ミャンマー避難民らに教育を
学校を開いた女性たち

  • 2025/11/2

 2021年2月にミャンマー国軍が起こしたクーデター後、タイ北西部のメソトやその周辺に、多数の避難民が流入した。クーデター前からいた移民労働者らを含め、数十万人のミャンマー人が住んでいると言われる。非正規の形で滞在し、経済的にも厳しい生活を送るなかで、懸念されるのが子どもたちの教育だ。避難民や移民のための学校を開いている女性たちに胸の内を聞いた。

ホワイト・ラーニング・センターを訪れると、子どもたちが手を合わせて迎えてくれた(筆者撮影)

倍増した生徒

 タイ北西部の国境貿易の町メソトから南東に約40キロ、途中農地や林に囲まれた風景を車で走る。休憩を挟み1時間半ほどで、ポップラ郡内にある移民学校「ホワイト・ラーニング・センター」に着いた。到着するとすぐ、子どもたちが両手を合わせ、筆者を迎え入れてくれた。
 校長を務めるのはミャンマー出身のカインカイントゥン(50)。同校はミャンマーにルーツを持つ子どもたちのため、カインカイントゥンが2011年に創設した。8月中旬時点で、保育園・幼稚園児から9年生まで184人が通っていた。
 2021年2月にミャンマーで国軍のクーデターが起きる前、同校の生徒は90人台だった。クーデター後に生徒が倍増。創設当初の生徒数55人と比べると、3倍を超えている。

 生徒の急増はクーデターと、その後の内戦が影響している。国軍はクーデターへの抗議活動を弾圧し、多数の市民を拘束した。反発する若者らは民主派の武装組織「国民防衛隊(PDF)」に加わり、一部の少数民族と連携して、武装闘争を始めた。
 こうしたなかで、民主派の活動家、軍政下での仕事をボイコットする「市民不服従運動(CDM)」に参加した公務員、戦闘地域の住民など、国軍の弾圧や内戦から逃れた人々がタイに押し寄せたのだ。
 地元NGOによると、ポップラ郡にはミャンマー人が推定で7万人以上いるという。「クーデター前、周りにいるミャンマー人は中部のバゴー地域からの移民が中心だったが、クーデター後はミャンマー各地からポップラに逃れてきている」。カインカイントゥンは変化の大きさについて語った。

生徒らの厳しい生活環境について話したカインカイントゥン(筆者撮影)

 カインカイントゥンはもともと、ミャンマーの国境省職員だった。タイ沿いの国境地域で徴税業務を担当していた。
 だが、納税を嫌がる商店主も多く、穴埋めに身銭を切ることもあったため、新天地を求め、タイで活動するNGOの仕事に応募。審査に通り、2010年にNGOスタッフとしてポップラに来た。
 傷病患者や妊婦を病院に送迎したり、住民に予防接種を受けさせたり、地域で医療や保健分野の仕事をする傍らで、自身の蓄えや給与を原資に小さな学校を開いたのが、移民への教育支援の始まりだった。

半数近くが授業料を支払えず

 学校の規模拡大は、必ずしも喜ばしい話ではない。
 授業料は年300バーツ(約1400円)だが、「支払えるのは184人中100人ぐらい」とカインカイントゥンは明かす。「生徒らの親の大半は安定した職がないから」
 生徒らの親は、主に、タイ人の雇用主のもと、周辺のトウモロコシやジャガイモの畑で働く。ただ、季節労働のうえ、避難民が増加したため、仕事を得にくくなっている。
 正規のタイ在留資格がない人も多い。タイの法定最低賃金は現在、1日400バーツ(約1900円)だが、足元をみられ、それ以下の賃金で雇われている。
 困窮家庭には授業料を強いていないにもかかわらず、9年生まで続ける生徒は限られ、例年、10人以下にとどまる。6、7年生で学校をやめ、仕事をする生徒が多い。昨年も、成績のよかった4年生の男子が通学せず、建設現場で働くようになった。「生計を立てるため、4年生の子どもにさえ頼らざるを得ない家庭がある」
 9年生を終え、メソトなどにある高校に進む生徒はさらに少なく、年2~3人だという。
 学校を離れた子どもたちは、10歳前後だと、家族とともに近くの農場や建設現場で働く。10代後半になると、働き口が多く、比較的高めの収入が得られるタイの首都バンコクに行くケースが大半だという。

