ミャンマー(ビルマ)知・動・説の行方(第0話)
《多》の座標系のリアリティに迫る複眼的な見方を求めて
- 2025/1/8
- 知・動・説の行方
民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは、宗教や言語、文化、そして歴史などを共有し、民族意識により結び付いた人々の集まりを指すとされますが、多民族国家ミャンマーをフィールドにしてきた文化人類学者で広島大学名誉教授の髙谷紀夫さんは、文化と社会のリアリティに迫るためには、民族同士の関係の特異性や、各民族の中にある多様性にも注目し、立体的で柔軟な民族観の構築が必要だと言います。
特にビルマとシャンの関係に注目してきた髙谷さんの新連載の開始に先立ち、髙谷さん自身の横顔を明らかにするスペシャル回をお届けします。
ミャンマー(ビルマ)との関わり
筆者が人類学徒としてミャンマー(ビルマ)を「知る」営為を重ね、はや50年が経とうとしている。これから始まる連載は、そんな筆者が1983年に初めて渡航してから、2019年にコロナ禍騒動が起きる直前までフィールドワーカーとして「動く」ことを続け、蒐集したデータを基にエスノグラファーとして説く試みである。連載開始に先立ち、筆者自身の横顔と関心の所在についてお伝えしておきたい。
この50年間、筆者はエスノグラファーとして、現地協力者の支援と教示を仰ぎつつ論考や講演を通じてミャンマー(ビルマ)について「説く」活動を行うかたわら、留学生を研究室に受け入れたり、ヤンゴン大学の客員教授を無報酬で務めたりと、微力ながら現地への恩返しに取り組んできた。そして現在も、2021年2月に起きた軍事クーデター以降の政情不安に心を深く痛めながら、多民族・多宗教・多言語国家ミャンマー(ビルマ)の動向を注視し、日々、「知・動・説」を深めている。
ミャンマー(ビルマ)は、総人口の約3分の2がビルマ族で、宗教的には仏教徒が8割以上を占め、ビルマ語を公用語とする国である。それぞれの多数派(以下、《多》と記載する)は、互いに重なり合いながら、「ビルマ語を母語とするビルマ族仏教徒」というマジョリティの基盤となっている。しかし、実際には、ビルマ語以外を母語とする少数民族がいる。キリスト教徒も、ムスリムも、ヒンドゥー教徒もいる。さらに、歴史的に見ると、中国系、ヨーロッパ系、インド系、ネパール系などの出自を背負う人々もいて、土着化している。《多》の座標系は、マイノリティをめぐって空間軸と時間軸が交差しているのだ。
では、ビルマ語を母語とするビルマ族仏教徒のマジョリティと、民族・宗教・言語のいずれかが、あるいはすべてが異なるマイノリティとの間のリアルな関係は、どのように知識化したらよいだろうか。あるいは、どのように実体験したらよいだろうか。そして、どのように歴史を考慮したうえで言語化したらよいだろうか。
筆者は1983年にアジア諸国等派遣留学生として初めてビルマ(ミャンマー)を訪れ、2年にわたり滞在した。《多》民族国家であるこの国に居住する諸民族への人類学的な関心を漠然と抱いていたのだが、当時は少数民族が集住している地方を訪問することが厳しく制限されていたため、諸民族と出会う機会は、ラングーン大学(現ヤンゴン大学)の教員や学生らに限られていた。
12年後の1996年、今度は大学歴史研究センターの客員研究員として、再び10カ月にわたり滞在する機会を得た。その頃は、軍事政権が経済開放政策に転じたこともあって、地方への移動が少しずつ認められるようになっていた。筆者も、カチン州やモン州、ラカイン州、そしてシャン州へと旅をし、その過程でシャン研究に目覚めていくことになる。その最大のきっかけとなったのが、カチン州でシャン系の人々と出会ったことだった。この経験によって、筆者のシャン研究に対する視野は確実に広がり、その後、繰り返し訪れることになるシャン州でフィールドワークを行う際の指針を得た。言い換えれば、このカチン州への旅こそが、「シャン」に対する筆者の見方を大きく変えるパラダイム・シフトとなったのである。
文化の普遍性と多様性を問い続けて深めた思考
ところで、人類学徒の研究活動の二本柱はフィールドワークとエスノグラフィーだが、その基本となるのは、フィールドの人々のリアリティを知ろうとする好奇心と、対等な交流とコミュニケーションだと考えている。その観点から、連載開始に先立ち筆者自身のことをもう少しだけ振り返っておきたい。
筆者が初めてフィールドワークを行い、エスノグラフィーをまとめた現場は、ミャンマー(ビルマ)ではなく、沖縄県与那国島だった。1980年代前半のことである。その後、1990年に在所を広島へ移し、ミャンマーへ通うかたわら、鹿児島や広島県備後地方、三次市周辺を探索してきた。国内で動く時には、並行してミャンマーに思いを馳せ、逆にミャンマーに滞在中は、日本のフィールドに想像力を働かせてきた。
現前のフィールド社会に愛着を抱き、どっぷり浸かること(アタッチメント)を心掛けながらも、客観的で、対象から一定距離を確保する超越した姿勢(ディタッチメント)の維持に努める筆者の志向の根底には、「平易で公平なものの見方を大切にしたい」という思いがある。換言するなら、かたや「人間はなぜこれほど普遍的なのだろう」という問いを設定しながら、もう一方では「人間はなぜこれほど多様なのだろう」という問いを展開させることで、文化の普遍性と多様性について思考を深めてきたのである。一見、遠回りのようだが、その作業の反復こそが《多》の座標系のリアリティに迫る複眼的な見方であると信じてきた。
人類学徒として「知る」ことは、「動く」ことと「説く」こと、つまり、研究成果の蓄積とフィールドへの還元によって評価される。筆者は、通算4〜5年にわたりミャンマー(ビルマ)に滞在し、さまざまな文化イベントに参加しながら、《多》の座標系について考えてきた。
この連載では、現地で開かれた文化イベントに関する時系列な記録を縦軸とし、当時のフィールドノートの記録などに残る過去と現在をつなぐ思考を横軸として、撮りためた写真の中から、特に《多》民族が表象されているものを紹介しながら、自らの「知・動・説」の足跡をたどることにしたい。
*筆者注*
ミャンマー(ビルマ)では、1989年に当時の軍事政権によって、国際関係上の英語の国家名や地名が現地語発音に近い表記に変更された。その歴史に配慮して、この連載では、カタカナ表記を新旧併用したり、適宜、使い分けたりすることをお許し願いたい。また、カタカナで〈タイ〉と表記すると、語族や民族系統の冠称であるTaiと、現在のタイ王国の国民や言語を指すThaiを区別することができない。この連載では、原則的に〈タイ〉を前者の意味で活用するが、後者を意味する場合は、タイ王国やタイ(Thai)語などと表記する。
たかたに・みちお(ビルマ語名 Than Tun Sein/タントゥンセイン)
文化人類学者。広島大学名誉教授。文化人類学・東南アジア民族学・知識人類学専攻。1983〜1984年に、文部省アジア諸国等派遣留学生としてビルマ連邦社会主義共和国に留学。その後、1996〜1997年に文部省在外研究員としてミャンマー連邦大学歴史研究センターの客員研究員を、また2012〜2019年にヤンゴン大学の客員教授を務めた。主な著書に、『ミャンマーの観光人類学的研究』(広島大学総合地誌研究資料センター 1999年)、『ビルマの民族表象〜文化人類学の視座から』(法藏館 2008年)、『ライヴ 人類学講義〜文化の「見方」と「見せ方」』(丸善 2008年)など。