韓国からミャンマーへ 祖国への秘めた思いと歴史がつなぐ絆
民主化を求める市民に海を越えて寄せられる連帯と共感
- 2024/12/5
日本で暮らすミャンマー人が急増しています。出入国在留管理庁のデータによると、2021年12月に3万7246人だったミャンマー人在留者数は、2022年12月に5万6239人に増加。2023年12月には8万6546人に上り、2年間で約2.3倍となりました。この背景には、2021年2月1日に発生したクーデター以降、クーデターに抵抗する人々への弾圧や少数民族武装勢力との武装勢力が続いているうえ、現地通貨チャットの急速な下落によって食料や燃料の価格が高騰しているうえ、国内の経済活動が停滞していることが挙げられます。
隣国の韓国にも、同様に祖国を出たミャンマー人が多く来ています。ミャンマーのレコード文化や音楽シーンに詳しく、自身も積極的に日本各地で演奏活動や講演を行いながら、ミャンマー音楽の変遷や奏法、そして最近の情勢について発信している筆者がこの夏、韓国を訪問しました。そこで出会った韓国とミャンマーのつながりについて報告します。
仁川広域市のミャンマー人コミュニティ
2024年8月、私はミャンマー音楽の公演のために韓国を訪れた。渡航に先立ち、韓国にはどれぐらいのミャンマー人が住んでいるのか気になって、韓国移民統計を調べてみた。それによれば、韓国には2023年12月時点で4万2438人のミャンマー人が住んでいることが分かった。2019年時点では2万9294人であったことを踏まえると、約1.4倍に増えている。新型コロナウイルスの感染拡大や軍事クーデターを経て、日本同様、韓国にも多くのミャンマー人が来ているのだ。
韓国の首都・ソウルの西側に隣接する仁川広域市。港湾都市として知られる同市の富平(プピョン)駅周辺に、ミャンマー人の一大コミュニティがあると聞いて訪ねてみることにした。
富平駅に着くと、半径500メートル以内にビルマ文字が書かれた看板を出している店が36軒、密集しているのを難なく見つけた。まるで、日本最大のミャンマー人街である東京・新宿区の高田馬場のようだと感じた。駅の南西には、レストランをはじめ、寺院や福祉事務所、携帯ショップなどが7軒並び、北西には、レストランのほか、ミャンマーの民族衣装「ロンジー」を扱う専門店、両替屋、カラオケ店、美容院、食料品店、そして貸本屋などが29軒点在していた。また、富平駅に直結したショッピングモールの中にある携帯ショップ店の看板は、ハングルとビルマ語が併記されていた。
このエリアに、いったいどれぐらいミャンマー人が住んでいるのか。正確な人数は確認できなかったものの、ミャンマー関係の店舗の密集具合から、コミュニティの規模がある程度、推察された。
富平駅から南西に歩くこと約10分。交通量が多い幹線道路沿いに建つ雑居ビルの中にミャンマー寺院があるのを見つけた。午前9時過ぎに私がそっと玄関を開けると、雑魚寝をしていたミャンマー人たちと目が合った。「仏を拝ませてほしい」と頼むと、彼らは軽く会釈をしながら迎え入れてくれた。
玄関で裸足になり、ミャンマーでパゴダに参拝する時と同じ作法で拝んでから自分の素性を明かし、「話を聞かせてほしい」と頼むと、匿名を条件に3人が快諾してくれた。
Aさん・・・男性、40歳、ビルマ族、ヤンゴン出身。
Tさん・・・男性、40歳、何族か不明、マンダレー出身。
――どのような経緯で韓国に来ましたか?
Eさん:ミャンマーで中学校まで通った後、EPS(雇用許可制:低熟練外国人労働者を受け入れるための韓国の制度)の試験を受けて、1年前に韓国に来ました。私は、ミャンマーで今年、軍が開始した徴兵制度の対象年齢ですが、どうにか免れて来ることができました。韓国を行先に選んだ理由は、特にありません。
Aさん:化学薬品の工場に勤めるために、7年前に来ました。
――現在はどんな仕事をしていますか?
Eさん:以前は工場に勤めていましたが、退職して現在は無職です。お金がないため、この寺院に住んでいます。
Aさん:私はCNC(コンピュータ数値制御装置)の工場で働いています。月給は200万ウォン(約22万円)ですが、生活費がかさんで貯蓄の余裕はありません。
Tさん:私は農場で働いています。
――この辺りに住むミャンマー人はどんな仕事をしていますか?
Aさん:皆、いわゆるブルーカラーの仕事に就いています。それ以外に仕事の選択肢はありません。
――このミャンマー人コミュニティの存在を知っていましたか?
Eさん:いいえ。韓国に来て初めて知りました。
――このコミュニティでお祭りは開催されていますか?
Aさん:開催されていないと思いますが、ミャンマー労働者福祉センターを訪ねれば、何か分かるかもしれません。行事はすべてセンターが管理しています。
――このコミュニティで楽器を演奏できる人はいますか?
Aさん:分かりません。近くのミャンマー料理店の店員は何か知っているかもしれません。
――2021年2月のクーデター以来、家族と連絡を取れていますか?
