ミャンマー(ビルマ)知・動・説の行方(第4話)
パゴダに見る《多》民族表象
- 2025/2/5
- 知・動・説の行方
民族をどうとらえるか―。各地で民族問題や紛争が絶えない世界のいまを理解するために、この問いが持つ重みは、かつてないほど高まっています。一般的に、民族とは、宗教や言語、文化、そして歴史などを共有し、民族意識により結び付いた人々の集まりを指すとされますが、多民族国家ミャンマーをフィールドにしてきた文化人類学者で広島大学名誉教授の髙谷紀夫さんは、文化と社会のリアリティに迫るためには、民族同士の関係の特異性や、各民族の中にある多様性にも注目し、立体的で柔軟な民族観の構築が必要だと言います。
特にビルマとシャンの関係に注目してきた髙谷さんによる新連載がスタートしました。多民族国家であるにもかかわらず、民族の観点から語られることが少ないミャンマー社会について、立体的、かつ柔軟に読み解く連載の第4話です。
ダザウンダイン灯明祭り(1983年11月17~18日)
ミャンマー(ビルマ)を歩くと、あちこちでパゴダ(仏塔)に出会う。政府の高官から富裕な庶民にいたるまで、敬虔な仏教徒たちの寄進によって建立されたものだ。実際、東南アジアの大陸部から中国の雲南省に広がる上座部仏教の文化圏を見渡しても、ミャンマーにおけるパゴダの存在感は突出している。ヤンゴンにある黄金の仏塔、シュエダゴン・パゴダはその代表格と言われ、ミャンマー人の信仰を集めているばかりではなく、この町を訪れる外国人観光客も必ず一度は参拝する名所になっている。参拝料は現在はミャンマー人は無料で、外国人だけが支払うことになっている。ある時、筆者はパゴダの管理委員会が地元紙に公表した入場料の総額を一人当たり単価で割ってみたのだが、算出された人数は、同時期にヤンゴン国際空港を通過した人数とほぼ同じであった。
もっとも、筆者が日本国文部省(当時)のアジア諸国等派遣留学生としてラングーン(当時、現在のヤンゴン)に滞在していた1983年には、シュエダゴン・パゴダを参拝するのに入場料を支払う必要はなく、一日中、自由に出入りできたため、参拝客の姿が絶えることはなかった。公式ウェブサイトによれば、近年は入場が午前4時から午後10時までに制限されているが、祭日に向かうビルマ暦のダバウン月(西暦の2~3月)には、以前と変わらず、終日、開いているようだ。
筆者は当時、幾度となくシュエダゴン・パゴダに通った。ミャンマーでは、どのパゴダでも年に一度、祭りが開かれるうえ、毎月、ビルマ暦の満月の日に合わせて行事が営まれる。シュエダゴン・パゴダでも、ビルマ暦のダバウン月の満月の日には毎年、盛大な祭りが催されたほか、ティンジャン(あるいはダジャン)と呼ばれるビルマ暦の新年を祝う4月半ばの水掛け祭りや、5月のカソン月に行われるインド菩提樹への水掛け祭りが行われた。さらに、雨季に僧侶たちが寺にこもり修行に明け暮れる「雨安居」の始まりを告げる7月のワゾー月と、雨安居が明けたことを祝う10月のダディンジュ月にも、満月に合わせて祭事が行われ、多数の参拝客が集まった。
なかでも筆者の印象に残っているのは、1983年11月に参加したダザウンダイン(灯明祭り)である。シュエダゴン・パゴダ特有の存在感を再認識し、この国における《多》民族の表象に接する機会になったためだ。
もっとも、この祭りのハイライトとなるイベントは、この2年後にある政治的な思惑によって後述の通り大きく変更される。その意味で、筆者が見たこの年のダザウンダインは、今では見られない貴重な内容となった。当時のフィールドノートを読み返しつつ、その模様を紹介しよう。
ミャンマーでは、一週間を「月・火・水(午前)・水(午後)・木・金・土・日」の8つに分けた「八曜」暦が大切にされており、曜日ごとに、方角や支配星、守護動物のほか、名前の最初のビルマ文字などが決まっている。シュエダゴン・パゴダの参拝客は、昔も今も、中心にそびえる主仏塔の周囲に曜日ごとに祀られた祠の中から自分が生まれた曜日の祠に進み、安置された仏像に自分の年齢の数だけ水を掛けて祈りを捧げるのが習わしだ。なお、東方、西方、南方、そして北方に位置する曜日の祠は、それぞれ仏堂の左右に2つずつ祀られているため、主仏塔の周りには全部で12の祠がある。
