届けられる機会はほとんどなかったためだ。
同様に、ミャンマーの現状を伝えるために危険を冒して制作を続けるクリエイターたちの映像を届けるプラットフォームも始動している。今年2月に誕生した「ドキュ・アッタン」では、8月4日現在、ミュージックビデオやアニメーション、ドキュメンタリーなど、9人の作家が制作した12作品が無料で公開されており、応援したい作家には制作資金を直接、寄付できる。発起人であるドキュメンタリー作家の久保田徹さんとジャーナリストの北角裕樹さんは、どちらもクーデター後に現地で撮影や取材を行い、拘束された経験をもつ。同サイトでは、9人のうち6人が顔も名前も公開している一方で、匿名作家が1人、名前は出しているが覆面の作家が1人、そして顔は出しているがペンネームを使っている作家が1人いる。4月に彼らの潜伏場所を訪ねて制作の様子を撮影した久保田さんは、「彼らの置かれた状況はそれぞれ異なり、それぞれが判断してリスクを分析している。情報の出し方は、各自の希望に沿っています」としたうえで、「『ミャンマー・ダイアリーズ』は軍が支配する都市部で制作されているのに対し、「ドキュ・アッタン」の作家たちは国外や抵抗勢力が支配するエリアで活動している人々が多いため、状況は大きく違います」と話す。
『ミャンマー・ダイアリーズ』の撮影者たちや、覆面で創作や表現を続けるアーティストたち、そして「ドキュ・アッタン」の作家たち――。身を置いている環境や背負うものが一人一人異なる以上、声のあげ方や思いの伝え方はさまざまで、支援の仕方にもさまざまな形がある。前出のフランス人プロデューサーのように支援する側も匿名という場合もあるし、「つなぐ」際のリスクをどうとらえ、責任を誰が負うべきかという問題も単純ではない。それでも、「このタイミングでつくられた作品がある以上、無視すべきではない」という思いは、皆、同じだ。厳しい状況下で覚悟を固め、命を懸けで制作を続ける人々に敬意を抱き、制作環境を支援し、彼らの作品と意思をつなげようと力を尽くす人たちもまた、それぞれに覚悟をもっている。
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説明を一切加えず、解釈も関わり方も観客の自由に任される『ミャンマー・ダイアリーズ』の中で、唯一、作り手のメッセージがはっきり提示されるシーンがある、と藤元さんは言う。終盤、拡声器の声が空しくこだましていた山の中にカメラが入り、黙々と歩く人々が映し出されるシーンだ。彼らが誰なのか、なぜ山を登っているのかはここでも説明されず、匿名性が続くが、観客はここでようやくコミュニケーションが成立するのを見ることになる。「諦めないで」という誰かの声が、確かに彼らの耳に届くのだ。冒頭から続いていたディスコミュニケーションが、初めて接続へと転じ、見事に回収される。「僕は非常に希望を持てるし、映画的な終わり方だと思います」(藤元さん)。
本作品では、「聞こえますか?」という、独り言にも似た女性のささやきが何度か流れる。そのかすかな声に私たちはどう耳を傾け、彼らの覚悟を受け止めることができるのか。そして、ディスコミュニケーションが続いた後に描かれるささやかなコミュニケーションに、どんな希望を託すことができるのか。「諦めないで」――。それは、平和を願うミャンマーの人々や支援者の声であると同時に、国際社会の声だと信じたい。
「解釈も関わり方も自由に設定できる」作品であるからこそ、カメラが記録した人々の姿に一人一人が向き合い、自分ごととして受け止めながら、クーデターから2年半という時間が流れた現地に、どうか今一度、思いを向けてほしい。
◆8月5日(土)より、ポレポレ東中野ほか全国順次公開
◆監督・制作:ミャンマー・フィルム・コレクティブ(匿名のミャンマー人監督たちによる制作)
◆原題:Myanmar Diaries | 2022年 | オランダ ミャンマー ノルウェー | 70分 | ミャンマー語 |カラー | DCP | 5.1ch
◆配給:株式会社E.x.N
◆監督・脚本:モモ、レイラ・マケール 製作:パノラマプロダクション
◆期間限定の無料配信は、電子チケット販売サービス「teket」を通じて申し込みが可能。申し込みはこちらから ⇒ https://teket.jp/837/25455
◆視聴期間:2023年8月4日(金)20:00~8月31日(木)23:59まで
◆配給:E.x.N