ホワイト・ラーニング・センターの生徒たち(筆者撮影)

 ホワイト・ラーニング・センターには、CDM参加者を含めて13人の教師がいる。生徒増に合わせ、昨年の10人から3人増員した。給与は月2000バーツ(約9400円)に抑えているが、授業料を払えない生徒が半数近いなかで教師を増やしたため、人件費の確保に苦労している。
 生活のため、よりよい報酬を求めて、学校を後にする教師もいる。
 ミャンマー側の国境地域には、中国系のカジノが点在する。犯罪組織が入り込み、オンライン詐欺の拠点になって国際問題化する一方で、雇用の場にもなっている。
 ホワイト・ラーニング・センターにいた男性の英語教諭は2020年、同校を辞め、国境地域のカジノのホテルで働き始めた。英語力を生かし、学校の5倍に当たる月1万バーツ(約4万7000円)の収入を得ているという。

ホワイト・ラーニング・センターのトタン屋根の校舎(筆者撮影)

 クーデターから4年半あまりが経過したが、内戦の先行きは見えない。混迷するミャンマーから国外を目指す市民は後を絶たない。一方で、ミャンマーへの国際的な関心は低下している。
 「学校への寄付は限られ、困難は多い」。カインカイントゥンは取り巻く環境の厳しさに触れ、こう切望した。「生徒が増えるなか、教師の数も減らしたくない。どなたでも、援助してもらえればありがたい」

シンガーと学校

 雨季の8月中旬、小雨混じりの夜、タイ北西部メソトにあるレストランの屋外ステージで、生バンドが軽快なポップスを奏でていた。その中央で歌う女性が、ミャンマー人のフライデー(35)だった。
 フライデーはシンガーとして夜間にバーやレストランで歌う一方で、ミャンマーからの移民や避難民向けに2年半あまり前から私的な学校を開いている。「出演料は学校の運営資金に充てている」と話す。

「私たちの学校」で教えるフライデーと生徒たち(2023年8月、筆者撮影)

 学校名は「Our School(私たちの学校)」。生徒の子どもたちが名付けた。場所はミャンマーとの国境近く。町の中心部から離れ、サトウキビ畑や水田に囲まれている。
 学校というより、「寺子屋」と呼んだ方が実態に近いかもしれない。タイの地方でよく見かける高床式の木造家屋を教室に使い、近隣に住む約70人が通う。
 昨年までは、8人がボランティアで先生を務め、通勤に要する費用はフライデーが出していた。だが、その費用負担が重くなってきたことなどから、今年はフライデーが1人で教師を務める。

 科目はミャンマー語やタイ語、英語、算数、美術、音楽のほか、人権や環境についてなど。月2回ほど、CDMに参加してタイに逃れた医師の協力を得て、健康についての教育も実施している。
 メソトやその周辺には、タイ当局に認められた移民のための学校が60校以上ある。規模はフライデーの学校より大きい。
 それでもなぜ、フライデーの学校に通う生徒がいるのか。フライデーは「生徒や親の多くは、タイの在留資格を持たない。親は総じて非正規の農業労働者で、在留資格を取得する費用を支払う余裕がなく、公式の学校に通うのは難しい」と説明する。
 フライデーによると、不法滞在の生徒の親たちは、タイの法定最低賃金を下回る1日50~250バーツ(約200円~1200円)で働く。
 在留資格を持たず、家から離れた学校に通うのは、警察に拘束される危険があり、交通費もかかる。
 困窮のしわ寄せは子どもにも及ぶ。少しでも世帯の実入りを増やすため、子どもまで農場での労働に駆り出される。また、ある程度成長した子どもが、親が働きに出た日中、乳幼児の世話をさせられる。
 こうしたことから、正規の在留資格がなくても学べる場所が、避難民らの生活拠点の近くに必要だという。

手づくりのアクセサリーの前でほほ笑むフライデー。こうした売り上げも学校の資金となる(筆者撮影)

 通常の学校は朝から午後までが授業時間だが、フライデーの学校は午後4時半~同7時にしている。仕事の手伝いや乳幼児の世話が終わってから、生徒が通学できるようにするためだ。入学金や授業料も求めていない。フライデーは前記の出演料のほか、生徒らが描いた絵をプリントしたTシャツを売るなどして、教育用品を購入する資金にしている。
 親しい友達が文房具を支援してくれたり、日本のNGOがクラウドファンディングで資金集めをしてくれたりしたこともある。

