ヨルダンから見るアラブ社会(第3話)
ヨルダンの難民キャンプに住むパレスチナ人から見るパレスチナ問題 とは
- 2025/4/15
第2話では、ヨルダンの首都・アンマンに住むパレスチナ人二世シナーンさんの話を通じて、パレスチナ問題は決してパレスチナの地の問題にとどまらないということを伝えました。第3話では、アンマンの南部に位置する難民キャンプで暮らす三人のパレスチナ難民の女性たちの声をお届けします。ヨルダン社会で生きている彼女たちの話に耳を傾けると、同じキャンプに住んでいても多様な考え方があることが見えてきます。また、なぜ彼女たちが難民であり続けているのか、その根本的な理由に目を向けなければなりません。
帰還が叶わず世代を超えて約40万人が居住
ヨルダンには2025年4月現在、239万人以上のパレスチナ人難民が暮らしている。これは、この国の総人口のおよそ20%を占める。彼らの多くは、1948年に起きたナクバ(大災厄:イスラエル建国に伴い多くのパレスチナ人が故郷を追われた出来事)や、1967年に発生した第三次中東戦争を機にヨルダンへ避難してきた人々と、その子孫である。
現在、ヨルダン国内には13のパレスチナ難民キャンプが存在し、そのうち10のキャンプは国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)によって運営されている。これらのキャンプに暮らす人々は、全部で約40万人に上ると言われている。
「難民キャンプ」と聞くと、テントが並ぶ光景を思い浮かべる人も多いかもしれない。しかし、ここヨルダンのパレスチナ難民キャンプは、長い年月をかけてコンクリート造りの建物が立ち並ぶ住宅街へと変化してきた。もともと一時的な避難場所として設けられたにも関わらず、パレスチナへの帰還が叶わないまま、何世代にもわたって住み続ける人々の暮らしがそこに根付いている。
「教育は何よりの抵抗の証」
「教育は、私たちにとって最も大切なものです」
そう語るのは、15年間以上にわたって難民キャンプ内の女性プログラムセンターでボランティアを続けている、50歳のソメイヤさんだ。彼女の両親はヨルダン川西岸地区にあるベエルシェバ出身で、1967年の第三次中東戦争を経てヨルダンへ渡った。難民キャンプで生まれ育った後、父親の仕事で小学校から高校までクエートで過ごしたが、湾岸戦争が勃発したのを機に、再び難民キャンプに戻った。その後、ヨルダンの大学に進学し、教師資格を取得した。
そんな彼女が「パレスチナ難民は、この白い登録カードを持っています」と言って見せてくれたのは、UNRWAが発行している家族登録カードだ。これは、難民としての身分を証明するものであり、家族構成に変化があるたびに更新される。UNRWAが運営する学校に子どもを通わせる際にも必要だ。
ソメイヤさんは、長年住んでいるキャンプでの生活について、
「ここ30年ほどで医療や買い物などの選択肢が増え、暮らしやすくなりました。互いに助け合うコミュニティもあります。キャンプの中か外かに関係なく、パレスチナ人は、同じパレスチナ人です」と話し、こう続ける。
「キャンプには経済的に苦しい人が多いのも事実です。学校を途中で辞めてしまう子や、早期結婚を強いられる女の子の話もしばしば耳にします。就職の機会も、ヨルダンにルーツを持つヨルダン人と比べると格差があり、職探しも簡単ではありません」
だからこそ、彼女が教育に懸ける思いは強い。
「私たちは、教育を最も需要視しています。奨学金を探し、時にローンを組んででも大学に行こうとするのは、強い立場にない私たちにとって、教育こそが自分を守る唯一の武器であり、手段であるからです。知識への投資は抵抗につながり、文化や言語を学ぶことは、世界で起きていることを理解するために欠かせません」と話すソメイヤさん。「メディアはすべてを伝えてくれるわけではないからこそ、何が起きているのかを知るために教育が必要なのです」と、強調した。
世代間で異なる考え方
30代前半の女性、ワアドさんもまた、ベエルシェバ出身の両親のもと、難民キャンプで生まれ育った。UNRWAの学校を卒業し、現在は看護師として働いている。「休みの日は寝るだけで過ぎてしまいます」と笑うほど多忙な日々を送る彼女もまた、パレスチナ人にとっていかに教育を大事にしているか語る。
「タウジーヒ(大学進学資格試験)の成績上位者には、難民キャンプ出身者が多いんですよ。皆、高得点をとって大学へ進学します。私も、ある試験に唯一の難民キャンプ出身者として合格したことがありました」
幼い頃から学校ではパレスチナの歴史や文化について教えられ、父親からは戦争の経験や家族とどう避難したかなどについて聞かされて育った。
「私の父は、第三次中東戦争を経験しました。ガザ地区やヨルダン川西岸地区のニュースを見るたびに、当時の記憶が蘇るようで、泣き叫ぶことがあります。それでも父はテレビから目を離しません。一度、リモコンが見あたらなかった時には家中が大騒ぎでした」
ワアドさんは、父親世代と自分たちの世代の間には、パレスチナに対するに違いがあると感じている。
