ミャンマーで国軍が与党・国民民主同盟(NLD)を率いるアウンサンスーチー氏らを拘束し、「軍が国家の全権を掌握した」と宣言してから3年以上が経過しました。この間、クーデターの動きを予測できなかった反省から、30年にわたり撮りためてきた約17万枚の写真と向き合い、「見えていなかったもの」や外国人取材者としての役割を自問し続けたフォトジャーナリストの宇田有三さんが、記録された人々の営みや街の姿からミャンマーの社会を思考する新たな挑戦を始めました。時空間を超えて歴史をひも解く連載の第11話 <ミャンマー軍>(下)をお届けします。
<ミャンマー軍> (下)
こちらの記事は、第11話 <ミャンマー軍>(上)からの続きです。

国軍兵士を満載した軍用トラックの車列(カヤー州・ロイコー郊外、2015年)(c) 筆者撮影。 2011年に始まったテインセイン新大統領による改革も軌道に乗り始め、ミャンマー(ビルマ)問題の最大の課題であった少数民族との停戦・和平交渉も進んでいるようにも伝えられていた。その一方で、半世紀以上に及ぶ少数民族との戦いは、実際のところは続いていた。

国軍兵士を満載した軍用トラック(タニンダイー地域・ダウェ~モン州・タンビュザヤ間、2019年)(c) 筆者撮影。
「おい、あいつ写真を撮っているぞ」。指を差され、そんな声が聞こえてきそうな一瞬だった。写真撮影を続けていて緊張するのはこんな時だ。

Taung Kwe Pagoda (タウンクェ・パゴダ)は、ミャンマー国内でも有数の観光地の一つ。タニンダイー地域から移動してきた部隊の兵士たちが、記念撮影に余念がなかった。(カヤー州・ロイコー、2015年)(c) 筆者撮影

1962年にクーデターを起こしたネウィン将軍(写真右)は、ビルマ社会主義計画党(BSPP:Burma Socialist Unity Party)を結成し、議長に就任する。BSPPは1988年の民主化デモの後、National Unity Party(NUP) と名前を変えて1990年の総選挙に参加するが、スーチー氏のNLDに大敗した。NUPの勢力は現在、ほとんど失われている。2015年に訪問した際は、独裁者ネウィン将軍の写真と建国の父、アウンサン(アウンサンスーチー氏の父)の写真がNUPの看板に掲げられていた(ザガイン地域・ナッマウ、2015年)(c) 筆者撮影

モン州を南北に貫く幹線(国道8号線)沿いに建つ寺院。(モン州・モーラミャイン~イェー、2006年)(c) 筆者撮影

モン州を南北に貫く幹線(国道8号線)沿いに建つ寺院の石碑の上部が塗りつぶされている。2004年に失脚したキンニュン首相の名前を記した石碑であった。軍部から追放された人物の名前は、歴史の遺物からも名前が消されるようだ。(モン州・モーラミャイン~イェー、2006年)(c) 筆者撮影

キンニュン氏は、1988年のクーデター後に発足した軍事政権SLORC(=国家法秩序回復評議会)の第1書記に就任した。彼は、「泣く子も黙る」と怖れられ、ミャンマー軍政の諜報機関(国防省情報局)のトップから首相にまで登り詰めた人物で、軍高官の隠された情報まで手にしていたとされたが、陰の実力者として力を持ちすぎたために失脚し、自宅軟禁の身となった。写真は、自宅軟禁の身を解かれた1年後のキンニュン氏。(ヤンゴン、2013年)(c) 筆者撮影

国民を鼓舞する軍のスローガン(Ⅰ)。旧国旗と行進する人びとの順番(民間人や少数民族の後に兵士の姿が続く)に、軍部の意図が隠されているようでもある。(ヤンゴン、2003年)(c) 筆者撮影

2010年から使われ始めた国旗を掲げて国民を鼓舞する軍のスローガン(Ⅱ)。新たな国旗を掲げた軍の兵士と武装警官が、民間人や少数民族の前に立って人びとを導いている。(タニンダイー地域・ダウェ、2019年)(c) 筆者撮影

ギュウギュウ詰めのボートに飛び乗ったら、周りの全員がミャンマー国軍の兵士であった。片言のビルマ語で話す外国人の姿が珍しかったのだろう、なんとなく「和やかな」雰囲気のまま船旅を続けた。国民を抑えつけている軍事政権の僕(しもべ)としての一兵卒の男たちは、贔屓目に見て、軍服を脱ぐと、ただの人であった。(ラカイン州・シットゥエー~ミンビャ、2003年)(c) 筆者撮影。 *そんな時、アウンサンスーチー氏が語った言葉を思い出す。「兵士たちが抑圧するよう通常訓練されているとは思いません。ただ従うように訓練されています。それで、もし、良いことに従うように訓練されているなら、彼らはとても速やかに変わることができるでしょう。」(アウンサンスーチー『希望の声』、岩波書店、2008年、p.67)
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過去31年間で訪れた場所 / Google Mapより筆者作成
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時にはバイクにまたがり各地を走り回った(c) 筆者提供