厳かな雰囲気が漂う境内だが、少しずつ改修が進められて仏教色が強まりつつある。例えば、祠の前に設置されている水溜めには仏教にゆかりのある法輪が装飾され、仏像が次第に大きくなりつつある一方、インド占星術に起源をもつ守護動物の像は少しずつ小さくなっている。
改修のきっかけとなったのは、政府主導で1980年に開催された第一回全宗派合同会議であった。政治が仏教界に介入することが決められたのも、宗派の数が公的に9つに固定化されたのも、この席上だった。さらに、全国の僧侶たちは登録制となり、法律で管理されることになった。これを受けて、以前は在家の仏教徒、つまり世俗の人々が担ってきたパゴダの管理や、喜捨行為を通じて進められてきたパゴダの修復・建立も、僧侶の統制化に置かれることになった。さらに、この数年後にダザウンダインのハイライトを飾るイベントのルールが大きく変更されることになったのは、前述の通りである。
7州7管区の対抗戦から仏教グループの対抗戦へ
雨安居が明けたことを祝う10月のダディンジュ月の満月の日から一カ月間は、僧侶に僧衣を贈呈する「カテイン」と呼ばれる期間が続く。その最終日に開かれるダザウンダイン(灯明祭り)のハイライトは、織物コンテストだ。これは、織子たちが夜を徹して交代で僧衣を織り上げるイベントで、釈迦の母堂が出家する息子のために一晩で僧衣を織り上げたという故事に由来する。
功徳を積むために喜捨を大切にする仏教徒にとって最も重要なイベントでもあるこの織物コンテストは、何を目的として始まり、どうルールが変わったのか。それを説明するために、まずは筆者のフィールドノートに立ち戻り、1983年11月17~18日の2日間にわたって筆者がシュエダゴン・パゴダやヤンゴン市街で見聞したことを再録しよう。
【フィールドノートより】
① パゴダ敷地内には、観覧車、パビリオンなどの見学遊興設備が建てられ、参拝客を集めていた。
② パゴダ内では、学校、地区が合同で僧衣の贈呈や寄進を行っていた。留学生を受け入れている外国語学院(現ヤンゴン外国語大学)でも、パゴダ内の所定の建物に読経と饗応の場を設け、参集する関係者に食事を振る舞っていた。翌朝は僧侶に食事を喜捨して功徳を積むということであった。
③ 夕方6時頃に織物コンテストが始まった。かつては東西南北に建立されている仏像と寝釈迦に寄進する5つの僧衣を織ることが目指されていたというが、この頃(1983年当時)には、行政区分に従い、7州7管区が競い合う形で行われていた。仏教信仰から始まった行事の文脈が変化したことになる。西の入口から入って右側(南側)には、マンダレー管区やバゴー管区、ヤンゴン管区など7管区のブースが並ぶ一方、左側(北側)には、カチン州、カヤー州、カレン(ビルマ語でカイン)州と、ビルマ文字のアルファベット順に7州のブースが並んでいた。各ブースでは織り子たちが交代で作業を続け、午後11時頃にはほぼ織り上がっていた。また、西の入口の外側にもパビリオンが設営され、織物のパフォーマンスや各州・各管区の紹介が行われていた。
④ 午前3時頃、僧衣を捧げる行列が出発した。先導者に続き、仏教の旗を持つ者や、インドラ神に扮した者、王朝時代の装束を着た王族、大臣、兵士、そして織り上げられたばかりの僧衣を携えた14ブースの代表が並んだ行列は、境内を3周してから、全14体の仏像へ1着ずつ僧衣奉納。最後に、北西に位置する建物で、僧侶への寄進が行われた。全ての儀礼が終了したのは午前6時頃だった。
⑤ パゴダの境内は、参拝者のほか、観覧車などの遊興設備を楽しむ人々で混雑が続いていた。
⑥ 日が暮れると、市街地の有名な建物ではイルミネーションが灯された。