壊された夢

 メソトに学校を開いたフライデーだが、出身地は600キロ以上離れたミャンマー中部の古都マンダレーだ。フードデリバリー業を営みつつ、ビジネススクールで指導者を務めていた。音楽が好きで、自己流ながら小さなイベントで歌っていた。
 「とてもたくさんの夢があった。旅をするのが好きで、冒険家にもなりたかった」。フライデーは笑みを浮かべ、当時を懐かしむ。

 フライデーを取り巻く環境は2021年2月、国軍が起こしたクーデターで暗転した。「夢は全て壊された。軍の独裁で、私たちの国や社会は後退してしまった」
 クーデター後、フライデーは抗議デモに参加した。国軍の弾圧で大規模なデモができなくなると、若者の一部は武装闘争に身を投じた。フライデーもマンダレーの若者らでつくるPDFに加わった。
 PDFで活動を続けるうちに、フライデーは国軍に目を付けられるようになった。PDFの上官は、マンダレーを離れ、国軍に対抗する勢力が支配する「解放区」に行くように命じた。
 少数民族カレン人の血を引くフライデーは2021年8月、カレン人が多く暮らすミャンマー東部カイン(カレン)州を選び、移動した。カレン人武装勢力のもとで軍事訓練を受け、現地で活動するPDFの一員になった。
 だが約1年後、フライデーは心のバランスを崩し、自殺まで図った。マンダレーでともに活動したPDFの「同志」たちの大半が、国軍に殺されたり、拘束されたりしたためだった。前線を離れ、密かに精神科で治療を受けた後、メソトに移り、2023年1月、学校を開いた。
 「私はいったん、人生をあきらめかけた。だからこそ、自分の人生に意味を持たせたかった。メソトで多くの子どもを見かけた時、私にはなすべき務めがあると気付いた」

「私たちの学校」の生徒たち(2023年8月、筆者撮影)

 創設最初、生徒は9家族13人。図書スペースをつくったり、建物の修繕をしたりしながら、学校を育てていった。
 「私はプロの教師ではない。学校というより、コミュニティーをつくっている」。フライデーは強調する。「私も子どもたちも、みんなクーデターの影響を被った。厳しい状況を共有し、一緒に立ち向かいたい」
 フライデーは自身と生徒が上下の関係ではなく、対等の仲間だと考えている。「私はたくさんの同志を失い、孤独を感じた。そうした思いを子どもたちと分かち合っている。彼らと触れ合うと、心が温まり、エネルギーを得られる。私が彼らに与えているのではなく、彼らから与えられている」

深い傷痕

 教育を巡る母国の現状を語る時、フライデーの言葉には厳しさが増す。
 ミャンマーではクーデター後、軍政下での教育に反発し、多くの教師や生徒がCDMに加わり、学校を離れた。フライデーは「クーデターが教育の基礎を全面的に壊した」と非難する。「軍は自分たちのアジェンダ(行動計画)に合う形に、教育を置き換えようとしている。まるで洗脳だ。ミャンマーの社会のあらゆる面に悪影響を与え、極めて危うい」
 国軍に対抗する民主派や少数民族の勢力圏にある学校は、より直接的な危険にさらされている。
 民主派が樹立した並行政府「挙国一致政府(NUG)」によると、クーデター後、戦闘機やドローン、モーター付きパラグライダーなどを使った国軍の空爆が、10月上旬までに全国で7千回を超え、370校以上の学校が破壊された。現地報道によると、9月にも西部ラカイン州で、国軍が高校を空爆し、生徒ら20人以上が死亡している。
 フライデーは「軍は学校にすら空爆を加える。学校が安全な場所ではなくなっている」と憤る。

「私たちの学校」の校舎。周囲は農地が広がる(筆者撮影)

 クーデターがミャンマー社会に残した傷痕は深い。フライデーは国軍支配の終焉を願いつつ、再生の道のりの険しさも口にした。
 「社会のあらゆる側面の再建と修復のため、私たち国民の大きな労力が必要になる。教育、経済、マインドセット(思考様式)の再構築など、多くの努力をしなければならない」

 

 

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