ドイツから見えた慰安婦問題と、困窮した日本の女性を守る施設
ドイツから見えた慰安婦問題と、困窮した日本の女性を守る施設
- 2025/3/4
ベルリンで再び話題となった慰安婦像
日本軍の慰安婦問題が日韓の政治問題となり、解決が困難になって久しい。問題は、筆者の住むドイツにも波及している。2011年に韓国・ソウルの日本大使館前に慰安婦像が置かれて以来、米サンフランシスコなど世界各地に次々と設置され、ドイツ国内でもフライブルグ、フランクフルトなど数多くの都市に置かれてきた。
2020年9月にベルリン中心部のミッテ区に置かれた慰安婦像は日本でも大きな話題となり、たびたび報道されてきた。日本政府は当初から像の撤去を求めてきたが、ミッテ区議会や市民による設置の支持を受け、4年以上そこにある。しかし、2024年5月のベルリン市長カイ・ウェグナーの訪日以降、市は撤去に向けて動き出した。ミッテ地区長は、公募によらず公有地に設置された像の設置許可を延長することは不可能とし、像の設置者である在独の市民団体・コリア協議会に同像の撤去を求めた。しかし、同団体は命令の差し止めを求めてベルリン行政裁判所に提訴しており、その判断が待たれている。撤去に対する抗議運動も起こり、その騒動は2024年6月頃からベルリンのメディアを中心に繰り返し報道されてきた。
日本政府はかつて慰安婦問題を解決するために努力し、2015年の日韓合意でも解決が試みられた。しかし、合意決裂後の現在、解決に向けた議論すらあまりなされなくなっている。世界各地に設置される慰安婦像は増えているが、像は日本では「日本を非難する」ものとして捉えられ、拒絶反応が出がちだ。しかし、ドイツのコリア協議会は慰安婦問題を女性の人権問題として発信し、フェミニズムや戦時性暴力の問題として人々に受け止められている。そんななかでベルリン市に圧力をかけて像を撤去しようとする日本政府のやり方は、問題の解決に繋がらないどころか、ドイツ側に与える印象も悪く、得策ではないように筆者には思われた。
そこで、日本史・東アジア史を専門とし、慰安婦問題に関する著書もあるボン大学のラインハルト・ツェルナー教授に意見を仰いだ。教授は、日本政府のこれまでの解決に向けた取り組みでは「被害者たちの人間的な側面に十分な配慮を欠き、和解を目指す象徴的な行動に踏み切ることもできていない」と指摘する。教授は当事国ではないドイツに慰安婦像を設置することには否定的な立場だが、韓国側の主要な要求に応じて東京に従軍慰安婦に関する碑を設置することが解決につながると見ている。もし新たに設置することが難しいならば、すでに千葉の館山市に設置されている従軍慰安婦碑を外交に活用することが、慰安婦問題の解決につながるのではないかという意見も持っていた。
「日本政府は、なぜこの記念碑を外交に活用しないのでしょうか。たとえば韓国の政治家を正式に招待し、一緒に訪問するのも一案です。すでにこのようなものが日本国内に存在することを、日本の外交官はもっと発信すべきです」
過去を告白した元日本人従軍慰安婦
館山市にある慰安婦碑とは、行き場のない女性のために長期自立支援施設「かにた婦人の村」に、1985年に木柱が建てられ翌年に石碑に改められた鎮魂碑だ。同施設に入所していた城田すず子さん(仮名)という女性が、従軍慰安婦だったという過去を告白し、死んでいった他の女性たちの慰霊を願いって設置した。「噫(ああ)従軍慰安婦」という文字が彫られており、毎年8月15日には、この像の前で鎮魂祭が開催されているという。
婦人保護施設(現 女性自立支援施設)は、1955年の売春防止法の成立後、行き場のなくなった女性たちの保護施設として始まった。かにた婦人の村は、障害があるなどより厳しい状況にある女性たちが長期間暮らせる施設として1965年に開設された。
