アニメーションは世界を救う? 海外から見る日本の文化
変わる「異端者」との距離感
- 2020/2/1
八百万の神と異端との共生
そうした中、ロボットアニメーションは、日本独特の文化の上に成り立っていると感じる。どの国でも「オタク」的な人々からマニアックな支持を受けてはいるが、日本のように社会の中で広く受け入れられているわけではないからだ。
日本のロボットアニメーションの特異性は、以下の点に見ることができる。
第一に、車や飛行機などの乗り物が 人型に変身するロボット映画「トランスフォーマー」は、運転席には誰も乗らないが、日本の「ガンダム」や「エヴァンゲリオン」では、当たり前のようにコックピットに人が乗る。
第二に、海外、特に西洋の国々の映画では、ロボットは宇宙人と同様、自分たちとは異なる存在として描かれることが多く、「異端のものと分かり合い、受け入れることができる自分たちは素晴らしい!」というストーリーラインが基本となるのに対し、日本のロボットアニメでは、鉄腕アトムも、鉄人28号も、ドラえもんも、一話目から当たり前のように味方や友人として描かれる。
そうした違いの背景にあるのは、「すべてのものには魂が宿る」という八百万の神の考え方ではないだろうか。これは、自然のあらゆるものには神が宿っているとみなし、たとえ異端なものでも崇め奉るという文化だ。国土が狭く、地形や気候が多様で資源が豊富な日本では、例え自分とは違う異端の存在であっても、お互いを認め合いながら資源を分かち合い、認め合った方が、物事が円滑に回るという考え方が根底にある。そうした考え方こそが、「ロボットや宇宙人、あるいは妖怪すら人間の味方である」という思想を育んできたとは言えないだろうか。
荒野や砂漠が広がり、限られた資源を奪い合わないと生きていけない厳しい環境下の場合は、こんな悠長なことは言っていられなくなる。唯一の神を信じる者だけが、同胞として資源を分かち合うことができる。さもなければ、生き残ることができなかったのだ。そうして育まれるのは、異端の存在を受け入れづらい文化であり、たとえ乗り物がロボットに変身しても、人間が乗り込むことは決してない。