「これは人類への冒涜だ」─誰にも知られず死んでいくミャンマーの人々のことを伝えるために
世界報道写真コンテスト受賞写真家イェアウントゥ氏インタビュー
- 2025/6/2
かつて恵比寿の東京写真美術館で毎年開催されていた「世界報道写真展」。これは世界報道写真財団(World Press Photo Foundation)が毎年開催するコンテストの入賞作品を世界中で展示するもののだ。同基金が拠点を置くオランダ・アムステルダムで、5月17日に2025年の受賞写真家が登壇するイベント「The Stories that Matters」が開催された。そこで受賞式のために来欧した、ミャンマー出身の受賞フォトジャーナリスト、イェアウントゥ氏がインタビューに応じてくれた。
「私は革命が終わるまでは笑いません」
ミャンマー出身のフォトジャーナリスト、イェアウントゥ氏はそう言った。世界でもっとも権威ある報道写真コンテストの授賞式の翌日にもかかわらず、彼の表情は硬かった。
「撮影のためにあちこちを回っても、喜びを感じることはありません。いい写真が撮れてもです。戦闘地帯では、毎日大切な人が亡くなっていくからです」
独学で写真を学んだというイェアウントゥ氏は、2012年から約10年間、AFP通信のミャンマー支局で勤務した。その間、チーフ・フォトグラファーとして勤務し、ミャンマーの重要な瞬間を記録に残してきた。しかし、2021年のクーデター後に退職し、反政府勢力による戦闘現場も含め、ミャンマー各地を個人で回り、ミャンマーの今を記録し続けている。
そうしてクーデターから4年間彼が撮り溜めたなかから選んだ10枚の写真シリーズが、アジア太平洋・オセアニア地域の「ストーリー」部門で入賞した。
「クーデター直後はミャンマーに関する報道も少なくなかったのですが、その後あまり報道されなくなりました。ミャンマーで何が起こっているのか、誰も知りません。だから私は写真を撮り続けているのです」
イェアウントゥ氏は、1988年の民主化運動に続く軍事クーデターが起きたとき、6歳だった。2021年に再びクーデターが起きた時、彼の息子もまた6歳だった。2011年の民政移管後、人々は徐々に自由を手に入れたが、それはわずか10年で失われた。
「私は軍事政権下で育ちました。クーデターが起こった日、息子に自分と同じ経験をさせられないと思いました。国が軍事政権に支配されたら、再びすべてが閉ざされてしまいます。私たちの耳や目は塞がれます。壁やドア、生活も閉ざされ、良い教育も、医療も受けられません。法律も機能しなくなり、軍は常に権力を乱用します。私が育ったのはそんな社会で、どうやって生き残るかということを考えなくてはいけませんでした。次の世代にそんなことはさせられません。だからこそ、私はフォトジャーナリストとして写真を撮り続け、すべてのニュースを世界に伝えているのです」
彼は自由に写真を撮るためにAFP通信を退職し、個人として写真を撮ることに決めた。組織に属していると安全に行動することを求められ、戦闘地域までは近づけないからだという。イェアウントゥの使命は、ミャンマーで起きていることをすべて記録することだ。人々がどう生き延び、暮らしているのかを撮影するためには、戦闘が起きている危険な地域に行く必要もあった。
「ミャンマーでは、銃を持つよりもカメラを持っている方が危険」だという彼は、現在、隣国に逃れている。しかし、年の半分以上はミャンマーに戻り、各地の武装組織に同行して写真を撮影している。
ミャンマーでは2021年のクーデター以降、200人以上のジャーナリストが逮捕され、7人が殺害された。禁固刑に処されたジャーナリストも、2025年5月現在で35人と、中国、イスラエル・パレスチナに次いで世界で3番目に多い。フォトジャーナリストである彼も、常に危険にさらされている。
「私は毎日、命と死の境界線に近いところにいるように感じています。日々、リスクがあります。でも報道の自由、平和、人々のために、私は気にせずに戦っています」
これまで命を落としかねない、危険な目にもあってきたという。
「2023年6月、私がシャン州のモーベー郡区を訪ねた際、滞在していた村のすぐ近くで夜中に戦闘が始まりました。夜中の2時か3時くらいで、私が寝ている時でした。私は幸い無事でしたが、衛生兵の一人が被弾し、頭部に怪我をしました」