同村の前施設長、天羽道子さんの2015年の講演録によると、城田さんは1921年 に東京の裕福な家庭に生まれ、成績も良く、女学校に通っていたものの、家の事業が傾いたために退学して奉公に出され、17歳で遊郭に売られるという過酷な人生を送った。台湾・南洋にあった軍人のための慰安所で働いた後、なんとか戦後に帰国するも家族に受け入れられず、各地の赤線地帯で体を売って生きていた。妹の死に際して、自分の職業のせいではないかと感じて足を洗うことを決意し、1955年にキリスト教系の団体が運営する救済施設(のちに婦人保護施設となった)「慈愛寮」に入寮し、教会に通い洗礼を受けた。その後、「かにた婦人の村」の創立者である深津文雄牧師と知り合い、同師が創設した東京都内の婦人保護施設「いずみ寮」に入所した。そこで、深津牧師が提唱した、行き場のない女性たちが長く安心して暮らせる村の設立を目指す「コロニー運動」に賛同したという。しかし、婦人の村に入所したのは、脊椎骨折によって6年半寝たきりでの入院を経てからだった。介護を受けて車椅子で生活できるくらいに回復したのちに過去の告白に至ったという。
しかし、その告白があった1980年代初めには、慰安婦の存在は公には知られていなかった。石碑の設置から3年後の1988年に韓国挺身隊問題対策協議会代表のユン・ジョンオク(尹貞玉)さん が「かにた婦人の村」を訪れた。それがきっかけとなって1990年に韓国KBSテレビが従軍慰安婦に関するドキュメンタリー番組を制作し、かにたにある慰安婦碑と城田さんを紹介した。その番組が反響を呼んだことが、1991年に韓国でキム・ハクスン(金学順)さんが、自分も慰安婦だったことを名乗ったきっかけになったそうだ。
ドイツでもベルリンでの騒動に触れ、慰安婦問題について考えた筆者は、2025年1月に一時帰国した際、かにた婦人の村を訪問した。同施設は、東京に本部を置くキリスト教系の社会福祉法人「ベテスダ奉仕女母の家」によって運営されている。
慰安碑は、館山の丘の中腹に作られた村の中でも高い丘の上にあり、傾斜のある土地にさまざまな建物が建てられている。第二次世界大戦まで海軍が要塞として利用していた土地が安く払い下げられ、その山を切り開いて施設が作られた。かにた婦人の「村」には、深津牧師が提唱した「コロニー(共同体)」への思いが込められている。入所者の女性が中で農作業をしたり、パンを焼いたりして生活に必要なものを作り、それを分けあって自分たちの暮らしを作り上げることが目指されてきたからだ。作業のための建物やチャペルが施設内にはあった。
解決困難になった日韓問題
かにた婦人の村の五十嵐逸美施設長に「従軍慰安婦碑を慰安婦問題解決に活用できる」というツェルナー教授の意見を伝えると、「戦時性暴力の反省と防止の象徴として活用することには反対です」と、断固否定された。
施設は、今、困っている入所者のためにあり、碑を取り巻く事柄に支援スタッフの手を取られる余裕はない。また、政治的な主張をするために施設の敷地に無許可で入って写真や動画を撮られることで、入所者の身元や顔が外に知られることは許されない。
「ここは、生きづらさを抱える女性の回復とリスタートのための施設です。城田さんは、そのような女性の一人としてここで生活し、この碑の建立を願い、当時の施設長だった深津文雄牧師がサポートしました。願いが実現した城田さんは、ご自分の過去からある程度癒やされ、安らかに生涯を終えました。この碑は、安心・安全が求められる施設に個人の願いで立てられたモニュメントなのです。法人としては、現入所者の生活を優先しなければなりません。故人から引き継いだ大切な遺産として、粛々と保存していきたいと思っています」
日韓双方にそれぞれ課題を抱えているとしても、ツェルナー教授の言う通り、日本政府が韓国に寄り添う姿勢なしの解決は難しいのだろうと思った。城田さん本人と会ったこともあるという五十嵐施設長も、正面から向き合う必要があると言う。
「河野談話、村山談話で国が出した『お詫び』に立ち戻り、日本が戦時性暴力の防止に先頭立ってアナウンスし、活動すべきです。韓国政府と一緒に手をつなぎ、穏やかに平和にやるべきです」