ミャンマーで国軍が与党・国民民主同盟(NLD)を率いるアウンサンスーチー氏らを拘束し、「軍が国家の全権を掌握した」と宣言してから3年以上が経過しました。この間、クーデターの動きを予測できなかった反省から、30年にわたり撮りためてきた約17万枚の写真と向き合い、「見えていなかったもの」や外国人取材者としての役割を自問し続けたフォトジャーナリストの宇田有三さんが、記録された人々の営みや街の姿からミャンマーの社会を思考する新たな挑戦を始めました。時空間を超えて歴史をひも解く連載の第6話です。
⑥<国境風景>
ミャンマー(ビルマ)は、隣国5カ国タイ・ラオス・中国・インド・バングラデシュと国境を接し、国土の広さが日本の約1.8倍あると説明される。
しかし、そこで、一つ気に留めておくべき事柄がある。それは、ミャンマー全土の地図を再確認してみると、例えば北方カチン州の州都ミッチーナ(北緯25度)は台湾の台北ぐらい(北緯25度)にあり、ミャンマー最北のタフンダン村(北緯28度)に至っては日本の奄美大島付近に位置する。
また、旧日本軍がかつてビルマに侵攻した際、東南アジア方面を担っていたビルマ方面軍が南方総軍指揮下にあったため、ビルマは「南方」にあるという思い込みが今でも強いようである。
ちなみに、外務省のウエブサイトで世界全図と東南アジアの地図を見ると、ミャンマー(ビルマ)の位置は、結構、南にある。また、ミャンマー本土の南西のアンダマン海には、インドの連邦直轄領である「アンダマン・ニコバル諸島」がある(地図上⑦)。
ミャンマーを考える際、現在の首都ネピドーや最大都市ヤンゴンだけでなく、この国はどの国と国境を接していて、それら隣国とどのような関係を持っているかを同時に考えてる必要があるのではないだろうか。
そんなミャンマー全土を頭に描きつづ、これまで私が訪れた国境周辺を紹介してみたい。

※外務省のホームページから世界地図と東南アジア部分を参照

カチン州最北部は奄美大島付近に当たる。※グーグルマップより筆者作成

※国境周辺の様子(c) グーグルマップより筆者作成

最大都市ヤンゴン(2006年までは首都)に近いタイ北西の国境の町メソット(Mae Sot:メソト、メーソット、メーソートとも表記)。ミャンマー側の町ミャワディとの間に、門構えの国境入国管理と関税事務所が建つ(地図上赤丸○)。(2022年撮影)(c) 筆者撮影

ミャンマーとタイを結ぶ「タイ・ミャンマー友好橋」の建設が始まったのは1995年。 (c) 筆者撮影

タイ側の門構えの国境入国管理・関税事務所の建物ができる前の様子。(1997年撮影) (c) 筆者撮影

雨期(5月~10月)の増水した流れで、国境線(モエイ川/タウンジン川)の形が変わる事態を防ぐため、護岸工事が行われ始めた。(手前がタイ、1997年)(c) 筆者撮影

欧米諸国から経済制裁を受けていたミャンマーは、国境地帯から物資の密輸入が行われていた(手前がタイ、1997年)。メソット周辺には1980年代以降、戦禍を逃れたミャンマーの少数民族の一つカレン人避難民が多く暮らす。最近では2021年のクーデター後、多数派のミャンマー人たちも多く流入するようになっており、海外からのミャンマー支援の拠点の一つにもなっている。ちなみに、タイ側を拠点に活動すると、両国の国境線の河を「モエイ川」とタイ語呼称するが、ミャンマー側の視点からすると「タウンジン川」とビルマ語読みになる。 (c) 筆者撮影

ミャンマーとタイの両国の国境線は約2400kmもあり、両国を隔てる場所は山であったり川であったりする場所も多い。両国の間で、国境貿易のために管理ができている地点は10箇所に満たず、国境が確定している長さも100kmに満たない。
メソットから北へ約120km。水量が減る乾期には、簡単に泳いで渡ることのできる河幅10mほどの場所もある。(地図上①:手前がタイ側、2020年)(c) 筆者撮影

ミャンマー・シャン州とタイ・メーサイ近郊の山中の国境付近(地図上②、2023年)。手前の道路はタイ側、竹柵を隔てた向こう側がミャンマーの軍の駐屯地。(c) 筆者撮影

ミャンマー本土最南端の町コータウンとタイ側の町ラノンの国境線は、クラブリー河(タイ語)が両国を隔てており、国境越えのために小型ボートが利用されている。(地図上③、2007年)(c) 筆者撮影

ミャンマー本土最南端の町コータウンとタイ側の町ラノン間の島には入国管理事務所もあった。(地図上③、2007年)(c) 筆者撮影

ミャンマー・ラオス・タイの3カ国が国境を接する、通称「ゴールデントライアングル」付近。(地図上④、2023年)(c) 筆者撮影

「ゴールデントライアングル」が近いミャンマーとラオス国境のミャンマー側には、主に外国人を対象にしたカジノ("PARADISE")が建つ。(地図上④、2023年)(c) 筆者撮影

アジア・太平洋戦争(第2次世界大戦)時、日本軍に対抗していた連合国は、中華民国に軍事物資を送るために、インドからビルマを抜けて中国に至る援蒋ルートを建設した。その援蒋ルート一つが「レド公路」である(地図上⑤)。(ザガイン地域ナガ民族自治区・パンサウン峠/パンソー峠、2018年)(c) 筆者撮影

現在はミャンマーの少数民族の一つナガ民族の自治区に該当する。2018年の訪問時、両国側とも国境警備兵は見当たらなかった 。(ザガイン地域ナガ民族自治区・パンサウン峠/パンソー峠)(c) 筆者撮影

アジアハイウェー1号線(AH-1)上にあるミャンマー(タムー)とインド(モレー)の国境近くの町。地元の人だけが利用する国境地点には、インド側には警備兵はいたが、ミャンマー側には国境管理をする者の姿は見えなかった。(地図上赤丸● 2018年)(ザガイン地域・タムー)(c) 筆者撮影

ミャンマーとバングラデシュの国境線であるナフ河(地図上⑥:バングラデシュ側から撮影)。
2009年末頃からミャンマー側に国境の壁が造成され始めた。(バングラデシュ・コックスバザール、2010年) (c)筆者撮影

雪山を望むミャンマー最北の村タフンダムにはチベット人が暮らす。(カチン州・タフンダン、2007年)(c) 筆者撮影

稜線に沿って村と村がつながるミャンマーの「辺境」の山岳地域をバイクで走り抜けた。(チン州、2018年)(c) 筆者撮影
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過去31年間で訪れた場所 / Google Mapより筆者作成
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時にはバイクにまたがり各地を走り回った(c) 筆者提供