データ植民地主義で脅かされる難民の尊厳
援助を効率化する認証情報で固定化される差別や偏見

  • 2022/2/10

 先進国の援助機関は、難民の認定や識別のために、途上国の受益者の住所や家族構成などの詳細な個人情報から、指紋や虹彩などの生体情報までデータベース化している。ところが、こうした最もプライベートなはずのデータが漏洩し、あろうことか難民に敵対する現地政府や統治者の手に渡ってしまう事例が相次ぎ、問題化している。なぜこのような事態が起こっているのか。どうすれば守るべき弱者を守れるのか、整理する。

(*編集部注:本稿と併せ、昨年10月に好評いただいたデジタル植民地主義に関する分析もぜひご一読ください)

51万5000人分以上が流出

 赤十字国際委員会(ICRC)は1月19日、スイスのデータ保管業者に預けていた51万5000人以上の国際難民の個人情報が、正体不明のハッカーからサイバー攻撃を受けて盗まれたことを発表した。これらの難民たちは、紛争や移住、災害などで家族と離ればなれになった「非常に弱い立場にある」人たちだ。
 ICRCによれば、今回漏洩された情報には、氏名、所在地、連絡先に加え、「認証情報」が含まれていたという。「認証情報」とは、人間の最も個人的な領域に属する指紋や虹彩などの生体データを指すと思われる。難民たちは、出身国や居住国において迫害や脅迫を受けないために、およそ考え得る最大限の保護が必要なはずのデータを盗られ、身の安全が危険にさらされる立場に追い込まれてしまったのである。

虹彩は、最も個人的な生体データのひとつだ(Pexels)

これだけでも由々しき事態であるが、残念なことに、それは氷山のごく一角に過ぎない。データ流出の背景に多くの国際機関の無責任と怠慢があることは以前から繰り返し指摘されていたにもかかわらず、手間もカネもかかる解決策が採られて来なかったことを雄弁に物語る事例だと言えよう。
 テクノロジーの適正な利用推進のために活動する国際NPO「エンジンルーム」の副代表を務めるザラ・ラーマン氏は2017年10月、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)がバングラデシュに逃れた隣国ミャンマーの少数派イスラム教徒ロヒンギャの生体データや写真をデータベースに登録していることについて、「これらのデータの提供と支援が交換条件になっていると信じた難民が、不本意にデータ提供する立場に追い込まれる可能性が高い」と指摘していた。
 さらにラーマン氏は、「いったん登録されたデータを消去してもらうことは不可能に近く、取り扱いや管理に懸念がある」「故国ミャンマーで迫害される怖れから帰還を望まない難民をバングラデシュから強制送還するために使われる恐れがある」と指摘していた。
こうした心配は、現実のものとなった。難民の人権を擁護する立場にあるはずのUNHCRが、これらのデータを難民の世話をする現地バングラデシュ政府と共有していたのである。

着の身着のまま逃れてきた難民たちの身分証明は、支援側にとり困難な問題をもたらす。写真は、ロヒンギャ難民たち。(c)UNHCRのHPより

 ところが、難民収容の負担を好まず、ロヒンギャをミャンマーに追い返したいバングラデシュ政府が、共有された少なくとも83万人分のデータを、あろうことか、難民を迫害するミャンマー軍政に対し提供していたことが、2021年に明るみに出たのだ。もちろん、本人たちの同意は得ずに、だ。

 国内のロヒンギャ取り締まりを強化したいミャンマー軍政は、83万人の中から「本国送還の要件を満たす」4万2000人の引き渡しを要請した。しかし、ロヒンギャたちの「われわれはミャンマー国民である」という主張が認められていないため、送還された後は適正な扱いを受けられない可能性が高い。

 バングラデシュとミャンマーは、1970年代と1990年代にも同様の本国送還を共同して行っており、両国政府の変わらぬ姿勢に照らせば、UNHCRは最初からデータをバングラデシュ政府と共有してはならなかったはずである。

 ラーマン氏は、国連の難民のデータ保護に関する無責任さを評して「尊厳と人格の蹂躙だ」「欧州人の個人データであったなら、このような扱いを受けたとは絶対に考えられない」と厳しく批判した。

難民たちの命は、国際社会からの支援なしには維持できない。そこに、支援側との権力の非対称性が生まれやすい。写真は、難民キャンプを歩くシリア人のこども (c) Pexels

 加えてUNHCRは、米国定住を希望する難民の個人情報および生体データを2019年から本人の同意なしで米国土安全保障省に提供し始めている。これらのデータは、情報機関をはじめ、国防総省や各自治体の警察などと共有され、仮に難民申請が認められなくても、データは米政府の管理下に残される。受け入れ国が指紋や虹彩データを要求するのは、難民を潜在的な犯罪者やテロリストとして見ている証左であり、それらが悪用されない保証はない。