「2023年、カヤー州のムビア郡区でもかなり危険な目にあいました。戦闘によって7人の民間人が屋外で殺されたと聞き、その状況を撮影しようと急いで現地に向かったのです。そこで亡くなった人の遺体を回収しようとしていた人についていったところ、スナイパーに狙われ、(右耳の横を指しながら)弾丸がここを飛んでいきました。私はとっさに地面に伏せた後、その場から逃げ出すために高いところから飛び降りなくてはいけませんでした」
それほど死と隣合わせの危険な目にあっても、彼は撮影をやめない。それは、強い使命感があるからだ。
「私が危険を冒してでも写真を撮ろうと思うのは、多くの人が死ぬのを見たからです。初めてにジャングルに行き、紛争や戦争、避難民の写真を撮影し始めた時、これは『人類への冒涜』だと気付きました。まさに、権力の濫用です。私は友人や同僚、罪のない子どもたちが殺されるのを目の当たりにしました。私の腕の中で死んでいった人もいました。私は、このような状況を世界に訴えなければなりません」
3月28日に大地震が起きた直後、ミャンマーに関する報道は増えたが、2カ月が経ってその報道はまた減っている。
「毎日、多くの人が亡くなり、多くの人々が逃げ回っています。だからこそ、ミャンマーで起きていることは、誰にも伝わりません。どうやって人々が殺されているのか、人々がいかに戦い、いかに命を犠牲にしているのか。そしてまた、彼らが正義と自由にどれほど飢えているか。何も語られることなく死んでいます。この状況を世界に伝えるためには、証拠や目撃者、そして歴史を記録するための写真が必要なのです」
今回、受賞した作品には、クーデター以降に生活を破壊された人々が、国軍との戦いに参じる様子が示されている。
「たとえば、この写真の中央に写っている女性は21歳です。もとは看護学生でした。クーデター後、彼女は人々を助けようとしましたが、多くの人が殺されるのを目の当たりにして、武装組織に加わったそうです。この写真は、戦闘が始まる前の静かな時間に撮影したものです」
「この写真に写っている中央の男性は27歳です。国軍が彼の家族を攻撃し、家を燃やしたため、彼は命を懸けて戦うことを決めました。彼はそれまでの教育と人生を捨て、国境付近で生活し、生き延びています。このようなことは、現在のミャンマーで毎日、起こっています」

カレンニ民族防衛軍の司令官であるク・リードゥ(27歳、中央)と共に戦う兵士たちが、1カ月以上の戦闘の末、国軍に勝利し、基地を奪ったことを祝っている。カヤー州シャダウ、2024年2月14日。© Ye Aung Thu
国軍は民間人も攻撃し、市民が暮らす村にも空爆を続けてきた。5月12日には北西部ザガイン管区で国軍が学校を空爆し、児童や生徒20人と教師2人を合わせ22人が死亡した。民主派勢力による国民統一政府(NUG)が運営する学校だった。
「ミャンマーで起きていることを伝えられるのは、ほんの数人です。活動できなくなった他のジャーナリストも多いからこそ、私は写真を撮り続けます。私たちは非常に孤独です。必死にしがみつき、報道を続けている人々はほんの一握りです。私には自分の国の歴史を変える力はありませんが、自分の国、人々のために、そこにとどまり、事実を記録する必要があるのです。これはミャンマーだけでなく、世界の歴史です」
そんな彼が望むのは、世界がミャンマーの状況について興味を持ち、声を上げることだ。ミャンマーでは起きているのは単なる内線ではないと彼は言う。
「これは内戦ではなく、『革命』です。独裁政権が繰り返さないようにするための戦いなのです。私たちは40年間、戦い続けています。ですから、ミャンマーについて話し、目を向けてください、私たちがどのように扱われているかに注意を払い、世界に向けて声を上げてください」
ミャンマー出身のフォトジャーナリスト。独学で写真を学び、2010年にフォトジャーナリストとして働き始める。2012年にAFP通信に入社し、ミャンマーや周辺国で約10年間、主要イベントや、世界のリーダーを撮影した。2021年の軍事クーデター以降はミャンマーの人々による戦いを撮影している。
2025年世界報道写真コンテストで、クーデター以降のミャンマーを撮影したフォトストーリー「紛争中の国家(The Nation in Conflict)」がアジア太平洋・オセアニア地域で受賞。
現在は、写真を撮影しながらミャンマーのジャーナリストの育成に取り組み、研修を提供しているほか、ドキュメンタリー作品づくりにも取り組んでいる。