⑦ 夜明け前になると、建物の看板をかけ替えたり、品物を並べ替えたりする「馬鹿し合い」やいたずら(ビルマ語でチーマノウ・ブエ:直訳は「カラスを起こさない」の意味で。“こっそり”の比喩)があちこちで見られた。
ここで注目したいのは、③の記述に見られる通り、織物コンテストが7つの州と7つの管区の対抗戦によって行われている点である。最大民族であるビルマ族以外の主要な7つの少数民族の名前を冠した7州と7管区が、織物コンテストで僧衣を織ることを競い合い、完成した僧衣を共に仏像に捧げるということは、連邦=ユニオンを表象していると言える。つまり、1983年当時のシュエダゴン・パゴダは、仏教の聖地であると同時に、連邦国家の政治的プロパガンダが行われる場でもあったのだ。7つの州が公的にそろったのは、1974年にビルマ連邦社会主義共和国憲法が公布されて以降であり、織物コンテストがこの形式で行われるようになったのも、その後だと考えられる。
ところが、1985年以降、織物コンテストは行政単位で競い合う代わりに、仏教にちなんだパーリ語名を与えられたグループごとの対抗戦によって行われるようになった。近年はどのように実施されているのか不明だが、2005年の地元紙の記事を見ると、その年の織物コンテストで一位の栄誉を与えられたのは、タンブーラというパーリ語の名前を冠した織物グループだったようだ。
なお、コンテストの形が行政単位対抗から仏教系グループ対抗へと変更されるのに先立ち、1980年に開かれたのが、前出の全宗派合同会議である。パゴダという世俗的な交流の場で行われる儀礼を仏教的な観点から「清浄化」しようという意志が働いたか、あるいは宗教に対する管理を強化しようという政策の一環だったのではないかと考えているが、残念ながらこのあたりの背景については調査できていない。ご存知の方があれば、ご教示いただきたい。
人々の社交の場としてのパゴダ
1983年のダザウンダインで行われた織物コンテストの形が特異的であったことは、写真とフィールドノートを見返して再発見した。7州7管区対抗というアイデア自体、連邦国家ならではの政治的で世俗的なものだったと言える。カチン州やチン州のブースにいた織り子やサポーターの中には、キリスト教徒もいたかもしれない。当時のシュエダゴン・パゴダは、仏教信仰を基盤としながらも、仏教の枠からはみ出した特別な祭祀空間だった。
なお、この国の民主化運動のカリスマ的存在となったアウンサンスーチー氏が1988年8月に記念すべき政治的アピールを行なったのも、シュエダゴン・パゴダだった。同氏の父、アウンサン将軍もまた、ビルマ独立闘争の渦中にこの聖地で歴史に残るスピーチを行ったことを考えると、アウンサンスーチー氏がこの国で誰もが知るこのパゴダをスピーチの場に選んだことには十分な意味がある。前述の通り、軍事政権はそれまで24時間出入り自由だったシュエダゴン・パゴダの入場時間の制限に踏み切った。治安上の措置というのは表向きの理由で、本当のところは人々が集まることに警戒感を抱いたためではないか。
パゴダとは本来、仏陀の骨や髪の毛などの身体の一部や経典を安置するための記念碑であったが、その後、功徳を積んだ威信を表わす建築物として、上座部仏教の文化圏の中でも、とりわけミャンマーで発展を遂げてきた。
しかし、この信仰空間が仏教徒だけに閉じられていたわけではなく、民族と宗教を超えて人々の憩いの場として機能してきたのは、パゴダ祭りで祈りの静寂と交流の喧騒が両立していることからも明らかだ。ビルマ史の泰斗であるタントゥン博士は、王朝時代の史料を基に「祭りを意味する“プエ”の語源は宗教的なものではなく、交易や市場と関係が深い」と指摘する。もともと商いの場を意味していたプエが、人々が定期的に集まるパゴダの境内で開かれるようになったことから、祭りそのものがプエと呼ばれるようになったのではないかと筆者は考えている。それは、パゴダがもともと僧侶の管理下で運営されていたのではなく、在家の仏教徒に運営が任せられてきたこととも関係しているのではないか。
人々の社交の場所、それが、パゴダの本来の姿なのである。