援助機関の都合で進む収集

 ここまで読んだ読者の多くは、おそらく「そもそもなぜ国連の人権機関が、生体情報が必要だと考えるのか」「なぜ国連やその人権機関は、最もプライベートな指紋や虹彩などの生体データを侵襲的な方法で収集し、あまつさえ各国政府に渡すことが許されるのか」と疑問に思うであろう。

 そうした疑問に対し、ハーバード大学の人道イニシアティブ(Harvard Humanitarian Initiative)のリア・ウェイド氏が、分かりやすい解説を出している。それによれば、UNHCRは全世界で3000万人以上の難民に身分証明書を発行しており、このIDカードこそ、国際社会からの食料支給や、住宅・教育・援助金給付・定住斡旋などを受けるためのパスポートになっているのだ。

 もっとも、それだけなら指紋や虹彩データは必要ないように思える。しかし、限られた人員と資源で運営される難民支援活動には、効率性が求められる。そこに、侵襲的かつ監視的なテクノロジーが入り込む余地が生まれるのである。こうしてUNHCRは、2004年から段階的に生体情報を採用するようになった。

ヨルダン国境でシリア人難民のこどもたちにビスケットやジュースを配るUNHCRのスタッフ(c)UNHCR Thailand/Facebook 

 例えば、シリア難民の虹彩を受入国の指定金融機関ATMのスキャナーで読み取り、割り当てられた現金を即座に引き出せるIrisGuardという仕組みが構築されている。身分を証明する書類をデジタル化された指紋・虹彩・顔面スキャンのデータに置き換えることにより、難民本人しか持っていない個体の特徴でサービスを瞬時に提供できる上、確認のために他言語で会話する必要もなく、書類を偽造した詐欺も防げるため、効率が良いわけだ。
 さらに、シリア難民が隣国ヨルダンの食料品店で食料を受け取る時も虹彩認証によって本人確認を行えるなど、「生体情報パス」には、非常に弱い立場にある難民が生きてゆくために必須の営みの大半を代替えできる利点がある。また、国連世界食糧計画(WFP)など別の機関が支援を行う際に事務作業が重複するというムダをなくし、規格統一もできる。極めて合理的な、「決済アプリの難民版」とも言える仕組みだと言えよう。
 こうして援助活動家たちもシステムに組み入れられ、彼らが生体情報を採集するUNHCRの下請け的な役割を担うようになっているのだ。

非対称的な権力構造

 しかし、国際機関の援助活動を極限まで効率化できるテクノロジーは、あくまでこれらの組織の都合の上に組み立てられたものであり、難民の利益を害する場面も多い。

指紋採取は、犯罪者に対する扱いを想起させる侵襲的なものだ (c) Pexels

 まず、こうしたデータの収集自体、本人たちから同意を得たという体裁を取りながらも、実際には非対称的な権力の構造によって、難民たちが不本意ながら「同意」したり、データの扱いに関する同意の意味を理解せずに「イエス」と答えたりする実態がある。「ノー」と言えば、食料も住宅も教育も支給金も定住斡旋も受けられないという恐れが難民側にあるからだ。難民たちの主体性や尊厳は、そのようにして奪われる。
 また、彼らには、先進国のデータセンターに転送・保管された自らのデータに関する所有権もコントロール権もない。データは十分な同意や確認なしに利用され、共有される。前出のラーマン氏が、ロヒンギャの人々の個人データの扱いについて「これが支援を提供する側である欧州連合(EU)の、一般データ保護規則(GDPR)に守られたヨーロッパ各国の国民のデータであれば、このような(非倫理的な)扱いは絶対に考えられない」と非難するのも、まさにこうした新植民地主義的・人種差別的な背景をかぎ取ってのことだ。

難民とテロリズムはイメージ的に結びつきやすく、監視・取り締まり対象になりやすい (c) Pexels

 実際、たとえばWFPは、食糧援助目的で収集した生体データを他の国連機関である人道問題調整事務所(OCHA)をはじめ、国際移住機関(IOM)、欧州司法裁判所、欧州人権裁判所、欧州国境沿岸警備機関、EU指紋データベースのEURODACなどと共有しており、さながら支援を隠れ蓑にした「有色人種の潜在的なテロ犯罪者管理」の観を呈している。難民に対する人権侵害は、深刻度を増していると言えよう。
 そもそも援助機関・組織は、生体データを収集する段階で、データがどのように、誰によって、何の目的のために使用されるか、分かりやすく明確に説明しない。これには言語の疎通や通訳の質の問題もあるが、現実的に見て難民に「ノー」の選択肢はない。生きてゆくためには、自分の個体データを「売り渡す」よりほかないのだ。

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