胡椒畑から見つめたカンボジアの30年
復興と成長、新たな試練 そして物語はまた始まる
- 2026/5/10
30年前、内戦直後のカンボジアで、戦火をくぐり抜けて残った数本の在来種の胡椒の木を大切に育てる老農夫と出会った。そこから始まった小さな畑は、やがて世界市場につながる農園へと成長した。そして、その歩みは、復興と成長を遂げるカンボジアの30年と重なっていく。その変化を畑から見続けてきたのが、倉田浩伸さんだ。
いま、創業以来の試練に直面しながらも、倉田さんのまなざしは未来を向いている。
畑が消えた日
2024年12月、コッコン州の農園から入った連絡に倉田さんは言葉を失った。長年、農園の管理を担ってきたフ・ティーさんが亡くなったという知らせだった。10日前に畑に行き、翌年の計画について話し合ったばかりだった。倉田さんと同い年のフ・ティーさんは父親の代から倉田さんの挑戦を支え続けてくれ、全幅の信頼を寄せていた存在だっただけに、ショックは大きかった。
だが、悲しみに浸る間もなく試練が続いた。フ・ティーさんの未成年の息子の後見人になったフ・ティーさんの兄が、全4.5ヘクタールの胡椒畑のうち、フ・ティーさん名義の区画で胡椒栽培をやめ、ドリアンに転向することを決めたのだ。おりしもその年は、ひどい干ばつにも見舞われ、約1600本の木が枯れる被害も出た。倉田さんの手元に残った畑のうち、収穫できるのは実質1.5ヘクタール、約1400本だという。
予想だにしていなかった、突然の苦境。倉田さんは自らに言い聞かせるように、「まあ、30年前に戻っただけですね」と、つぶやく。
戦火をくぐり抜けた木とともに始めた挑戦
倉田さんは、大学在学中の1992年、NGOのボランティア隊員として初めてカンボジアに降り立った。20年以上続いた内戦が国連の介入により終結した直後で、復興の輪郭すら見えていなかった頃だった。前年に湾岸戦争が勃発し、留学先のアメリカで「日本はカネだけ出して人を出さない」と言われた経験から、「自分は現場に行こう」と決意した。
難民キャンプから定住地に移る人々の収容センターで支援活動にあたるかたわら、産業の育成が必要だと考えるようになったのは、「ここを出てから暮らしていけるか不安。安心して働ける仕事がほしい」と彼らから聞いたことがきっかけだった。農産品を日本に輸出して農業を振興しようと、倉田さんは収容センターが閉鎖された後もたびたびカンボジアに通い、市場調査を続けた。
ヤシの実やドリアンも検討したが、胡椒に行き着いたきっかけは意外にも身近なところにあった。内戦が起きる前に日本の林野庁からカンボジアに派遣された経験がある大叔父が倉田さんの調査を聞きつけて、1960年代の農業統計をくれたのだ。かつてはカンボジアが「胡椒の王国」と呼ばれる世界有数の胡椒の産地だったことを知った倉田さんは、市場で胡椒を見かけては仕入先を尋ね、胡椒農家を探し回ったが、どの農園もポル・ポト時代に荒廃し、放置されていた。
調査を始めて2年が経った頃、ようやく探し当てた冒頭の老農夫が、フ・ティーさんの父親だった。ポル・ポト時代に捕虜収容所での生活を生き延びて、生まれ故郷のコッコン州スラエアンバル郡ドンペン村に戻った彼は、枯れずに残っていた3本の胡椒の木から少しずつ苗を育て、内戦前の約5分の1まで畑を蘇らせていた。
そんなフ・ティーさんの父親と一緒に畑を再生し、胡椒を栽培しようと決めた時の思いについて、倉田さんは「誰かがすでに栽培していたら買い付けようと思っていたが、他に栽培している人がいなかったため、自分たちでやるしかなかった」と振り返る。水の確保から病害虫対策、品質管理など、すべてが手探りだったが、それでも少しずつ畑を広げていった。
その後も、取り扱ってくれる商社がなかなか見つからなかったり、従業員に売り上げを持ち逃げされたりと苦しい時期が続いたが、「日本への輸出だけにこだわらず、カンボジアに来る観光客や在留外国人をターゲットにしてみたら」という妻・由紀さんの言葉が突破口になり、少しずつビジネスが動き出した。たとえば、今も続いているデンマークのスパイスメーカーとの取引は、この頃、同社の社員がカンボジアのアンコールビール社に資本参加しているカールスバーグ社の駐在員からカンボジア土産に倉田さんの胡椒「クラタペッパー」を渡され、興味を持ってくれたのを機に始まったという。
再生の歩みと広がる市場 変わる農村の景色
2000年代に入ると、倉田さんの後を追うように、新たに胡椒の生産に参入する事業者が増え始めた。これに呼応して業界団体が発足したほか、地域ならではの自然・社会の要因と結び付いた産品の名称を地域の知的財産として保護する地理的表示(GI)保護制度が導入されるなど、産業としての基盤整備も進んだ。生産量もこの20~30年で飛躍的な拡大を遂げている。「他にやる人がいなかった」胡椒は、カンボジアの一大産業となり、国際市場の中で一定の存在感を発揮するまでになった。いまや首都プノンペンの空港には複数のブランドの胡椒が並び、消滅の危機に瀕していた頃の面影はどこにもない。