「母は、長年待ち続けてようやくヨルダン川西岸地区への入域許可が下りたその日に、嬉しさのあまりお風呂で転んで頭を打ち、そのまま亡くなりました。親の世代にとってパレスチナという場所はそれほどまでに大きな存在なのです」
そんなワアドさん自身は、「心は常にパレスチナにある」と語る一方、「私はヨルダン人として、ここで生きていきたい」と言う。
「ヨルダンは、安定していて安全です。私はここで生まれ育ったから、ヨルダン人として生きていきます。この考え方が、親の世代との違いかもしれません」。そう話す彼女に、「パレスチナに住みたいか」と尋ねると、迷わず「ノー」と答えた。彼女のように、これまで暮らしてきた場所で生きていくことを選ぶ人は少なくない。パレスチナを大切なルーツとして想いながらも、現実的な判断としてこのように考えることは、想像に難くない。
避難元によって異なる処遇
その一方で、「帰れるなら、今すぐでもパレスチナに戻りたい」と語る女性もいる。難民キャンプにある女性プログラムセンターでセンター長を務めるファティマさん(仮名)だ。彼女はガザ地区のハンユニスで生まれ、1967年の戦争の際、両親とともにヨルダンへ逃れた。しかし、ガザ地区出身のパレスチナ人は、ヨルダン川西岸地区出身のパレスチナ人とは異なる扱いを受けていると彼女は言う。
「私のようなガザ地区出身のパレスチナ人は、ヨルダン国籍を取得することができません。そのため、基本的には「外国人」として扱われており、電気代はヨルダン川西岸地区出身のパレスチナ難民の約2倍、学費や医療費も割高の外国人料金を支払わなければなりません。さらに、仕事をするにも高額な就労許可を申請しなければならないのです」
ガザ出身者の多くは、1948年に起きた前述のナクバの際にパレスチナの他の地域からガザへ避難した人々とその子孫だ。1967年の第三次中東戦争でイスラエルがガザ地区を軍事占領下に置いたことにより、再びヨルダンへ逃れた、いわゆる「二重難民」である。その後、ヨルダン市民権を取得したガザ出身者もわずかにいるが、大半は有効期限が2年のパスポートしか持っていない。これは、滞在許可証の役割を果たすものの、市民権は与えられていないため、ガザ出身のパレスチナ人は、事実上、「一時的な滞在者」として扱われている。
加えて、ガザ出身の男性は、滞在許可を更新する際にセキュリティクリアランスが求められるなど、政府の監視も厳しい。女性にも類似の制約が存在するとファティマさんは話す。
「私の娘は結婚の際、ガザ出身のパレスチナ人という理由で警察のセキュリティチェックを受けなければなりませんでした。受けなければ、結婚の許可が下りなかったのです。たとえ結婚相手がヨルダン国籍を持っていても同じでした。正式に夫婦の登録ができるまで、長い時間待たなければなりませんでした」
ガザ地区の出身者は、ヨルダン川西岸地区出身のパレスチナ人とは異なり、法的な保護を受けられないまま生活をしている。ヨルダン政府は、かつて自国が占領していたヨルダン川西岸地区出身のパレスチナ人には市民権を与えてきた。しかし、ガザ地区はエジプトの管轄下にあったため、ヨルダン政府には彼らを庇護する理由がない。その結果、同じパレスチナ人であっても、どこから避難してきたかによって異なる待遇を受けることになる。
難民の「帰還の権利」と国際社会の役割
三人の話から見えてくるのは、「パレスチナ人」という一つの言葉にくくられる人々であっても、出自や世代、法的地位の違いによって、立場や経験が異なるということだ。彼女たちもまた、私たちと同じように、一人ひとりの人生を築いている。一方で、なぜ彼女たちがいまだに難民であり続けなければならないのか、その根本的な理由に目を向けなければならない。
パレスチナ人が自らの故郷に帰る権利、すなわち「帰還の権利」は、1948年と1974年に採択された国連総会決議において認められている。しかしイスラエル政府は、国連総会決議には法的拘束力がないとし、いまなおこの帰還を拒否し続けている。イスラエル政府は、多くのパレスチナ難民が帰還すれば、アラブ人が人口の多数を占めることになり、「ユダヤ国家」としての性格が損なわれることを懸念しているのだ。
しかし、人が自らの故郷に帰る権利は、個人の基本的人権の一つである。戦争などの不可抗力によって自国を離れざるを得なかった人々には、本来、帰還する権利が保障されている。つまり現在、パレスチナ人はその基本的人権すら保障されていない状況にある。
これは、イスラエルとパレスチナ間の問題にとどまらない。国際社会もまた、この問題を後回しにしてきた。1993年のオスロ合意などの和平交渉においても、「帰還の権利」は「最終的地位交渉」に委ねられたまま、実質的な議論がなされず放置されている。国際社会がパレスチナ問題の根底にある課題と向き合わない限り、パレスチナ人の人権も、そして、今、まさにガザやヨルダン川西岸地区で起きている戦争、占領、暴力の問題も、決して解決されることはない。だからこそ、個々の声に耳を傾け、問い続ける姿勢が求められる。