Aさん:はい、問題ありません。とはいえ、電話代はかさみますね。
――クーデターが終わったらミャンマーに戻りたいですか?韓国に残りたいですか?
Eさん:ミャンマーに帰りたいです。
インタビューを終えた後、私はAさんが教えてくれたミャンマー労働者福祉センターを訪ねた。ドアをノックすると、流暢にハングルを話すミャンマー人女性が応対してくれた。このセンターでは、ミャンマー人労働者やアルバイト学生からの相談に乗っている。特に多いのが、給与や労働条件に関する相談だという。こうした支援窓口があること自体、このコミュニティの大きさを物語っていると言えよう。
この日は残念ながらセンター長が不在で詳しい話は聞くことができなかった。機会を改めて、また訪ねたいと思っている。
人目を忍んで貼られたメッセージ
ミャンマー労働者福祉センターを辞してから、駅の北西エリアに移動し、ミャンマー料理店で昼食をとった。ミャンマーで食べるのと遜色ない味わいだった。ありがたく完食した後、店主のミャンマー人にも少し話を聞いた。
――この店はいつオープンしましたか?
店主:2年前です。
――この地域ではクーデターに反対するデモを行っていますか?
店主:毎週ではありませんが、富平駅前で日曜日にデモを行ったり、楽器を演奏しながらクーデターに抗議したりするミャンマー人もいます。
――コミュニティとしてミャンマー本国に募金を集めていますか?
店主:特にしていません。そもそも現在、ミャンマーにお金を送ることは非常に難しい状況です。
料理店を出て周囲を散策していると、高架道路沿いに複数の車両が停められているのを見つけた。いずれもかなり埃をかぶっており、「乗り捨てられたのかもしれない」と思いながら見ていると、そのうちの一台に、ミャンマーのクーデターに関する写真とメッセージが貼られていることに気が付いた。人目を忍んでこのような場所に政治的なメッセージを掲示していることが、強く心に残った。
光州からミャンマーに寄せられる連帯
2日後の8月21日、私は韓国南西部の光州に移動し、ミャンマーと韓国のつながりを明らかにするために調査を行った。光州は、韓国が軍事独裁だった1980年5月18日から27日にかけて民主化を求める学生や一般市民と戒厳軍が衝突し、軍が武力で鎮圧した「光州事件」が起きた地である。
光州で最初に出会ったのは、ミャンマーのクーデターに抗議し、民主化運動や難民救済のために活動している韓国人男性だった。彼の素性を明かすことはできないが、2021年2月にミャンマーでクーデターが起きて以来、この町でチャリティーコンサートを企画したり、タイとミャンマーの国境地帯をたびたび訪ねては、ミャンマーから逃れてきた避難民に物資を届けたりしている人物だ。以前はウクライナ支援に力を注いでいたが、2021年以降はミャンマー支援に重きを置いているという。
さらに彼は、「光州市民は皆、今のミャンマーの状況を見ていると、かつて自分たちが経験した光州事件を思い起こすのです。とても他人事とは思えません」と語った。彼の言う「光州事件」がいかに悲惨なもので、軍の弾圧によっていかに多くの市民が犠牲になったのか、そして、そんな歴史を抱えている光州市民がいかにミャンマーの現状を注視しているのか、筆者は翌日、実感することになる。
一夜明けた8月22日、筆者は地下鉄の文化殿堂駅にほど近い「5.18民主化広場」を訪ねた。ここは、民主化を求める光州市民が集って声を上げていた場であると同時に、軍が武力を行使して弾圧に踏み切った現場でもある。広場に建てられた記念碑や銅像が、その事件を今に伝えている。
広場を囲むように外周に沿って建てられたフェンスにも、当時の惨劇を記録した写真が何枚も展示されていた。一枚一枚見ながら歩いていると、その中にミャンマーの写真が複数あることに気が付いた。
たとえば、光州市民の抵抗の意志が込められた歌詞が書かれたパネルのほとんどに、ミャンマーのクーデターに抵抗する市民の写真やイラストが添えられていたのだ。なかには、2021年にミャンマー第二の都市マンダレーで軍に対する抗議デモに参加中、後頭部を撃たれ亡くなった当時19歳のチェー・シンさん、通称エンジェルさんの姿を描いた絵もあった。
自国で起きた光州事件だけでなく、ミャンマーの惨劇をも大々的に伝えているこの広場からは、弾圧の痛みを知っているからこそ他者の痛みに連帯しようとする人々の思いがひしひしと伝わってきた。
今回、最初に訪ねた仁川広域市では、在韓ミャンマー人たちが祖国で起きたクーデターに対して抱える思いに触れ、故郷を離れて暮らさざるを得ない現状を目の当たりにした。また、次に訪ねた光州市では、同じ痛みを経験した歴史を有する同市の市民からミャンマーの人々に今も寄せられている連帯と共感について知った。どちらの町でも、そこに住むミャンマー人たちと地元の人々が、今なお鋭い眼差しを彼の地に向け続けていることを確信する訪問となった。
【参考資料】
韓国移民統計 2023年度版 (※50ページの表2-6の16行目「미얀마」がミャンマーの項。50ページが2023年の年齢別人口、51ページが2019年から2023年の年次別人口推移)