胡椒の再生の歩みは、内戦とポル・ポト時代であらゆるものが壊されたこの国の復興の歩みとも重なっている。
「最初の一石を投げたのは自分かもしれないが、胡椒産業がここまで盛り上がったのはみんなの力」「ライバルが増えたという意味では大変な面もあるが、この国の胡椒が世界に知られるようになった意味は大きい」と、倉田さんは噛みしめるように話す。
しかし、カンボジア社会はその後もうねりをあげて変化する。特にこの10年ほどは、中国の存在感の高まりによって社会にさまざまな変化が起きたと倉田さんは言う。その一つが、ドリアンの栽培だ。ドリアンブームに沸く中国向けの輸出量が大幅に伸びたことで、ドリアンは「一本の木で数千ドルを稼げる」と言われるほど高収益作物となり、胡椒からドリアンに転作する農家が相次いだ。
同様に、中国三大高級食材の一つとして知られるツバメの巣の養殖も急速に広がった。かつて宿泊施設だった建物は次々と窓をふさがれ、ツバメの巣を養殖するための施設へと転用が進んだ。「人間よりもツバメの方が稼ぐんですよ」と、倉田さんは冗談めかして笑みを浮かべる。実際、カンボジアの農村は中国市場に引き寄せられ、景観が一変した。
加えて、全長800キロ以上の国境線を接するタイとの衝突による影響も大きい。領土の帰属をめぐって長年続いてきた対立が昨年5月に再燃し、両国の陸上輸送が止まっていることを受け、これまで資機材の調達をタイに依存していたカンボジアの物流が大きく変わりつつある。
倉田さんも防虫ネットや水道管をタイから輸入していたため、武力衝突が起きた当初は当惑したが、中国とベトナムからの調達に切り替えたところ、意外にもコストが下がったという。「隣国経由が一番便利だという思い込みが見事に崩れた」という倉田さんの言葉は、農業がもはや地域の中で完結せず、国際市場や地政学上の影響を直接的に受ける産業になったことを示している。
変わる国のなかで、変わらないもの
倉田さんが冒頭の大きな転機に見舞われたのは、こうしたカンボジア国内外を取り巻く大きな変化の最中だった。どんなに時間をかけて積み上げても、ある日突然すべてが変わってしまうことがある。今回の出来事は、海外で事業を続ける難しさを、あらためて感じさせる出来事だったと言えよう。創業以来のピンチが続いているが、「もう一度、イチからやり直すタイミングかな」と話す倉田さんの口調は、意外なほど淡々としている。
現在は、新たに設立した倉田ペッパーファームが運営する自社農園を管理しながら、再出発を模索している。2011年にカンボジア初のオーガニック認定を取得している倉田さんが目指すのは、「量」ではなく「質」。これまで通り伝統的な天日乾燥を堅持し、香りと品質の両立を図りながら、小規模でも持続的なモデル農園を実現することが新たな目標だ。
カンボジアではまだ胡椒の品質評価の基準や品評会の仕組みが十分に整っておらず、「オーガニック」を掲げていても、その外側では農薬によるペストコントロールが行われているケースも少なくないという。だからこそ倉田さんは、自然林の中で胡椒を育てながら、「真に持続的な農業とは何か」を改めて問い直したいと考えている。その姿は、30年前、誰もやっていなかった胡椒栽培に踏み出した頃とどこか重なる。
そして、視線は次世代の育成にも向いている。カンボジアでは、農園を任せられる後継者を新たに育て、現地の人々が主体となって運営する体制の確立を目指す。また、日本でも若い世代に経験を伝えようと、今年度から高校で教壇に立ち始めた。
胡椒の話になると、倉田さんの表情はふっと和らぐ。
「カンボジアの胡椒は香りが高く、辛みとのバランスがいい。マレーシアのサラワク産と似ていますね」「インドやスリランカの胡椒はミントのように鼻に抜ける強い辛味があって、カレーに合うんです」「ベトナムのフーコック産は大量生産で価格は手ごろだけど、オーガニックではないものが多いですね」。熱い口調から、胡椒への深い愛着が伝わってくる。
「30年前に戻っただけ」――。その言葉には、この国の変化を畑の中から見続けてきた人ならではの重みがある。畑の大半を失っても、積み重ねてきた経験は消えない。
胡椒とともに歩んできた30年は、カンボジアという国の変遷そのものだった。そして、その物語は、いまも静かに続いている。
(たまがけ・みつえ)国際開発センター(IDCJ)研究員/「ドットワールド」編集長。大学教授だった父の研究室の留学生たちとの交流を通じて世界に関心を抱く。東京大学教育学部卒、同大学院修了。カンボジアに渡って日本大使館や国際協力機構(JICA)で勤務後、国際開発ジャーナル社に入社し、2014年から編集長を務めた。2018年より現職。国内外の事業で意識啓発や広報関連業務に携わる傍ら、「現地から見た世界の姿」をテーマに発信を続けている。趣味はチェロ。



















